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zoom RSS 『フロイトとユング』

<<   作成日時 : 2017/11/11 08:36   >>

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講談社学術文庫の昔の対談集だ。原本は1978年11月に思索社から出版された。40年ほど前だ。河合隼雄(1928〜2007)がユングの孫弟子、小此木啓吾1930〜2003)がフロイトの孫弟子にあたるそうだ。小此木さんは医学部だが、河合さんは京都大学の数学科の出身。本ではユング派の人々を「ユンギアン」、フロイト派を「フロイディアン」と呼んでいるが、あまり聞いたことのない言い回しだ。始祖名に[-ian]をつけただけだが、今までこういうのはきいたことがない。自分自身をこのように赤の他人のグループの一員として定義づけるまねなどよくできたものだと思えなくもない。私としてはこんな命名法には大反対だ。

フロイトのほうは平均的人間だったが、ユングのほうはちょっとばかり離れたところにいた。家系的、遺伝的に通常とは異なっていたという意味だ。母方の祖父は、神学者としても名の通った牧師であったが、幻覚を見たり、霊界と交信する能力があったという。祖母も透視能力があり、また母親も幽霊の目撃や、予知現象などの様々な超常現象を克明に日記に残している。母親と祖母は1885年から4年間にわたり「降霊会」を主宰している。ユング自身も自分の前世を断片的に記憶していたという。従妹のヘレーネほどではなかったにしろ、ユングも爆発音のようなものを比較的任意に引き起こすことが出来た。今でいう超能力者であったと考えられるとは『あの世の科学』の天外伺朗氏の話。通常とは距離のある人はユングに惹かれるだろう。自分では当たり前だと思っていることを正直に話しているのはユングの方だと思うからだ。

小此木氏は日蓮との因果が深いそうだが、フロイトと比べれば日蓮の哲理の方が上回っているかもしれない。フロイトはちょっと道半ばといった感じだ。フロイトは女性に関しては概してタンパクで、妻マルタに対しては熱烈な文通を続けた末の結婚だったらしいが、愛情を注いだのは男性ばかりだったという。それに対してユングのほうは女性ばかりで、これは対称的だという。とりわけユングは、元患者であった富豪の娘トニー・ウォルフ(1888−1953)を緊密な仕事仲間としてもこよなく愛した。ユングの細君の方も、面倒なことは彼女がやってくれるのでむしろ感謝していたようだ。12歳も年下であったが、ユングよりも8年ほど先に死んでいる。トニーの父親は長いこと日本で暮らしていて、日本語も堪能だったという。それで東洋に惹かれるユングには彼女が魅力的に映ったのかもしれない。しかし、他人のことはよくわかるが、自分のことは皆目わからないという極端な女性だったらしい。

フロイトの場合には少しばかり同性愛的な傾向があったようだ。反対にユングのほうは異性愛のほうが顕著であった。どちらがどうだということはなく、社会の雰囲気だ。どうも地位や権力に恵まれると、権威の象徴として不毛の男娼を侍らせるというのが上流階級のたしなみであったらしい。昔将棋の舛田九段は「無駄が文明だ」が口癖だったそうだ。その思いに同性愛は含まれていたかどうかは知らないが、同性愛というのは無駄の象徴のように思える。けれども何となく優雅な印象を感じないでもない。文明の証といえば文明の証だ。日本では明治維新による西欧文明受け入れまで、男色は富裕階級の常識であって、むしろ礼儀作法の一部とみなされていたのではないかと思うくらい当たり前であった。貧しいものにはとてもまねのできない風流であって、茶や生け花といった芸事の一種だったのかもしれない。だから日本では大しておかしなことだとは思われていなかったように思うのだが、これが西洋に行くと、同性愛は何かよからぬことのように見なされていたようだ。プラトンなども初めは、幸福者の島へ行けるのは異性愛などという不純なものではだめだなどと息巻いていたらしいが、次第に世間の波に押されて、晩年は「同性愛は不毛で子孫を残さないから悪である」などとしなければならなかった。日本とは反対に「病的なもの」とする見解があったようだ。ユダヤ人社会では、遺伝的に同性愛者の割合が高いらしい。だから仮にフロイトが完全な同性愛者だったとしても別段驚くほどのものではない。

