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<<   作成日時 : 2010/07/28 18:28   >>

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スーパーマーケットなどに食料品でも買いに行くことがあるが、行く度に驚く。なぜあれほど食わなければいけないのだろうかと思う。やはり基礎代謝量なども、平均値という奴から導かれた、幻想の一種なのだろうか。私にとっては、もう何十年も前からの既成概念であるし、近年データの裏づけを持って証明されたというのに、どうにも理解できないことだ。もっと驚くのは、ペットのイヌやネコがだぶだぶとたるんで、今にも腹を地に着けそうにして歩いていることだ。どう見ても動物虐待にしか見えない。「えさを与えれば動物というのはたいてい自分で勝手に食うのだから、動物の自己責任である」などというのは妙な理屈付けだろう。「動物の生存権」などとむやみに振りかざしているものも同様で、動物に人間同様の人権などあろう筈もない。動物実験というのは残酷だから廃止せよなどというわけのわからない団体もある。生き物は粗末に出来ないが、食べ物同様、成仏できるように扱わなければならない。

おそらく多くの人が勘違いして使っていると思う言葉に「不正」という言葉がある。道徳的に見て、正しくない行為をさして「不正行為」だなどと思っているらしい。しかし、「1+1=3だ」などという計算まちがいもやはり不正行為なのであって、この辺の自覚というのがさっぱり見えない。仏教では「無明」を最大の煩悩としたそうだ。物事の根本原因であるという点で、殺人などよりも重い罪なのだそうだが、無明とは「宇宙の真理を知らないこと」という意味だそうだ。ずっと昔から、人間というものは無知でいること、計算まちがいをするようなことに対して、罪の意識を感じてはいなかったらしい。

現在では多数決の通る時代だ。それだから、多数決が通れば戦争も行なう。ただし、内閣支持率が半年程度で80%から20%に落ちるようなことはしばしばあるので、多数決というのもあてにはできない。内閣支持率くらいならまだいいが、戦争というものがいったん多数決の合意を得て開始されたなら、その後戦争支持率が20%に急落しても、もう止まらない。これも、「正しく物事を認識しない」ということに関して、人々が罪の意識を感じていないところからおこるものと思う。「感情的でありすぎること」なども罪の原因だ。花を見て美しいと思うだけならまだしも、そこに吸い寄せられるというようになってきたら、もうそこには罪が忍び寄っている。満天の星空を見てうっとりと恍惚感を味わう人なども要注意だ。差しさわりのない言い方をするなら、心に悪魔の忍び寄るスキができるということになるが、悪魔を呼び寄せるのは当人の心のほうである。単に心が真空のように穴の開いた状態になるだけなら、天使を吸引する場合もあるが、そうしたものたちを誘惑するのはいつも堕天使のほうである。

ペットを飼う人間が増えている割には、動物一般に対して、肉食のため殺生をしているから供養しようなどという風習がない。少しは、普段滋養としている食用の牛やブタの位牌など作って、毎朝供養しているという家庭もあるかもしれないが、まずそんな話は見聞しない。殺生とはどういうことかというと、それは生命の血を流して殺すということのようだ。したがって、血液というもののない卵だとか食物などの生命を絶っても、特にそれは殺生とはならない。特に、キリスト教やイスラム教では、肉食を行なう場合、すべての血液は自然に返すか、神に返却しなければならないことになっている。血液のない肉の形にして、初めて人間はそれを摂取することが出来る。だから最初欧米人が、血液を平然と口にするモンゴルの兵士を見たときには、彼らが非常な野蛮人に思えたはずだ。しかし、近代以降は、血の滴るような肉でも平気で食うようになったし、第一輸血という行為に対しても、それを邪悪なものだと認識する風潮はなくなった。本来は、体内に外部からの一切の血液は入れてはならないものなのだ。血液を盗むことは窃盗であって、禁じられた行為なのである。

だから、キリスト教徒の場合だと、やむを得ず輸血を行なう場合は、まず神に窃盗をする許しを請わなければならない。それが礼儀であるのに、彼らにしてもそういうことは特にしていないようである。野生動物の血は自然のものであるが、人間の血は神の所有物だからだ。


日本など東洋人の場合は、昔から鼈の生き血を飲んだりしているから、特に血液は不浄だという概念も神仏のものだという概念も持たなかったようだ。だから血液製剤などに対するチェックも甘いし、非常に頻繁に輸血というものを行なって、別段窃盗を犯しているという罪の意識もない。だから輸血由来の肝炎も多そうだし、輸血は原則として行なわない旨を宣言している病院というのも非常に少ないようだ。日本でも平成4年くらいから漸くチェックをきびしくして、輸血によるウイルス性肝炎の不安はほとんど消えたということになってはいるが、本当かどうかはわからない。何しろ長年たってやっと人体に正体不明の悪影響を及ぼす代物だ。



食用のために屠殺された動物の供養などさしてしないというのは、ペットを称して「愛玩動物」などといってはいるが、その実ペットに対して愛情を注いでいる人など極わずかであって、大半は日常のストレス解消のために飼っているに過ぎないいのではなかろうかという気がする。だから、ペットが肥えて病気になる寸前であっても、彼らはそんなことは一向に気に留めないのではなかろうか。悪く解釈すれば、ストレスの解消のための飲み食いで自分が成人病になる代わりに、ペットにそれを押し付けているようにも見えなくもない。


犬猫に服を着せているのはまだいいとしても、耳にフードをかぶせたり、色付のサングラスをかけたりして道を散歩したりしている人もいる。こういうことをして、良心の呵責などはないのだろうかと思う。何か平然と歩いている。不思議な世の中なのだかなんだかわからない。

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