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zoom RSS 総統の大本営

<<   作成日時 : 2010/09/29 17:16   >>

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この前ノルマンディーについて調べたら、急に70年前の大戦について知りたくなった。現在歴史にその名をとどめている多くの将校が、今この時点に生きていたとするならば、おそらくただの極ありふれたサラリーマンであるか、あまりできのよくない自営業者として、まったく人に知られずひっそり間として障害を閉じてゆくのだろうと思うと、何とも感慨至極な念に打たれる。

「大本営」という言葉を使ったのは、ドイツ、ソ連と、日本の3国だ。歴史を見ると、明治維新以来、日本は英米と歩みを共にし、ドイツやロシアなどという後進国とはたいてい敵対してきたようだ。「大本営」という言葉は、日本では、1893年5月に法令化され、翌年から実施されたらしい。最初の頃の軍隊は、フランス式であって、号令まですべてフランス語で行なわれたという。ナポレオン以来、フランス陸軍は世界一だったからだ。軍服もテキストもそのままフランス軍の使っているものだったという。号令などもそのままフランス語だったというから、恐ろしいフランスかぶれだ。「日本のように国の魂を売ってはならない」とこの頃の清国では強く叫ばれていたそうで、その頑固さや意志の強さがむしろ中国の近代化を阻んだ。当時のロシアが日本に輪を掛けたほどのフランスかぶれで、ドストエフスキーがロシア本来の喪失の気風を憂えていたそうで、何かにつけ似たもの同士だったようだ。その後、普仏戦争でドイツが勝ち、ドイツ式の軍隊編成が強いとわかると、日本はドイツと何かにつけ反目していたにもかかわらず、ドイツ式を取り入れた。英米フランスの列強が次第に日本に対し冷淡になると、日本政府にはその意味がわからず、やけになって新興国として似たような立場にあったドイツに接近して行ったのかもしれない。明治維新後のおよそ2世代、半世紀以上の期間、日本は英米仏と同調して文明開化を進めてきたことをつい忘れがちだ。反対にドイツとの間にはしばしば紛争をくり返してきた。

まあ、ともかく、ドイツ大三帝国総統であり、国防軍の最高司令官を兼任しているヒトラーは、政治的指導はベルリンの総統官邸で、戦争の全般および国防軍の指導は総統大本営で行なうことにした。余裕のあるうちはきわめて几帳面で自らきめた規律を守ったわけだ。

最初のポーランド戦では、総統専用の特別列車が移動司令部として使われた。翌年の1940年の西方電撃戦では、フェルゼンネスト(岩山の巣)で全般の指揮に当たった。ここはベルギー国境の近くの西部ドイツのバド・ミュスターアイフェルの近郊にあり、40年5月10日から6月5日まで使用されたことになっている。ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランスへの侵攻が開始された。ファル・ゲルプ(黄の場合)作戦だ。戦況が好転すると、フランス国境近くのベルギー西部のブルー・ド・ペシュの森の中に移った。このヴォルフスシュルヒト(狼の峡谷)には40年6月6日から26日まで滞在して指揮を取った。ソンム戦線を突破したちょうどその日のことだ。11日にはパリが無防備都市宣言をしたが、14日にドイツ軍が占領した。余裕ができたので、今度は、西南ドイツのバーデン・バーデン近郊の「黒い森」の中のタンネンベルク(樅の山)で戦跡を視察する。これが6月27日から7月5日まで。

その後は主にベルリンの官邸で政務を取っていたらしい。翌年、1941年の6月に対ソ戦が開始される。予定を2ヶ月遅らさざるを得なくなったことが響いて、その年の冬には前線が膠着してしまった。大体ドイツ軍の驀進というのはこの時点で終わったようだ。多少優勢ぐらいでは、ジリ貧で負けるだけで、時間が長引くだけ犠牲者が増えるだけとなった。

さて、対ソ連戦が開始されると、ヒトラーは東プロイセンのラステンブルク東方の森の中に最大規模の野戦司令部地域ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)で作戦を指導した。このバルバロッサ作戦も、出だしの勢いはすごかった。独ソ戦中は主にここに滞在していた。まだドイツの油田資源の確保が安定的であった1942年の7月16日から10月30日の3ヵ月半は、ウクライナ・ヴィニッツァ近郊のヴェアヴォルフ(人狼)でドイツ軍の攻勢(青作戦)の戦闘指令所として用いていた。敗色が濃厚になると、再び狼の巣に滞在した。連合軍のノルマンディー上陸が行なわれた一ヵ月後のシュタウフェンブルク大佐のヒトラー暗殺未遂事件もここで行なわれた。7月20日に、ドイツ国内補充軍参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンブルク大佐がベルリンから飛行機で狼の巣の飛行場に到着し、会議場に時限爆弾を仕掛けたカバンを持ち込み、首尾よく大音響と共にヒトラーが会議している作戦室が大爆発したのを確認した事件だ。この爆発で、ヒトラーのそばにいた4名が死亡、3名が重傷を負ったが、死亡したと思われていたヒトラーは軽傷を負っただけで、大佐は即日銃殺された。

