森の散歩

アクセスカウンタ

zoom RSS 『運のいい人の法則』

<<   作成日時 : 2017/07/08 08:51   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

英国の心理学者リチャード・ワイズマン博士が10年間の研究で、4つの法則に気が付いた。そもそも運は数学的に研究できるはずのものだ。数学そのものが人間のものの見方によっているだけで、人間のほうで勝手に論理的であると思い込んでいるだけの代物で、実際は文学などの直感的想像の範疇に入る代物だからだ。

ワイズマン氏は心理マジックで有名なDAIGOのページで見つけたのだが、ワイズマン博士もマジックの裏に潜む心理分析のとりことなり、ついには心理学者になったのだそうだ。

読んでいると、交通事故によく出くわす人の記述があり、ふと学生時代に、毎週一回は交通事故を見かけるし、電車に乗っている際その電車に落雷があったという男のことを思い出した。そうして彼とほんの数回出歩いている際、実際に交通事故現場に遭遇したのだ。そのほか彼と一緒にいると妙なことばかり起きるので、本人のせいではないと思いながらもいつの間にか疎遠になった。あれが単なる偶然であるとはとても思えない。学校や社会で教わった通念に従って盲目的に行動するだけの、95%以上を占めるであろう唐変木の常識人たちの論理ではわかるはずもないものだ。

運とかツキに関しても、高額宝くじに続けて何回も当選などというのは確率的にあり得ないことで、説明できないことだなどとよく言われる。しかし、先日の関英夫博士の『高次元科学』など当てはめると、すんなり説明できてしまうようにも思える。どうということなく説明できる事柄のようにも思えるのだ。通念というのが常に正しいわけではない。それは社会をうまく回転させ国家を拡大しようというたくらみの中での話に過ぎない。

人間の性格は五つの単項目の組み合わせによっておおむね記述、分類可能だという。「協調性」、「誠実さ」、「外向性」、「神経症的傾向」、「開放性」というものだそうだ。誠実さとは正直ということではなくて熱心に事を運ぶかということのようだが、前2者の「協調性」と「誠実さ」に関しては、運のいい人と悪い人で差はみられなかったという。しかし、どうやら大前提として運のうち最大のものは金運であると無条件に決めつけているようなところがあって、この点にいささか疑問を持った。

それに運のいい人は外交的で見ず知らずの人にも気さくに話しかけるなどとあったが、これを普通の人が真似たら逆に危ないのではないか。「知らない人には話しかけてはいけない」と警察ではいつも注意しているように思う。どうも欧米の映画など見ていると、知らない人の車になど安易に乗り込む場面もちらほらする。これはあまり参考にしない方が無難だと思う。まあ、向こうから話しかけてくるときは話しかけてくるもので、いったんそうなったらしばらくは毎週のように誰かに話しかけられる。一通りそうした時期が続くと、そのあとは急に静かになる。ランダムにそうなるというならまだわかりやすいがこれがなぜなのかよくわからない。といって、背後から歩いてゆくと、中年のおじさんなどでも、まず走って逃げられる。子どもなんかだと3人連れくらいでも走って逃げてゆく。足音のせいかとも思ったが、どうも違うようだ。前からだと誰も逃げない。

まあ、国民性というのもあろうから、この人の話もあまり日本人には当てはまらないかもしれない。日本だと、たまたま旅行の席を隣り合わせにした赤の他人と、何時間も互いに無言で過ごしたままというのもしばしば起こりそうだ。江戸時代の物語などでは、急な雨降りでたまたま雨宿りの軒下で見知らぬ他人にいきなり話しかけるというのが当たり前であっただろうが、現代日本ではそんな場面で会話に花が咲くというのはかえって少ないのではないだろうか。それどころか、見ず知らずのものに話しかけるのは痴呆の表れなどと、しばしば話題になっているようだ。これは初対面の他人と気軽に握手をしたり接吻をする習慣が日本にはないということとも関係しているようにも思う。いつだったか、「すれ違う人同士があいさつできる街」というテレビCMがあったが、そのようなことをしている都会人など皆無に近い。ただアメリカ人だろうか、欧米の人に時折そうした人を見かける。クリスチャンなのかなんだかわからない。韓国だか中国の人だか知らないが、外国なまりのある日本語で、グループで同時に「こんにちは」と声をかけられたことがある。同時に聞かされると、独特の振動があって耳に心地よい。そういうことをしているのは大概日本人ではないのが難点で、うちの隣組などはごみの捨て方が乱暴で、いつも掃除をしているのは近所に住んでいる中国のおばさんだ。日本人のほうが多いのに、後片付けは他人に任せて知らん顔という態度はダメだと思う。

