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zoom RSS 「仏教の思想5」…絶対の真理〈天台〉

<<   作成日時 : 2017/10/07 08:33   >>

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日本仏教の母といえば天台宗だといえるとは梅原氏の解説でなくても普通に考えてみてもそういうことになる。その前に今度の本は中国天台だ。仏教の方の人としては、田村芳朗という1921年生まれの東京大学名誉教授が執筆している。

お経の書というと何か哲学めいたものを感じるが、そうではなくてあれはむしろ叙事詩なのだ。マハーバーラタやラーマーヤナと同じ類のものだという。見方を変えれば確かにそうだ。ことに法華経などは叙事詩的な色彩ばかりであって、奈良時代の学生はああした叙事詩物語を教科書にしておよそ楽しく暮らしていたのかもしれない。経典が叙事詩らしからぬのはそれが中国で経典として訳されたからであって、もしもマハーバーラタがお経として訳されていたならばたぶんそれなりの形式を以て現在に伝わってきたことだろう。

本巻は天台について語っているのだが、大乗の夜明けのようなことも語っている。なぜ釈迦は小乗の教えを説いたのか。それは方便というものである。今時の教育指導方針にのっとれば、歴史の経緯から見て最も単純な釈迦の説いた小乗の教えを釈迦の最善の教えと受け取るだろうが、誤った妄念を抱くものには誤った教えのほうが適切な場合もある。釈迦は無限の過去に成仏していたというのが有名な自我偈なのであって、この意味するところは、釈迦は死んではいない。永遠に生きて説法を続けているということなのであり、これこそ仏教が長い間追い求めていた永遠性というものである。そう梅原氏はいう。それが法華経に至って明白に解き明かされたのだ。

田村氏は、老荘思想の有に対する無は、仏教の空の概念とは違うと書いている。多分荘子や老子の思想全体には空の思想もあったのだろうが、中国で老荘思想が成立するにつれ、その概念は消えていったものと思う。おそらく創始者の論理というものはだれでも大差ないのだろう。しかしそれを解釈する社会の下敷きが大幅に異なるので違ったものが出来上がるという仕組みなのだろう。『無限の世界観〈華厳〉』のところでは書かなかったと思うが、昔辛亥革命のころの章炳麟は、華厳を読むと荘子の『斉物論』を読んでいるような感じがするといっていたそうである。またある学者は、道元の『正法眼蔵』は老荘思想と全く同じであると断言しているという。違う違うといっても、案外見解によっては同じなのだ。それならば偉人の思想ともなれば互いに重なり合う部分が相当にあることも大いにあるだろう。

やはりここでも鳩摩羅什による空の概念の伝来について述べられているが、浄土の概念から見た様子と、今回のように天台の法華経の概念から見た景色では、同じものでも異なったもののように見える。人間の認識作用においてはそれが普通なのだ。

ひと先ずここでは天台智の生涯ということに触れているのでそれをメモしておこう。538年、荊州(湖南州)の華容に生まれたとある。南朝の名門で、俗性は陳といった。後の陳王朝(557−89)の一族らしい。坊さんというと質素倹約で貧乏なようだが、家柄は相当な血統書付きというのが多い。今でもそうだろう。天台智の父の陳起祖は梁の時代(502−57)に政治の重要なポストについていたという。ところが梁の元帝の時に、北朝の西魏が侵入しきたり、元帝は降伏し、親族はみな捕虜となった。554年、智の17歳の時であった。間もなく両親もなくなり、無常を感じて出家したという。18歳であった。徹底して法華経を学び、38歳の時に天台山へ赴き、11年間の山上生活を送った。天台入山の前年の574年に北周武帝の廃仏事件があったから、それも影響しているかもしれないという。山にこもったといっても、修禅寺(禅林寺)を造営したりしているからやはりかなりの力はあったようである。597年に60歳で死去するまでに、陳の金陵に戻ったり、隋に招かれたり、諸国を漫遊したらしい。浄土教のほうが200年以上も早く起こっているが、どうも天台宗のほうが古いというイメージがある。

さて、表題でいう「絶対の真理」とは何か。それは「空」の概念である。あるものでもないものでもない、精神でも肉体でもない、男でも女でもないもの、それが絶対の真理である。『法華経』はさらに積極的に表現して、「一乗妙法」といった。宇宙の統一的真理のことだ。もろもろの存在は、個々別々にではなく、相関係しあって存在している。すなわち不二一体が存在の真相である。この不二一体なる真理を『法華経』は一乗の妙法、すなわち宇宙の統一的真理と表示したのである、と田村氏は語っている。

無限絶対の真理は、万象の背後の奥深いところに隠れて存在するとか、それとも唯一神の様な超越した存在がどこかにあるなどという見方がある一方で、真実は具体的事物の中にしかないという考え方が出てくる。西洋思想は徹底的に前者の立場であったとする人が多いと思うのだが、田村氏の見解はそれとは異なる。西欧で具体的事物の重要性に光を当てた最初の人はヘーゲルだという。この本は1970年以前に書かれた部分が大半であって、そのころと今とはだいぶ様相が異なってはいるだろうが、レーニン(*)になると「真理は常に具体的であって、抽象的真理は存しない」と明言されてくるそうで、こうした考え方は天台智の考えと近いのだそうである。「差別多様の世界にこそ普遍の真理がある」とするのが天台智の考えであった。ヘーゲルやレーニンの思想に比べると、天台智の思想は円環的であって生成発展にかけるという西洋哲学者の見解にはそれなりの根拠があるそうである。
(*)レーニンはとかく世の中を滅茶滅茶にした張本人のように思われているが、どうも暗殺未遂の目に遭って、鉛の毒が脳に入ったのが原因で大失敗となったらしい。

そこで、中国においても、より真理の純一性を求める華厳思想が天台思想と相まって生まれてきた。雑多な現実相に対して普遍的真理を無雑純一なものとして対置することによって、その間に生成力動が起こるからであるという。これを「性起」と呼び、天台哲学の「性具」と対比している。天台6祖の妙楽大師湛然のころ、華厳では清涼大師澄観(ちょうかん)のころだという。湛然が草木などの無情にも仏性があるとしたのに対し、澄観は有情に限るべきだとしたのは、見解の相違をよく表していると思う。最澄が天台思想を伝授されたのが湛然の弟子の道隧と行満であった(804−05)という。

その後時代が再び変革期に入ると、中国天台も衰退した。ただ一人禅宗だけが唐末及び五代(907−60)の騒乱の中にあっても栄えたとある。衰退期を経て復活が始まったころには天台は原始天台の山家派と、華厳張りの山外派に分裂していたそうだ。そもそも仏教の空の概念からすれば、原始天台が正しいということになる。仏に悪在りなどとする「性悪説」などもここから出てくるものなのだが、あまりの単純だと人間とはどうしても面白くなくなる。どうしても事物の中に深遠な理想的真理を見出したくなるもののようだ。古くはインドにおける中観と唯識の対立もそうであり、将来は日本における天台本学思想と鎌倉新仏教の対論であった。本学とは『大乗起信論』の本学の意味を拡大解釈して、生成・変滅する現実の姿こそ、永遠・普遍な心理の生成躍動の姿であり、そこにこそ、ほんとうのいきた真理があるとするものだそうだ。逆に、現実相を捨てて立てられた真理は、仮のものであり、死んだものであるとされる。こういう風に言われても、仏教は概してそういうものだという印象しか受けないが、簡単に言うと、天台本学思想の絶対的一元論に対して、法然は相対的二元論、親鸞は「総体の上の絶対」、道元と日蓮は「絶対の上の相対」だという。賢者の思想が如何に似通っているといっても、プラトンのイデア論に現実相の優位さを見て取るという見解を持つことは非常に困難だろう。ヘーゲルが我慢できなくなって、絶対精神の自己展開の方式を持ち出したのも、叡知が欲しくなったからだろうと思える。そうすると、天台の修行がひねもす南無阿弥陀仏と唱えるというのはどいう理由なのだろうかとも思える。ことによると今とは少し異なる意味合いがあったのかもしれない。今は葬式仏教だから、死者の供養の南無阿弥陀仏を用いないのは少しあまのじゃくであるといえるかもしれない。その代わり、本来の意味とはやや転倒しているかもしれない。

最澄と同時代の空海の築いた真言密教は極めて完成度の高いものであった。空海は天台宗よりも華厳宗を上位に置いている。さらに最高位を真言密教であるとしている。密教とは神秘術であり霊的なものでしかない。だから天台比叡山は人格完成の道場であり、真理探究の学山となったのに対し、真言高野山は秘宝伝授の霊場、神秘体験の霊山となっていった。学山と霊山の違いである。学山からは日本の大いなる宗教のすべてが生まれたが、霊山は何も生み出さなかった。生成動力が宿っていると外見的にはそう思えるもののほうが実際には無果実であった。

仏教の根本原理は「空」であって、天台智の最も重んじたのも「空」であった。本書でも、何度も空の重要性を説き、小乗は正しい空の捉え方をしていなかったというニュアンスである。小乗の方が優れているという人がいるかと思えば、大乗が勝っていると説く人もいる。末法の世にふさわしいのは大乗だといってみても、それは人間の勝手な認識だといえばそれまでのような気がする。何か理屈を言えば必ず対立が生まれる。それでも理屈を解き明かしたいというのが人間の本質だ。天台の三諦は「空・仮(現実)・中」であり、これをヘーゲルの弁証法と比較してみると興味深いものがあるそうだ。

三諦を根幹として、天台智は仏教の諸思想・諸経典を4つのブロックに分けた。蔵・通・別・円がそれである。蔵経とは経・律・論の三蔵経の意で、ここでは小乗仏教を指すということだ。事物をそのまま空と観ずる大乗の優れていることを述べているそうだ。説一切有部などは仏教式唯物論だというのだろうか。現代科学の考え方も唯物論でしかない点では説一切有部よりも劣るのかもしれない。こうした思想を「拙度観」という。これに対して次の通教は「巧度観」だ。『般若経』がこの代表である。蔵教、通教とも、現実界にある(界内)。現実界にないものを界外(かいげ)というい、別教、円教がこれに属する。別教の代表が華厳経である。円教にもっともかなうものが法華経である。法華経は宇宙の統一心理を明かし、理想と現実の相即した総合的な世界観を説いているからである。これに対し、華厳経は、真理を統一・無雑な形で掲げ、それに基づいての超勝的、理想的な世界を描いている。よって法華経は華厳経に勝るが、空海にとっては華厳経が法華経に勝っていた。界外だからどちらも自由だといえる。

天台智の教相判釈に「五時八教」というものがある。これくらい様々なことを一人の人間が語って相矛盾したところはないのだろうか。朝日が昇るとともに、真っ先に上るものが華厳であり、それだから華厳は頓悟なのだという。五味で分類すると乳味なのだという。赤子が突如生まれた時は乳しか飲めないから、たとえでいっても妥当である。正午が法華であり日没が涅槃であって、それが醍醐味だ。醍醐とは発酵が一番進んだチーズのことらしい。釈迦の時代からインド界隈では乳製品からのチーズ造りが盛んであったようだ。悟りの濃さをチーズの濃さに比しているようなところなど面白い。チーズといってもインドでは牛を殺せないので、孔子を殺してその第4位から採取される酵素「レンネット」が使えないので、別のやり方で乳を凝固させていた。加熱や酸による方法と、植物性の酵素を用いる方法の2つだという。熟成をさせないとまずいから、醍醐というのは多分後者だろう。バターに近い硬い食べ物だという。

筆者は、キリスト教は霊と肉、あるいは善と悪を2元峻別したといっているが、その根拠としてあげているのはすべてパウロの言葉で、イエスのものではない。「パウロがキリスト教を滅茶苦茶にした」と主張したのはかのアドルフ・ヒトラーである。「働きたくないと思うものは食べてはいけない」などと、イエスが聞いたならばさぞ腹を立てるだろうというようなことまでパウロは平然と言い放っている。それは信仰心にかけるからだと、イエスならば言ったであろう。信仰があれば山をも動かせるというのがイエスの主張であった。霊や肉は関係ない。だから偉大な人物の根幹はおおむね似通っていただろうと思うのである。後世に広めて通念を築き上げるものの言動が問題だ。

もっとも、キリスト教の方でも、善と悪を必ずしも峻別したものでもないそうである。アウグスチヌスの善悪相即論はプロティヌスの影響を受けて生まれたともいわれているが、案外イエスもそう思っていただろう。全の時間的経過の産物が悪であるという説は楽観的過ぎると、キリスト教内部からも当然批判が起こった。だからキリスト教は今では悲観の仮面をかぶっている。では神はなぜ悪を作ったのかというと、ライプニッツの『弁信論』に、「悪は善への不可欠条件」というのがあるそうだ。悪がなければ善は眠ると説いたのはシェリングだそうだ。そもそもの楽観主義を当初から保っているのは仏教であるが、世間では逆のように言われている。全く大衆のやることはさかさまが多い。

仏教でも不二を重んじる点は同様である。世の中自然を見ると、2つの対立する要素からできている。その代表が脳である。半球ずつ対立して一つの命を生んでいる。ちょっと考えると、最小要素は「3」であるかのようだ。しかしそれは頭の中の妄想なのだろう。古来「三は天地人の道なり」などともいうようだ。「2」で万物を構成している。電荷にプラスとマイナスの2要素しかないようにである。あるいは光の波動も2方向の振動である。二者の対立から新たな行動が生まれるのだが、それを新たな現実だと思ってしまうのが問題だ。先に述べた天台の三諦にも「3」が現れてくる。竜樹は「空・仮」の2者で止めたから紛れがなかった。天台の「中」には高さが出てきてしまうのが問題といえるかもしれない。高みからどうしても下方を見下ろすという概念が出てきそうだ。そこが西欧哲学者からは、円環の弁証法のように見えてしまうそうだ。ここのところ、梅原氏は二者の対立からものが生成するという思想はまやかしだと、弁証法には疑問を感じているようだ。大体にして、弁証法というのは、正と反との戦いの結果合が誕生するということである。それに対して、空と仮というのは対立するものでもないから、闘争とはいえない。3でも二つ続いて「33」になると何となく自然なイメージになる。理想とか発展、進化といったものにつきものの「動的」というイメージの中に宿る静止状態が出てくる。

ただ天台智になると、「悪はこれ善の資なり。悪なければ亦善も無し」と、むしろ悪の要素がなければ善行などできないといった印象を与えてくる。これが小乗と異なる大乗の極意だという。そういえば黒の下地がなければ白が映えないように、悪の下地がなければ善の輝きもないように思える。病気もちでなければ健康に気付かないようなものではないか。病気があったおかげで健康なものよりも強靭な肉体を持つことが出来るように、悪があったおかげで常人に勝って善行を積むことが出来るのだとも考えられる。原始経典に「天使」という言葉があるそうだが、天使とは「生老病死」のことなのだそうだ。苦難をありがたいものと思い感謝の念を込める姿勢はこんなところからも来ている。その姿勢があからさまに出ているのが『法華経』だという。我々は、「生老病死は苦である」と教わったが、もしもそれが方便というものであったなら、釈迦が本当に言いたかったことは「生老病死は楽」だということでもよさそうである。機根の低いものに「病気もちは幸福である」といっても理解できないから、真実の半分をとって「病気もちは不幸である」といったのだ。

仏教の道徳嫌いはここに端を発しているようである。キリスト教も大同小異だろう。ただ仏教のほうが世間の通念との乖離度が極めて目立つ。少しも隠そうとはしない。東洋思想はこう、西欧はこう、などといかにも得心したように語る者の世を知らぬことはなはだしさを知る。当然反道徳は仏教界にあっても非難を浴びる。日本では浄土宗西山派の普寂徳門(1707−81)が、性悪説は悪を肯定して現実に堕する危険思想だと評した。江戸幕府も後期のころである。

天台智ほど相対と絶対の違いにこだわった人も少ないらしい。西欧ではヘーゲル(1770−1831)がその明確な論理付けをしたのであるが、仏教側ではすでに6世紀に天台智がそれを成し遂げていた。今やポストモダン主義などという哲学も行き詰って、世はまさに相対主義の嵐で何をやっても自由という雰囲気だ。絶対ということの必要性を時代が感じていない。まあ、無知と結びついた絶対主義は相当な困り者だ。それならば相対主義の愚かしさのほうがましかもしれない。

宮沢賢治も石原莞爾も田中智学の国柱会に参加したが、賢治のほうは日蓮ではなく、法華経の魅力に取りつかれていたようだ。銀河鉄道の構想も、あれは法華経から来たらしい。銀河を胸に抱くとは、無限宇宙への自己投入を求めたもののようだ。

この角川の仏教の思想シリーズでは、日本の天台宗については扱っていないようだ。最澄のころにはすでに中国天台宗は廃れていたそうであるが、彼は天台に非常な魅力を感じたようだ。ひとをやって天台智の書を書き写させたという。山籠もりの最中にもそんなことが出来たとするなら、先にも述べたが坊主というのは相当の身分である。最澄の人類史上初の大創意発明というのが「大乗戒壇」の設立であったそうだが、生前は認可が下りなかった。それで最澄の学生教育について少しメモしておくと、彼は法華コースと密教コースの2コースを設けたそうである。法華コースが「止観業」と呼ばれるものだ。常座三昧は『般若経』に基づき、90日を一期として、実はもっぱら一仏を以て結跏正座し(結跏正座と書いてある)、口は沈黙を以て常とし、意はもっぱら一念もて法界にかける。黙然が出来なくなった場合は一仏の名を唱えて心の支えとしてもよい。仏は特に固定する必要もないようだ。これに対して、第二の常行三昧のほうは「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に酔ったもので、阿弥陀仏を本尊として、90日間その周りを廻り歩き、口にはもっぱら阿弥陀仏の名を唱えながら、仏を念ずる。日本における浄土教のおおもとだそうだ。かの日蓮も晩年には釈迦浄土(霊山浄土)に生まれ行くことを説くにいたった。霊山とは釈迦が最後に説法した霊鷲山のことだ。この言い方なら現実世界でない西方浄土を現実に引き戻すという手間がいらない。あまり面倒な真似をするとあの世の信仰になってしまう。阿弥陀仏を念じるといっても、浄土はこの現実の娑婆世界をおいてほかにはない。あの世に浄土があるなどとすればそれは相対の絶対であって妄想の絶対だ。もと天台智は絶対の浄土世界をを「常寂光土」と呼んだそうだ。しからば「阿弥陀仏は西方浄土に鎮座している」などというのは嘘八百なのだろうかという疑問も起こってくる。西方浄土という頭の中のイデアを現実世界に持ってくるという意味なのだろうか。ここで天台智減が涅槃経を午後に含んだという意味がほのかに見えてくる。そうしなければ絶対浄土、絶対一元の世界は築きえない。天台智の語る「相待」(そうだい)と「絶待」(ぜつだい)のちがいである。西欧のケルト神話の世界のことを思い浮かべる。最古の一神教と呼んでもよいのだが、神々が多数存在するので、短絡人が見ると多神教のようにみえる。現代風のポピュリズムによる決めつけにより多神教とされているだけだ。あれも西欧人なりの絶対の世界を築きたかったからであろう。しかし現実無視の「3」を矢面に建てたところが幻想的であった。「3」を多く語るものはおそらく現実を見ていないものである。この世の立体構造から考えてみると、三角錐を構成する4つの頂点をもつものが最も安定した配置であろうことから、4が最安定の数であろうことが察せられる。

ある浄土(娑婆)と、行く浄土(西方)のほかに、なる浄土(社会の浄土化)というものがある。この浄土の三観は相矛盾したものではなく、もともとは一体たるものであったという。時代背景に応じて、その時々で適時に生まれてきた解釈だ。現在、過去、未来の三体というか、個体・液体・気体の3様というか、すべて一者だ。現在が天台だとすると、絶望の時代の法然だけが過去を見、親鸞・道元・日蓮の時代は少し明かりがさしてきたので未来志向の宗教観が芽生えたともいえる。昔は円環の時代などともいわれるが、最も新しい日蓮の法華経が、最も古い天台法華経と最も類似しているそうだ。

第3が「半行半座三昧」である。これは方等三昧と法華三昧とに分かれる。方等三昧は7日を一期とし、陀羅尼を唱えながら仏像の周りを廻り歩き、終わっては座禅する。宇宙を観念する法だという。法華三昧とは21日を一期とし、方等に準ずる。懺悔が重んじられる。第4が「非行非座三昧」。およそ三昧であれば好きなようにやってよいという風に読める。詳しいことはわからないが、行住坐臥のいずれをも問わずというのだから、寝転がってやってもいいということになるが、本当に天台宗の修行スタイルにそんなのがあったのかどうか知らない。叡山の修行は厳しいものだというのが通念だが、どうもイメージが重ならない。

次に、天台智は、止観の本格的実践のための補助的手段として、5×5の25方便をあげている。その中でも、「息諸縁務」というのが目を引く。「雑事を差し控えること」と意訳をあげているが、「生活が多岐にわたらないよう、慶事などの人事・交際が派手にならないよう、多芸多脳に陥らないよう、博識弁舌を弄しないよう」ということが書かれているようだ。今のハウツー本が奨めていることなどすべてサカサマで役に立たない。ついでに「働きすぎは厳禁」というのをあげてみてはどうだろうか。どうやら「働けば働くほど社会は不幸で満ちてゆく」となってゆくようだ。社会全体のことを考えずに、個人の繁栄だけを求めて短絡的に働くことが果たして善といえるのだろうか。

また最澄の話だが、彼が最初の「山家学生式」を出したのが、52歳時の818年であって、叡山に大乗戒壇を設立することが願いであったそうである。そのころからすでに自分たちを山家と称していたらしい。当時は寺といっても、ここが学問の中心で、今でいう大学に相当するところだったと思う。だから「学生(がくしょう)」というと、今の「学生」と似たような意味で、学校だから、一時限目中国語、二時限目歴史、3時限目瞑想、4時限目梵語…などという感じの授業だったに違いない。学生相手だからそれほどきつい修業もなかったのかもしれない。きっと「荒行」など全くなくなっていったので、後世信長があれほど憤慨したのだ。その反省から荒行が生まれたのだと思う。

田村氏の見解を敷衍すると、天台がだめになったのはガラス張りになったかららしい。これは今の世の腐敗政治にもつながることかと思う。ガラス張りにしようとすればするほど権力筋の腐敗は進む。反対に秘密主義を貫いていれば、それなりに凝縮した律義さを維持していられる。「天台本覚思想は、とらわれるな、固定観念を抱くなということを強調し、ひょうひょう自在に人生を享楽することをすすめたのですね。そのはてに、とらわれなく、広く女を愛せよ、欲望に自然に身をまかすべし、悪をなすもまたよし、と説くにいたったのです。ここまでくるとあぶない。ですから、もとは一般には公開せず、秘密・口伝としたわけです。しかし、南北・室町時代になると、おおっぴらに公開した。結果は、天台思想自身の退廃を招く。・・・」という。天台本覚思想がはっきり表れてくるのは、円珍・円仁を経た、第18代天台座主、慈恵大師良源(912−985)あたりからだという。

如何様な聖人にも激しい悪の種、仏性の中にも地獄があるというのは、天台智の「一念3千思想」といったものに要約されている。ひとには地獄から仏乗までの10界があるが、その人う一つがさらに地獄から仏乗までの10界に分かれ、これがもう一段続く。だから最高の人にも悪は十分にある。最高の人にも最低の人の気持ちがわかるゆえんでもある。


終りに、梅原氏によると、天台智とアリストテレスはどこか似ているそうである。中国仏教の大成者とギリシャ哲学の大成者という点でも似通っていた。どちらも現実を重んじたということもある。アリストテレスには形而上学の著作もあり、今では思弁を重んじたかのように言われることのほうが多いが、それは師のプラトンの方であったろう。ただ両者の教え子の行動はひどく異なって伝えられている。アレクサンダーが世界の覇者であるのに、後に隋の煬帝となった晋王広のほうは親殺しの暴君であった。




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最近テレビで初音ミクのCMをやっているが、まだあんなとぎれとぎれの合成音しかできていないのかと思った。生身の人間でも、たとえば植草一秀さんなどはああいう話し方をしていたと思うが、非常に耳障りで聞き取りにくい。波長の合っていないラジオの雑音のようにしか聞こえない。調べてみると、確かビートたけしは「鰹節を粉にするのと、人間を初音ミクにするのは同じだ」といっていたらしい。エキスにしようとしても現在の技術ではまだまだ無理のようだ。コトバの上ではメトロノームの音なども「純音」と呼んでいるが、よもやメトロノームの音が純粋だなどと思う人はごく少数派だろう。つまり純音がエキスだなどと思う人はまれだし、もしかしたら古い科学を信奉する唯物主義者かもしれない。初音ミクの声に倍音が組み込まれていなかったとすると、エキスどころか不純物に感じられないこともない。ただビートたけしでもそうだと思うが、そうしたものがだめだといっているわけではないだろう。性同一性障害者がだめではないのというのと大体同じ理屈だ。社会に迷惑をかけないという点では、家をゴミ屋敷にしているものよりましだといえそうだ。


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