ヒトラーがウクライナに滞在していたのは、ルーマニアにドイツ軍の大油性地帯があったためだろう。なんとしてもルーマニアの油田地帯をソ連爆撃機の照準内に入れてはならなかった。ソ連には航続距離1万キロを越える爆撃機が戦前から開発されてはいたが、航続距離以外は何をとってもお粗末で、とても自国領内での輸送以外に使えるような代物ではなかった。それでも、ゼロ戦と同じ1939年に初飛行に成功していたイリューシンDB―3は、1万メートル近い高度で4千キロの航続距離を得ることが出来て、世界を驚かせたが、その割に活躍していない。

いよいよ敗北の色が濃くなった1944年12月のアルデンヌ攻勢作戦のときは、再び西部ドイツのアードラーホルスト(鷲の巣)に移り、12月10日から翌1945年の1月15日まで滞在した。もう石油の備蓄もなくなり、自慢のティーゲル戦車を東部戦線から転用してきたものの、作戦行動中に燃料が切れて動けなくなったものが多かったらしい。

そして最後は、ナチスの軍需相アルバート・シュペアー(1905−81)の設計になるベルリンの総督官邸(ライヒスカンツライ)に急遽こしらえた宮廷敷地内の地下ブンカーに隠れた。2月に連合軍の爆撃で総統官邸が破壊されてしまったためで、まだコンクリートが乾ききっていないあまり快適とはいえない地下9メートルの、部屋数が30もない地下ブンカーにこもることになった。天上は厚さ4.2メートルの強化コンクリートで、多分ベルリン市内のどんな防空壕(地下壕ではなくて地上にあった)の天上よりも厚かったが、それでも至近距離に爆弾が落ちると、激しく振動したという。それでも、食堂や厨房に、医療診療所や外科手術用の部屋まであって、長期戦を想定して作られていた。ヒトラーは3月の初めからここに出入りしていたらしいが、4月の終わりには全く外部に出ることはできなくなったようだ。4月12日にアメリカのルーズベルト大統領が死去したことで、何らかの大きな戦局の転換に結びつくのではないかと期待していたが、全くの幻想にすぎなかった。側近が脱出を進めたが、29日に愛人のエヴァ・ブラウンと挙式をし、翌30日の午後に共に自殺した。後継者にはUボートで連合軍を悩ませた海軍のカール・デーニッツ(1891−1980)を指名していたという。

第三帝国第2代総統に就任したデーニッツは、ソ連に対する徹底抗戦を命じると同時に、連合軍に対しては可能な限り彼らの進軍を許すように命じた。そして5月7日に無条件降伏をした。11月20日に、22名の被告に対し、ナチスの聖地ニュルンベルクで裁判が開廷した。ナチスへの見せしめのためだという。12名が絞首刑、終身刑が3名、4名が10年から20年の禁固刑、3名が無罪となったが、デーニッツは有罪判決を受けたものの中では最も軽い10年の禁固刑であった。ベルリンのシュパンダウ刑務所で刑期を終えた後は、夫人と共にハンブルク郊外に暮し、1980年に89歳で死去した。


ちなみに東京裁判では、28名の被告のうち、絞首刑は7名だけだが、その代わり無罪もいない。2月に行なわれたヤルタ会談は、5ヵ月後に日本に対して行われたポツダム宣言と比べると、はるかに厳しいもので、ドイツ国民の命の補償もなされていなかった。ドイツと同様の運命になることを怖れて日本も降伏しなかったなどといわれるが、その後国民総生産だけはドイツを上回った。戦後も、ドイツ国民の運命は散々だったが、日本のほうは概して平和であった。戦後ソ連に拉致されたドイツ人は何万人というレベルであったらしいが、日本のほうは数人が北朝鮮に拉致されたことで大騒ぎしている。北朝鮮のほうは弱小国だから強く出られるので、もしこれが戦前の大日本帝国ほどの規模のものだったら、こうは行かないだろうと思う。

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