しかし、それでもお互い島国という点では、閉鎖性という点において日本人とブリテン人とは少しは似通った点があるのかもしれない。少なくとも、イギリス人だったら、ブラジル人やフランス人のように「一年中毎日8時間も働く日本人はキチガイ」などという言い方はしないだろう。開放的な社会は日本人にとってはともすると危険地帯に映るかもしれない。国民性という話で思い出すのだが、以前道を聞かれたときに感じたのだが、韓国人というのは歩くのが平気なのか、やたらと一緒に歩きながら話をするのかもしれない。一人は1キロほど、もう一人は3キロも一緒に歩いた。例が少ないので断定はできないが、アメリカ人などだと立ち止まって話をするような気がする。古代ギリシャなどのポリスでは行きかう人はみなあいさつを交わしていたに相違ないが、そうした社会のほうが現代の殺爆とした社会よりも良いと感じている人も多そうだ。それなのに人間は反対のものに惹かれてそちらを選んでいる。

ともあれ、運のいい人に共通する特徴は「(重要な決断において)直感に頼る」ということが分かったらしい。どうも義務教育などを通じて、その後の社会生活での常識でも、「賢明な人物は直感に頼らない」ということが強調されてきたように思う。だからこのことはやや意外な驚きだ。政府が望んでいる理想の平均人とはどういうものであるかを思えば、論理的にはこれは必然である。つまり、一般的通念における善人とは運の悪い人なのだ。

直観力を養成するベストな方法は、「頭を空っぽにする」、「瞑想する」、「静かな場所を探す」などで、要するに、孤独に近づくことのようであるが、世間ではいつも仲間と行動を共にするのが望ましいように教唆している。運の良し悪しも相対的であって、悪運を呼ぶものがいないと幸運は訪れない。貧乏人がいなければ金持ちもいない、あるいは頭の良いものが存在するためにはバカの存在が必要不可欠だなどというのも同様である。運のよい人に際立っている習慣は「瞑想する」という習慣だそうで、2倍も違うそうだが、これは「外向性」のファクターを強く持っている人間には概してやりにくいことだ。「内向性」のファクターが強いものが迷走するのは案外容易らしいが、こうしたものが外見上すぐわかるものに興味を持つことは少ないだろうから、他人が見ると、彼が心理を発見した幸運者と自分自身で自覚していたとしても、単にはた目から見たらそうは見えないということに過ぎないのかもしれない。多分そうだろうと思う。

「直感が語りかけるというのは、一匹のチョウチョが心の中を横切るようなもの」という表現が本書の中にあった。運を捕まえるにしろ、その運というのが万人共通の辞書的世界内のものであるとも限ったものではない。フランシス・ベーコンが愚かにも絶世の美女を選んだ青年の話をしていたのを思い出す。彼は知恵を選ぶべきであったが、富ほどの価値もない恋人を選ぶとは実に愚かしいことだという。精神的存在から物質的存在へと出すにつれ、継続の力はなくなる。神→金銭→女性の順である。

より大きな違いは、将来に対する展望なのかと思ったが、予想していたほど顕著な差はないようだ。もっと、0対100といった極端な異なりを予想していたのだがこれはかなり意外だった。どうして運が良いと自覚しているような人が、将来鬱状態になったり自殺未遂に陥ったりすると思うのだろうか?質問の仕方がどこかおかしいのではあるまいか。

