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zoom RSS 日本軍の大虐殺。

<<   作成日時 : 2010/10/27 16:30   >>

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1894年、日清戦争において日本軍は旅順市民一万数千人を虐殺したという。最も中国内の資料だから多少の上乗せはあるだろう。欧米の資料には500人というのもあるそうだが、500人でも大虐殺には違いない。日露戦争終結までの日本軍はそのような野蛮なことはしなかったと思い込んでいたので、これにはかなりびっくりした。旅順がロシアに占領されるのは1897年のことだから、当時住んでいたのはほとんど中国人だろう。確実な証拠というものはないのだろうが、そういうことが史実として語り継がれているということには必ず理由があろう。南京事件のときと同様に市内に平服を着た中国兵が潜んでいると考えたそうだが、日本兵の日記には、「白髪の老婆を乳飲み子と一緒にころした」などと書かれているそうで、兵隊とどういう関係があるのかがわからない。ただし、旅順のときも南京のときも、住民は資本主義圏に属していた。それで日本政府としても真相の隠蔽に躍起となっていたようである。中国でも、共産党の支配する都市や農村なら、仮に毒ガスのような国際的に禁止されている兵器を使用したとしても、時代的背景により、それが大問題に発展するようなことはなかったようである。

極東東京裁判のとき、東条英機は「太平洋戦争だけを見て判断するのではなく、大東亜戦争全体を見るならば、日本は侵略を目的として戦ってきたのではなく、民族の開放を旨として闘ってきたということがよくわかるであろう」などといったそうだが、どうもそんな話も、東条氏自身が時勢に欺かれていたのではないかと思うほど、白々しく響く。トインビーなど、日本のことを比較的あしざまにいわない人間もいるが、それは日本に古来からある土着の文化が優れていたことに愛着を示しているからであって、大日本帝国の無様な姿を手放しで褒め称えているものではない。大英帝国の植民地支配における帝国主義がよく引き合いに出されるが、日支配民族も劣等民族であることを半ば認めていた時代のものであって、トインビー氏が思うほど英国に落ち度があったわけでもない。英国の植民地支配は、十分狡猾であって、数百年という間勝利と栄光を自国にもたらした。


日本軍の戦いぶりが全く理不尽で身勝手なものであるように思われるのが、シベリア出兵の頃からである。1917年にロシア革命が勃発する。これはこれでロシアのロマノフ王朝にとっては大災難なのであろうが、革命そのものは労働者の理想であって、資本主義が生んだいびつな人間疎外の世界を脱して新天地を築こうという「太陽の都」以来の夢である。レーニン自身もそう信じていたらしいから、どこから見ても列強諸国に干渉する権利はない。しかし、フランスとイギリスは、ウラジオストックにある60万トンの軍需品をドイツに渡さないために、日米両国に連合国による軍事干渉を打診する。仏英は第一次大戦中で余裕がないこともあるし、主力は距離的なことを考慮しても、当然日本ということになる。

まず1918年の1月に、慰留民保護を名目として、日本とイギリスがウラジオストックへ軍艦を派遣した。そうしたところに、たまたま4月4日に当地の商店がおそわれ、3名が死傷するという事件が起こったので、日本軍は陸戦隊500名を、イギリスは50名の兵員を上陸させ市内の警護に当てた。これがシベリアの軍事干渉の始まりとされる。どうもソビエト政府としては、ウラジオストックだけに軍隊がとどまることを条件に、しぶしぶこれを承諾せざるを得なかったようである。連合国との間には、一応文書による規約もあったらしい。

ちょうど3月にドイツとソビエトの間にブレストリトフスク条約が結ばれ、新生ソビエトはドイツと屈辱的な和解をするが、ソビエト軍内のチェッコ軍兵士はドイツ軍と戦おうとし、シベリア経由でヨーロッパ前線へ向かおうとする。しかしソ連のウラル付近でボリシェビキ政権内のドイツ軍捕虜とチェッコ軍との衝突が起こってしまうと、これがシベリアでチェッコ軍が殲滅されかかっているという風に報道されたことで、アメリカのウイルソン大統領は7000名の派遣を決意する。それとも、講和した以上もはやチェッコとソビエトは敵同士な訳であるから、争ったのは双方であったと解釈することも出来るし、そもそも衝突などなかったのかもしれない。ともかくアメリカは、日本の出兵数についても10000〜12000名に抑えることを要求した上で出兵したが、連合7カ国は協調行動がとれず、日本だけがわずか2ヶ月間ほどの間に7万人以上も派兵する。これに対してアメリカはきびしく抗議した。各国の日本に対する不信感や疑惑と言ったものも高まっていったようである。

もっともイギリスやフランスの主張するところでは「日本が極東の権益を守るのは義務である」と、日本にアメリカの出兵協力を依頼するようなことまでしていたが、日本政府は当初これを断ったそうだ。フランスは、1917年の12月27日に「イルクーツク事件」が起こり、ボルシェビキが多数のフランス人を虐殺した、と出兵理由を報じたが、アメリカはこれをイギリスによる事実無根の虚報だと断言した。それにもかかわらず、結局出兵したというところには、少し満州事変などと似たようなものを感じる。