所がフロイト自身は男性に対する愛着が強かった性質であったのに、彼の後を受け継ぐものが女性ばかりであったのをひどく気にしていたらしい。愛情が露骨に表れすぎて、結局は衝突の勢いで憎しみに転化してしまったのだろう。それでフロイト学説を受け継いだのは娘のアンナ・フロイトであったが、彼女の教育相談を受け持ったのがザロメという女性だ。ルー・アンドレアス・ザロメ(1862−1937)はむしろニーチェの愛人として有名かもしれない。ニーチェと7か月同棲して、それからフロイトの弟子になり、愛人のリルケを連れてウィーンへ来たという。精神分析によりリルケの芸術的才能に異変が起こるのを恐れて、当初の予定を取りやめたのは、ユングの考えとおなじだったらしい。むやみに精神分析を受けたり退行催眠を受けたりするのは危険かもしれない。聡明ではあったが、いろいろな人物と性的なかかわりを持つ腰の軽い人であったようだ。特にフロイトの弟子のタウクスとの恋愛関係は奇妙なものだったらしい。フロイトの述懐では、彼女はニーチェやリルケよりも性的に未熟だったという。おそらくは性的にかなりの倒錯を持っていたであろうこの女性となぜフロイトが親密であったのかも不思議だ。私ならすぐに逃げ去ると思うのだが、どこかメデューサ的なところがあったのだろうか。石にされて逃げられないのである。フロイトに言わせると、男性が女性にほれ込めるのは、女性にもペニスがあると錯覚するときのみらしい。ザロメにはペニスがあったとも解釈できる。

今でこそ精神分析論の巨匠などといわれているが、フロイトのほうは多分に神経衰弱、ユングのほうは自分でも自覚していたほど分裂症気味であって、同時代に生きていたとしたら二人とも評価しないのが常識だろうとも思う。頭が固くて新しいことは受け入れなかったわけでもなんでもなさそうだ。新しいことを受け入れないのは今の風潮であって、あの時代も今と同じだったというわけでもないだろう。多分今よりもはるかに多様性に満ちた自由な社会だったはずだ。ほとんどのものはそれに気が付かない。今のような隠蔽体質の世の中であったなら、両名の業績は完全抹消されて微塵も残っていなかったであろう。戦後の恐ろしいまでに閉塞的な時代がそれだ。フロイトやユングの治療にしても、今の時代なら藪治療といわれるくらい、両者とも自分の身の回りに起こったことばかり喋って、患者のことはあまり診なかったという。そういう療法が成立したのも、時代が自由の気風にあふれていたからだろう。だいぶ迫害されたなどとは残っているものの、実際は当時のメスメルの動物磁気などの考え方が最先端で科学的といわれた医療分野に進出したに過ぎないものだったということも考えられる。

これにも現代的概念による肥大化現象が多分に加わっているのであって、実際には彼らがユダヤ人の出自であったことのほうが迫害に関係しているようにも思う。ユダヤ人迫害運動はフランスで起こった人種蔑視感に始まったそうである。そこからアメリカへ輸入され、自由の国だからいろいろな説が巻き起こる。特に自動車王フォードのユダヤ蔑視論は極端であって、それがヨーロッパへ逆輸入されると、ドイツやオランダといったプロテスタントの多い地方にも流行し始めた。その時期がちょうどユングらの迫害時期と重なる。フロイトの父親も町を歩いているときに、ユダヤ人だということで、帽子を払われたことがあったという。しかし、一方でフロイトはユダヤ人たちが自分の家族しか考えないでけんかを繰り返すさまを非常な恥だと認識していた。完全にヨーロッパ人の目で見て、ユダヤの風習を恥ずかしいものと考えていたらしい。

ユングのほうは1922年にチューリッヒ湖畔のボーリンゲンの土地を買って、そこに自分でレンガ造りの家を建築した。スイスではギルド制が発達しているから素人はレンガに触ってはいけないらしい。それでユングはレンガ職人のギルドに入ってレンガ積みを習ったのだという。地元のレンガ職人が2名ほど手伝ってくれたそうだが、それでもおおむね一人で塔を拵えた。10年以上かかったという。電気も水道もない生活だ。料理が得意だったので、獲ってきた兎を自分で料理したりして、野生の生活を楽しんだり、瞑想などをした。妻やウォルフもよくここに来たという。ユングがこの家で内界を大いに楽しんだ様子は一般の世界に共用できる部分はないだろう。だから言葉や数式で世界のすべてが記述され、理解できるものと妄想している輩には永久に謎のままなのだろう。ユング派の人間は一様に、「半日はぼーっとできる時間を持て」というそうだ。それでアメリカのような現実主義の国はこのような怠け者の心理学は受け付けなかった。勤勉なフロイト派を反対に好んだそうだ。

フロイトというのはずいぶん意地っ張りな人であったとは、小此木氏も語っている。この辺は何となくアインシュタイン風である。ドイツ育ちのユダヤ人は頑固なのかどうかは知らないが。アメリカで盛んになったフロイトの精神分析が頂点に達したのは1960年代だそうで、それからしばらくは横ばいで、そうなったのは科学万能主義の流れに陰りがみられてきたからだろう。大幅に落込まないのは勤勉を好むアメリカ人の気質のせいもあるのだろう。こういうのを成功(プロスペリティ)心理学だといって、ユングはひどく毛嫌いした。成功は慢心を招き、創造を破壊するからだ。ナポレオン・ヒルの成功哲学、『思考は現実化する』の原題は[Think and grow rich]などというものであるらしい。成功とは富の獲得のことかと思うと(*)、これは「失敗の哲学」なのではなかろうかとも思えてくる。アメリカ流の立身出世主義では世の中幸福にはならない。10人のうち9人は不幸になるやり方だ。
(*)ナポレオンヒルは、カーネギーのインタビューから着想を得て、この本を執筆したという。ということは、富とはすなわちマネー、不動産の類であると思われる。経済的な性向に光を当てるやり方はまさにアメリカの「金ぴか主義」を象徴するものが、一種の嫌味さえ感じる。この原題からはむしろ不快感を感じる。

現代科学では、現在の出来事が過去に影響を与えるといっても、それほど奇妙奇天烈なことの様には見られなくなってきた感も少しはあるが、この本が書かれた1978年ころにはまだまだそういうことは絶対に起こらないと固く信じられていたようである。今ではフロイトが信じていたような唯物論で何もかも説明できるなどという人間主義的な妄念は信実ではないということがはっきりしている。この事が心の問題ではなく客観的であるはずの外部から起こったというのが面白い現象だ。アインシュタインには50年も早く唯物論の牙城が崩れ去ったことがわかっていた。ただし、アインシュタインの場合は唯物主義であったといえるのは外の問題だけで、心の内側まで唯物論であったわけではなく、第一神を信じていた。それはデカルトにしてもニュートンにしても同じで、高名な科学者というものはたいてい神の存在を信じている。しかし煎じ詰めて考えれば、フロイトの出発点にしても、ユダヤ教的な神との契約という思想があったはずであって、彼が宗教を信じないという後年の態度とは相いれないところがある。

ユング派の河合氏が語っていることだが、「症状のない人が教育分析を受けると、症状を出すことが多い」ということである。自己暗示によるものか、それとも意識化できない無意識のプログラムが分析の刺激を受けて発動したものか、後者であった方が面白いし、多分後者であってほしいとも思う。無意識のプログラムが必然的の発動しなければならなくなっていると思われるものの第一が、ことばの習得というやつである。しかしこの辺のことはよくわからない。第一、精神分析と精神医学がどれほど違うのかもはっきりわからない。薬をやたらと使うのが精神医学だというようなことしか思いつかない。フロイトの精神分析は極めて体系的でがっしりしている、それは発達論などに如実に表れているそうだが、こんな夢判断みたいなものに体形をたてるといっても、物理学の体系みたいにがっしりしているのだろうかなんて追ってしまう。ふわふわで風船みたいなものではないか、心で思う現象というのは外界に現れるような実態とは異なる。体系自体がアメーバのように形を変えるのだろう。そういうところで体形をたてるというのは妄想の一種ではなかろうかという気がする。

世に「羊と山羊の問題」というものがある。超能力の存在を信じている人(羊)が主宰した実験では、超能力の存在が実証される。反対に、懐疑論者(山羊)の実験では超能力に否定的な結果が得られるというものだ。まさにこのことは精神分析が催眠療法をあきらめた「転移」という問題の拡大版であるといえる。患者が医師に交感を抱いているときには催眠療法はうまくゆくが、悪意を抱いている場合は催眠療法は病状の悪化をもたらす。

ユングは同性愛というものに対してあまり好意的な感情は持っていなかったらしい。男性であって男性のイメージが出てこないような人は自我が未分化なのだとしていたらしい。精神分析をやって始めから女性像が出てくるような人は、影の部分も薄い。無意識に非常に押されているという。心の中の闇の部分が極めて弱い、もしくは核心と呼べるようなものがない。

日本における一番抑圧されているものは母親に対する恨みとか憎しみであると小此木氏は語る。そういうものなのかと思う。それは意識下では甘えとなって現れるだけだから気が付かないらしい。

しかし、本書執筆当時から、西欧人の間でも自我の確立が未分化であるモラトリアム人間が増加傾向にあり、こと日本人特有の現象ともいえなくなってきたらしい。そういう時代だから前に述べたようにアドラーの心理学がもてはやされる。今のような時代には、青年から大人になる段階にもう一つ若者時代のようなものがあるのではないかという。今の時代を一言でいうと「浅い時代」ということになるのではなかろうか。平均的には優れているけれども、突出した人物がいないという殺風景で淀んだ時代である。モラトリアムという用語そのものは、エリクソンによる一図家で元来否定的な意味がないのはもちろんである。「生涯学習」などと呼べばプラスの意味合いが強まる。モラトリアム人間はきわめて学習能力の高いものを指すともいえる。大人というのは案外学習能力に欠ける。単に世間一般と同じことをしているだけで、個性というものがあるわけではない。かつて高度成長時代の日本人の多くが「エコノミック・アニマル」といわれたのと同じで、人格が完成していたるわけではない。アニマルという言葉も心理学的に読めば、日本社会は女性原理アニマの社会という皮肉ともとれる。「アニマル」人間たちは完全な大人ではあるが、「モラトリアム人間」たちよりも優れているとはお世辞にも言えないだろう。アニマルだから、日本人のいわゆる男らしさというのは静かなものではなく、ヒステリックなものだという。そうするとやはり女性的だということになる。アニメというのもやはり女性を連想しはしないか。「日本はアニメ文化だ」というのも、ことによったら「日本文化は女性的だ」の裏返しであるかもしれない。アニメの語源こそ、ラテン語で生命を意味するアニマであり、それはすなわち女性の性質を意味するものである。

しばしば勘違いされていることだが、日本は父性社会であると思い込んでいる向きがある。表面的には父親に権力があるかのようだからである。特に戦後しばらくは父親がヒステリックに権威を着ることが多かった。そこに父親のアニマを見て取ることが出来る。それで、河合氏の言うには、日本人で父性性というものが心のどこかで動き出した人は、危険な人物ということになるのだそうだ。そこでそういう危険人物は、対人恐怖という形で他者との交流を断とうとする。だから日本人には対人恐怖というものが極めて多いそうだ。日本は昔から母性原理を発揮する役割は男性が担ってきた。「男のほうは非常に訓練されて、小さいときから辛抱しなさいとか、皆と同じことをしなさいとか、笑われてはいけませんとか、母性原理を身に着けている」という。元来男性が女性を演じている国に、男性上位の西洋思想を輸入するなどというのが間違いであることが示唆される。日本が男性上位だったのは鹿鳴館時代の名残だろうと思う。それと戦後マッカーサー以来の押し付けである。

これは東アジア文明圏全般に言えることかもしれないが、「強いものが勝つ」という哲学が浸透していなかった社会に、明治維新以降いきなり西洋文明が浸透していったので、かなりの不自然さ、ぎくしゃくとしたものがいまだに残っているのだろうと思う。大陸文明と海洋文明とでは相当の違いがあるのではないか。もちろんどちらのグループにしろ、正反する思想というものはあるのが人間社会である。身近な話題ではアベノミクスで恩恵を受けたものの数だ。見ようによっては90%近い人が恩恵を受けたともいえる。給料が上がったというのがそのくらいいる。後はどうかなあというので見解が分かれるが、それでも20%以下だということはまずないだろう。最近は正直に自分の意見を言えるものが増えたのか、街頭インタヴューなどで、「景気が良くなったという実感はないですね」などとテレビ局が言うと、「いや、うちは景気いいですよ!」というサラリーマンが結構目立つようになってきている。主婦層にしても、「給料だけは上がってますけどね」などという。数十万もする犬猫のペットを飼う人が多くなったことを見てもゆとりのありそうな社会環境を見て取ることが出来る。昔はペットといえば雑種(*)が圧倒的に多かったもので、血統書付きなどといえば滅多にいない大金持ちしか手にできなかった。大企業の企業業績はうなぎのぼりであって、バブルの時代を上回ってさえいるという。安倍首相が自慢する以上に経済環境はうまく回っているのかもしれない。前にもたびたび話したことだが、「悲観的な意見を述べたほうが賢明に見える」ということが大いに関係しているだろう。事実は全くの逆で、常に楽観的なものが結局はうまくいくものだ。
(*)ここでいう雑種の「雑」とは、雑巾の「雑」であって、父親がだれだかわからないようなものをいう。ペットショップで意図的に売られているような身元のはっきりしたものとはまた別。

世間、マスコミは、毎年のように格差が開いてゆくというようなことを言っているが、こと金融資産だけに目を向けてみれば、資産3000万円未満のものは概して減少傾向にあるのに対し、それ以上のものは急激に上昇している。しかも4軒か5軒に一軒は上位グループに入っている。つい30年か40年ほど前は金融資産1000万円以上というのは10軒に1軒くらいしかなかったのではないか。今は金融資産4000万円以上の家の割合がちょうど1割である。すごい増え方である。ちょうどGDPの伸びと合致している。GDPには失われた20年が現れているが、購買力平価GDPとやらではさしたる落ち込みもない。日本全体が何か衰退しているかのような沈みがちな気分になるのは、マスコミの報道の影響もあるのだろうが、年金暮らしの老人の割合が増加したせいで、勤労収入の平均値ががくんと下がったためではあるまいか。それから環境問題では、いかにも景観を悪くしそうなものに、廃屋となった住居が街並みに点在していることがある。これも日本が貧しくなったという不快感を助長させるものの一つだ。家計の貯蓄率が世界最低水準で、2013年にはついに主要先進国中唯一のマイナスを記録したというのも不安をあおる一因だと思う。一般的には景気がよくなると貯蓄率は下がるものであるが、日本では必ずしもそうではないようである。日本における貯蓄率の急激な低下は、年金暮らしの老人の割合が増えて筝と関係していて、若年層は案外昔ながらだったりしているとも考えられる。

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