往々にして巷では「対岸の火事」だとのんびりしているものはおろかだなどといわれるが、どうやらそういうタイプの人は運が悪い人らしい。昔ケインズが言ったらしいが、株式売買で成功するのは能天気タイプだというのと似たような話だ。先行き悲観論を述べるというのはいかにも賢そうに見えるのだろうか、大衆風になびくのはこのタイプの人間である。そこから推しても運の悪いのは御しやすいのだということがいえる。早い話、他人と同じように行動する9割以上のものは大概運が悪いのだ。そうしたもの達と比べれば、自分で考えて動けるもののほうが運というものに左右されないだけ運が良いということになる。

それで「運を鍛える4つの法則」というのを順番に並べると、@チャンスを最大限に広げる、A虫の知らせを聞き逃さない、B幸運を期待する、C不運を幸運に変える、となる。特に2番目の点については、教育機関を通じて「そういうばかげたことをやってはいけない」と散々言われ続けてきたような気がする。「協調性を持て」だとか「空気を読め」などとは実に不幸になる教えであった。過労死するものなどこの罠に陥ったもの達だ。この法則その2は、「運のいい人は直感と本能を信じて、心の声に耳を傾け、正しい判断をする」ということだそうだ。多分イエス・キリストのような人のことをいうのだろう。信仰があれば山も動くということである。誰とも気軽に語りかけるという点では全くイエスは運のよい人のように思えるが、宗教者というものは内向的なものであって、イエスが外向的であったとはとても思えない。もっともイエスは半神であって人ではないというなら、マホメットやソクラテスをあげてもよい。彼らにしても内向的であっただろう。もっとも、神の個であっても、人の子であっても、それは人間側の勝手な論理であって、精神とはロジックの通用しない世界のものだというのが真相だろう。この辺に、外界での活躍だけを運の良さと強引に結びつけようとする作者の意図を感じる。「成功とは収入の多さのことだ」などと当然のことのように語るものが多いのは残念だ。それは産業革命以降にできた風潮に過ぎない。せいぜい35歳くらいまでに思考停止したものはすべからくそうしたもの達である。悪いことにそうしたもの達は口が達者だから、往々にして「教祖」などと崇められたりする。彼らは哀れにも、世の中には「怠ける権利」なるものがあることも知らない。確かおととし、「断捨離」の思想を持つものを「リッチな生活」とみる風潮があるのを多様性の表れでよい兆しだと述べたが、一方で頑なに金銭的な富に固執する保守的なものも多い。元来正しく思念し、正しく行えば、すべてのものは無料なのだ。ただで済むもののために労働にいそしみ、金を稼ぐなどとは極めてばかばかしい行為だ。

イエスのように山を動かせるというほどのものではないが、もっと小さな運というのは、教育によって確かに好転することをワイズマン博士は発見した。小さな事ならば、思考はおそらくどのようなものにとっても現実化する。そうして人々の行動も、気体分子の流れと同じように統計で予測できる。昔アイヒマンが、「1万人の死は統計でしかない」といったようなものだ。のちになってこの言葉は脚色されてスターリンが言ったように伝えられてきた。歴史というものは個人個人の好みにより作られる。客観の世界が実在するなどというのは単なる創造の産物に過ぎない。思考というものがなければ世界は存在しない。そもそも宇宙というものは認識と同時に刻々と生成されるものであって、認識するものがなかったならば在ることはあり得ないものである。

運のいい人の法則 (角川文庫) [ リチャード・ワイズマン ]
楽天ブックス
角川文庫 リチャード・ワイズマン 矢羽野薫 角川書店 KADOKAWABKSCPN_【ニコカド201


楽天市場 by 運のいい人の法則 (角川文庫) [ リチャード・ワイズマン ] の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



☆本文でも述べたが、果たして収入を得ることが成功の目安といえるのかどうかには大いに疑問を感じた。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『運のいい人の法則』 森の散歩/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる