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zoom RSS 『古仏のまねび〈道元〉』

<<   作成日時 : 2017/11/04 08:18   >>

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禅は仏教の中で最も老荘思想に近いという学者もいるそうである。しかし、最も体形のない自由な思想であるから、同時にもっとも遠い派もありそうな気もする。近い派が最も多いということだろう。体系のなさは陳腐化につながる。簡単なもの思いで悟ったような気になる者の多いことだ。つまり一般社会に害毒を振りまく温床になりかねない。そこが最大の欠点といえる。今時禅などやるものは幾許かは知らないが、どこの病院に行っても盛況なくらいにはにぎわっているだろう。それだけ見るとブームのように思うだろうが、全体としての割合がどうだかはわからない。

昔、禅の悟りはLSDによる神秘体験と変わらないというようなことを主張していた人がいた。禅は脳内麻薬の効果だという。ランナーズハイの強力な奴だといえる。そういう見方だと、愉悦を求めて禅の修行に励むといった感じになってしまう。釈迦は別に快楽を求めて座禅を組んだわけでもないだろう(*)。しかし、体系のない団体というものはまず厳格な規則というものを持たない。禅仏教というものも、その昔達磨大師が中国に来た頃は案外緩やかな放蕩系の教義だったのではあるまいか。人生の快楽を求める度合いは道教などより甚だしいものがあったために仏道一般からは異端とみなされていた。それがため、後の禅仏教を正当なものとして確立する際に厳しい戒律を無理やり設けて体裁を繕ったということも考えられる。LSD説なるものを敷衍すると、そういう解釈も生まれてきそうだ。
(*)『正法眼蔵』の「座禅儀」に、「座禅は修禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚(ふぜんな)の修証なり」というのがあるという。ここだけ見ると、座禅はお風呂と同じだと読める。身を清めてすっきり爽快になるように、心を清めて壮快になろうということだろう。どうも恍惚感を求めて座禅をやるものが多かったらしい。毎日の修行を怠って、座禅ばかり組んでものぐさになってはいけない、きちんと歯も磨かなければいけない、布団もたたまなくてはいけないということだろう。

先に述べたように、空海の説では、釈迦の経典のうちでもっとも重要度の高いものは華厳宗であったのだが、時系列的には禅宗の確立したのは唐の中頃であったそうだ。だから禅が老荘思想とおなじであったならば、仏教というものは退化してついには道教と変わらない水準の宗教までに衰微していったとみることもできる。しかしおそらく禅の根源は古くよりあり、それは中国発祥の偽教を軸とした、インドの正式な仏教から見たら眉をしかめる類のものだったのだと思う。禅宗でよく引き合いに出される「拈華微笑」などという言葉も、インド経典にはどこにもなく、まったくの創作だという。もっとも道元自身は、偽教でも道理にかなっていれば良しとしたらしい。どうも禅宗とは中国人の快楽を求める現世思想から生じたもので間違いなさそうだ。

本書は仏教シリーズの11巻目だが、執筆にあたったのは禅宗の専門家ではなくして、インド哲学全般に通暁している哲学者の高崎直道氏であるというのも、禅の背景に何か道楽めいたものが見え隠れしているためではあるまいか。道元はその中で最も厳格な分派を我が宗派としたのではあるまいか。道元の曹洞宗は、だから禅宗の中でも数少ない体系派に属するのではなかろうか。

まずは道元の生い立ちから見てゆく。大変家柄の良い出自である。正治二年正月2日(1200.1.26)、京都生まれ。父親は、久我道親(1149−1202);母親は、藤原基房(1144−1230)の娘;とされるのが一般だ。これは大久保道舟氏の『道元禅師伝の研究』によるものだそうで、母はかつて木曽義仲の愛妾だったそうだ。しかしはっきりと名乗っていないというのは空海の時よりもやや怪しい。道元が、村上天皇の7代目の子孫である久我道親の子であると年代記上はなっているが、8歳の冬に母が死んだことには触れている道元の伝記が、2歳時に死別した父親のことには全く触れていない。どうも父親がだれであるかはっきりしなかったという気もしなくもない。あるいは道元がひどく身勝手で父親に嫌われていたということも考えられる。今でこそ立派な聖人として通っているものの、正法眼蔵などを精査すると、かなりマルクス流の無手勝流の強引な解釈が散見されるということである。静かで学者風の人物だと思っていたら、案外気性の激しいところもあったのかもしれない。それで歯磨きのことまで細かな細則を設けたのだろう。わが心を鎮めるためだ。今のところのイメージはカール・マルクスというところに変わった。

道元が出家したのは14歳の時、天台座主公円(70代座主)の下での得度であった。早速翌年には不平不満を漏らす。気に入らなければさっそく文句批判をかますというところはなかなかモダンというべきか。貴族の出だから少々の我儘が効いたのか、時代が革命的だったのか。三つ子の魂百まで、あるいは栴檀は双葉よりなのか、こういう攻撃的なところは子供の頃よりあって、それで父親に疎んぜられたとも考えられる。まあ、今でも「一年や二年で音をあげるような奴はダメだ」などというが、それなら道元も駄目だったかというと、そんなことはなかった。流れに掉さすのも、機根に応じて時に懸命な行為となって歴史を刻むことがある。道元の行為が歴史に埋もれることはなかった。

道元が善しとしたのは栄西(1141−1215)の臨在禅であったようだが、何時頃からかははっきりしていない。出家以降としたならあまりに期間が短すぎるようにも思う。栄西の臨在禅では台密による鎮護国家が盛んで、栄西というのは大変世渡りのうまい人であったらしいから、道元が幼少のころからその名は広まっていただろう。後に永平寺において道元は栄西の命日に際して「師翁」と呼び掛けている。「師の師」という意味で、「師」とは栄西の弟子の明全であり、臨済宗黄龍派の戒の相承を受けた人で、その相承はさらに道元に受け継がれたという。道元がこれほど臨在禅に深く傾倒していたとは知らなかった。道元が中国に渡ったのも、師の明全と共にであった。曹洞宗の研究者ならばこのような書き方はしなかったのだと思う。人間というものは自然と身内のものを自分のように考えるからである。それと、このシリーズの内容は50年以上前のものなので、今では違って語られる部分もあるかと思う。単純に解せば、道元は日本曹洞宗の開祖であり、日本臨済宗の第3祖ということになりそうだが、どうも現今では双方がそれほど緊密であるとも思えない。

遣唐使が廃止されたのは894年、大唐帝国も落ち目でついに907年に滅んだ。この混乱の中で台頭したのが禅宗と浄土宗だった。ところが日本のほうはもう正式な国交というのは立っていたから、時折は商人などの交流もあっただろうが、そういうことはあまり知らない。特に坊主などの交流は全くなかったらしい。それで栄西らが久しぶりに中国へ行ってみたらすっかり様変わりしていて驚いたという。驚いたどころか、中国語で会話ができた道元などは向こうの僧侶とあれこれ話し合ってみて、まだ留学生気分の抜けていない彼には、仏教の教義にはむしろ日本のほうが通暁しているように見えたそうだ。向こうへわたって最初に疑ったのは、僧たちの口が臭いことだったという。口が臭いのは、修行が十分にできていないからだそうだ。心が清浄であれば、身体も清浄であるべきだからである。絶対の境地というものはそうしたものだと思う。道元が帰国した1227年にはジンギスカンが六盤山で死んだそうだ。全体的にすべてが中国漢文明の斜陽期であった。

さて、道元が師となる高僧を求めて天童山を後にし、異国の地ではるばる何日分も遠ざかると、果たしてその天童山に目差す如浄という高僧が赴任したということを聞きつけた。まあ、なんという先見の明のなさであったか。天眼通というようなものは微塵もなかったようだ。テレパシーというのはあったかもしれない。逆向きのテレパシーだ。波長が合えば近付くのが普通だと思うのだが、遠ざかっている。しかし、道元が果たして不感応なタイプであったのかどうかがはっきりしない。本当に不感応であったなら、そもそも座禅などしないであろうとも思う。そうするとやはり生来神秘の気質があって、こういうのを「啐啄同時」というらしい。もしも到着と同時に出会っていれば、雛は孵らなかっただろうなどとしている。


そうして如浄なる人物にしても、臨済宗に属する僧から天童山の住職委嘱を受けたそうだ。そもそも臨在とか曹洞という区別などのちになって日本で勝手に出来上がったものだという。宗派の別などという大げさなものではなく、道元も臨済宗の一派として学んだというに過ぎないらしい。高崎氏はこれを日本のしきたりに基づいての偏見だといっている。つまりこういうことを坊主がしてはならないというタブーを破ったような世俗の行いだとも受け取られる。案の定、恍惚を求めての瞑想主義の宗教に過ぎなかったのかと思うと少々残念な気もする。それで武家社会に人気があったのだろうか。区別を設けたものは案外邪心の持ち主だったかもしれない。

先に道元をマルクスに比したが、それは「身心脱落」という文句にも表れているらしい。如浄が「心塵脱落」といったのを聞き違えて、新説を作り出したともいう。もしもそれが本当であれば、これぞマルクス的だ。他にも、こじつけな解釈と思われるものがかなりみられるという。「悉有仏性」という文句にしても「悉く仏性あり」ではなく「悉有は仏性なり」と読んだそうだ。こう読めば全く老荘思想に近くなる。「一切衆生悉有仏性」などはどう読んだかというと、「一切衆生は悉有、仏性である」と読んだ。こういう風に読んでしまうと、まるきり意味合いが違ってくる。人間一人一人が梵天だという昔ながらのウパニシャド哲学のようにも見えてくるし、ますます汎神論的であって、空海などの密教思想にも近くなりそうだ。ついでに「一切衆生に仏性なし」といっても、これは「一切衆生に仏性あり」と同義ではなかろうか。正反対のものは突き抜けると反対側に姿を現すものである。顔を出したところをとらえれば仏性があるときもないときもある。

かなり偏った性格の持ち主だったらしい。おもだった仏教思想家の中では最も粘着質というか強迫神経質といえる人物だったように感じる。空海とは異なり、実践的なことには一切興味がなかったように伝えられている。それでも帰国後まもなく座禅専用の寺を開いているのは、かなりの権力があったということではなかろうか。完全に内気の虫だったなら、それは出来なかっただろう。在俗信者の援助により、1233年に深草の極楽堂に残っていた一堂を改築し、観音導利院と名付けた。すぐに興聖宝山寺と改名したらしい。しばらくここを根城に活動していたらしいが、京都では邪魔が入って思うようにできないので、北越に引っ越した。1244に開いた大仏寺である。ここも間もなく永平寺と改める。1253年54歳までここにいたがその年の8月28日に死去した。よくわからないが坊さんだから死ぬときはどこでもいいのかと思うと京都に戻って死んだらしい。妙に俗的に感じる。辞世の歌となったのが――またみんとおもひし時の秋だにも 今宵の月にねられやはする――であった。

道元といえば『正法眼蔵』というくらい有名だが、おなじ『正法眼蔵』でも、現成公案の出だし「仏道をならふというは自己をならうなり。自己をならふというは自己をわするるなり。」がやけにかなが多いのに、ほかの部分は漢字の量がやけに多く目につく。大体注釈を読んでも何を言っているのかわからないというところが多い。道元という人は日替わりで気分が変わる人だったのではないかと思う。坊さんというよりは学者タイプだったように感じる。現代社会でよく目鼻につく機械人間とは全く異なる。

そうではあるが、道元は人間臭さというものを嫌った。臨在などは「不浄を拭う古紙」(トイレットペーパー)といったり「乾屎橛」(糞かきべら)と言ったり非常に人間臭く下品であった。潔癖な道元には我慢が出来ないものだったらしい。「一人で裸でいる時でも陰部は隠さなくてはいけない」と語っていたそうだ。入浴時を念頭に置いた作法らしい。道元のような思想を無常説法といって、インドにはなかった中国独自の概念であって、それだから道元の哲学はしばしば老荘思想と同一視されてもいる。ただし、道元は梅の花を好んだ。白い雪中に咲く赤い梅の花だ。冬の厳しさは修行に向いていると踏んだのだろう。そこでは老荘のともがらが期待するようななまくらさかげんは味わえない。緩んだのはダメだったのだろう。道元からは禅はおおむね緩んでいると見えたようだ。そもそも禅宗などというものはまやかしだと思っていたらしい。大体禅宗の始祖は達磨だなどというが、達磨とは神武天皇のようなものではないか。架空の人物かもしれない。正体のはっきりしないものを始祖などというのは大嘘つきの宗教かもしれない。用心してかかることが大事である。そういえば、公案などというのも妙に気取ったところがあって、改めて気に入らない。着飾ったことを言うのはたいてい偽物である。『気取っている、気障だ、格好をつけている』という負の印象が禅家全般からは感じられる。

そうかと思うと道元というのは最初から最後まで法華経の信者であった。これは日蓮などと同じだ。生まれの違いでこれだけ離れたものを残したとしか言いようがないらしい。お寺の名前などにしても、最初は観音だとか大仏だとかいったごく普通の名前を付けているのに、後からいかめしいものに変えている。やはり貴族出身だからあまり平凡なものからはちょっと距離を置いておこうというのがあったのかもしれない。王侯貴族であれば、裸になることへの羞恥心などそれほどないようにも思うのだが、どうも貴族に対する反抗心のようなものもあったらしい。いずれにしても、喜怒哀楽の激しい人だったようで、これは肖像画などから推しはかるイメージとはだいぶ異なる。

梅原氏の描く道元像はどこか鳩摩羅什の時と似ている。絶望した母親がありったけの教育を施したというのである。道元が女性にはとりわけ優しかったというのはそのためだそうだ。同じ人の見解は大体いつでも同じようなものだ。別な人が評価すればまた異なる見解なのだろうが、それは現在も未来も同じことだ。

昔、臨在派の無着道忠(むじゃくどうちゅう)(1563−1744)は、道元の漢文の読み方のでたらめさ加減を批判したそうだ。まさに道元は誤読の天才だった。間違いなく手前勝手な新解釈で、かなり仏教本来の道とは離れるかもしれないが、恐ろしく生真面目な宗派なので邪教扱いされていないのかもしれない。梅原氏は、「誤解は願望に基づく」というフロイトの説を取り上げているが、道元は最も深層分析とやらを行いたい宗教家の一人だろう。

大体、道元の人間像というのは愛弟子の懐弉(えじょう)が書いた『正法眼蔵随聞記』によっている。いわば尊敬する父の人柄を描いたようなもので、いかなる欠点もたちどころに長所と捉えてしまうような代物である。そこで描かれているような聖人君子然としたのが道元の姿であるわけがない。

正法眼蔵95巻は、日本の思想史において当然出現した見事な哲学の書である、と梅原氏は語る。日本における最も深い哲学者だ。そのことは世の哲学者の総員が認めることだ。日本人そのものに大いに自信を得させるものである。そのように見ているようだ。あまり僧侶としては見ていないような印象も受ける。『正法眼蔵』にしても、100%透明化というとそんなことはなさそうで、結構人間臭いところもあるらしいが、世間が仕切りと褒めちぎる裏には、やはり『こんな難しいものを読むくらい自分は聡いのだ』と思われたいという下心が働いているのかもしれない。黙って了解するのが優れた書物に親しむときの礼儀だといえそうだ。

正法眼蔵の「仏性」という巻こそ、大乗仏教成立の根本にかかわる問を解決した記念すべき巻であるらしい。「仏性がもともと自然に備わっているならば、修行などする必要もないだろう」という問いだ。そこで道元は「一切衆生無仏性」のほうが思想としてはよりよいとしている。「一切衆生有仏性」といったのは馬祖道一の法子の塩官斉安で、「一切衆生無仏性」といったのは馬祖の法孫の潙山霊祐だ。また、「犬に仏性ありやなしや」と問うた人がいたが、趙州はあるときは「無」と答え、ある時は「有」と答えた。要するにどちらにもなりうるのだ。光が粒子にも波にもなりうるのと同じだ。衆生も粒子にも波にもなりうるであろう。

たとえていえば、光は波である場合のほうが圧倒的に多いのを、「光は仏性を持つ」と言い換えてもよいようなものである。ひとが認識した時に仏性の役割は終わり、無仏性となる。万象にあまねく広がっていた光波もすべてその一瞬に消え去る。ひとの場合には重さの霊というものにより、常時波であることは不可能だ。したがって仏性はほとんどの場合にはない。だから「衆生悉く仏性無し」という方が圧倒的多数だ。道元の思想はしばしばハイデガーと比べられるが、最も異なる点は山川にも生命意識があるという点だろう。森羅万象に仏性が宿っているという点で、人間だけが特異なのではない。恒星の輝く仕組みが解き明かされるようになってきてもなお、人間だけが思考を有しているという妄念を頑固に持ち続けるというのもかなりおかしな文明である。

お終いのページに1995年当時の中国やチベットの僧侶の瞑想の様子が書いてある。日本のようにポーズをとって座禅する風習などどこにもないようだ。案の定どちらかというと遊びから発祥したものが禅であったのだと思う。

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