ドイツが1918年の11月のキール軍港の反乱をきっかけに降伏すると、英仏は当初騒いでいたわりにはシベリア出兵の理由もなくなり、アメリカもまた引き上げるが、日本軍だけは、ソビエトの革命が朝鮮へ波及することを理由に駐留を続ける。特に英国国王ジョージ5世(1865−1936)は、元ロシア皇帝のニコライ2世(1868−1918)とはいとこ同士の間柄であり、赤軍に幽閉されているいとこの身に危険が及ばないためにも、早くソビエトからは撤兵したかったようである。英仏の本音は、内政干渉などではなく、ドイツ軍にウラジオストックにある軍事物資を取られないようにするためだけだったようにも思える。日本軍は、ウラジオストックより先へは進軍しないという先の規約を破り、北樺太、沿海州や満州へ侵攻する。ついにはシベリア奥地のバイカル湖西岸のイルクーツクまでを占領する。進軍の過程で、各地のロシア住民の虐殺が相次いだという。目に触れた農民は直ちに銃殺し、村々は焼き尽くした。日本軍としては、社会主義の国の人間を殺戮することに対しては何の罪悪感もなかったのか、太平洋戦争においては後々振りになりそうな書類の類は極力焼却したようなのに、この当時の記録は残ったままである。それによると、このときの司令官の命令書には、ロシア住民は尽く殲滅せよというようなことがかかれているらしい。

中でも1919年の3月22日に起こったイワノフカ事件では、逃げ遅れた村民、多くは女性や子どもら257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼きころしたことが伝えられている。この村はパルチザンの本部があったといわれるが、その翌年に起こったのが、パルチザンの首領による日本人の虐殺、尼港事件だ。日本では、何もしていないのに日本人だけがやられたというようになっている。しかも、日本政府がそのように言っているのだ。ソ連では両方とも等しく伝えられていた。スターリンらの検閲時代においても証拠は抹消されずに残っていたのだ。つまり、真実を隠蔽することにおいては日本のほうがはるかに狡猾であったといえる。しかもロシア人を皆殺しにした日本人将校は何の問責も受けていないが、パルチザンの首領はソビエト政府の軍事裁判で日本人を虐殺したことで死罪となっている。今に至るまでも、日本人はこれといった理由もなしに、ロシア人というものを目の敵のように蔑視する人間が多いが、これも隠蔽工作の表れなのかもしれない。中高年以上の人間はまずロシア嫌いで、70歳以上になるとまず100%がロシア人はけだものだときめてかかるのが、かえって疑惑を生む。100%などというのは、彼らの若い時代にかなりの洗脳教育を受けたことの現われと見ることが出来る。ずっと前に、ある右翼よりのサイトの書き込みに「全く歴史を知らないサイトであきれてものも言えない」などというのがあった。日本軍でも、20%くらいの人間はまともなことをしたし、比較的品行のよかったものになると過半数を超えると思う。しかし、2割も野蛮なのがいれば、汚名を受けるのには充分な量なのだ。

イワノフカ村は、アムール州のブラゴベチェンスク郊外にあって、「炎のイワノフカ」という作者不詳の詩があるそうだ。「生きててよかったね。私みたいにならなくて。小屋の中で焼き殺された。屋根に逃げても弾の雨。日本人のやった事。日本人のやったこと。」 女も子どもも銃剣で止めを刺されたと目撃者は語っていたそうだ。

さすがに、ソビエトのみならず、各連合国からも領土的野心を疑われた。社会主義の住民に対するこのような仕打ちは、後の中国で起こったことが伝えられるとおりであったのではないかということを思わせる。住民の虐殺に関する国際的な禁止条例などというものも、資本主義権にある諸国間では守られたけれども、主義をことにするソビエトや中国に対しては、特にそのような禁止事項を厳守する必要などはなかったらしい。軍隊同士の戦いにおいても、資本主義県の国にあっては、住民の暮らす村や街は避けて戦闘をしたようだが、社会主義圏に入ると、食料などの調達に便利だというので、各国とも市内で戦闘を繰り広げていたようだ。とりわけ日本軍は彼らを鬼畜扱いし、人間とみなしていたようには思えない。最もそれ以前、日露戦争での日本海海戦にしても、到底武士道の精神に則ったものだなどとは呼べない。壊血病でふらふらになった弱りきった敵を不意打ちしたので勝てただけのように見える。謙信が敵に塩を送ったような心意気など微塵も見えず、日本人には生来残虐非道を喜ぶ習性があるかのようだ。

こんなことは即座に世界中に公表して日本を糾弾すべきなのに、なぜかソビエトはそれを黙っていたようである。恥ずかしいことだとも考えていたのかどうかはわからない。不名誉なことだと考えたのかもしれない。戦時中のことにしても、スターリンを始め、大体の経過すら何も公表しなかった。そのくせ、記念碑まで作ってちゃんと保存している。それでソ連崩壊して、外から皆が流入して、戦時中の資料が見つかった。シベリアに抑留されていた元兵士たちにも、やっとイワノフカ村のことを知って、今では毎年のように向こうで追悼式に参加している人間も多いという。日本側には資料が残っていたのにもかかわらず、どうも隠蔽していた感じである。諸外国の資料は全くない。かなり大規模な掃討だったにもかかわらず。並みの国なら、情報が外部に漏れていたはずだが、東部戦線でのことなど、より大規模であったにもかかわらず、ソ連崩壊まで情報は隠蔽されていた。東欧諸国のどこからも信頼に足るような情報漏れはなかったようだ。・・・ソ連と、後の中国の態度と比較すると、あまりにも異なっているのに驚く。


ずっと後になって、ソ連の民間人に対してドイツ軍の行なったことも、これと似たようであったといわれる。住民の暮らしている家を見つけては、寒さをしのぐために、人々のふとんや毛布、衣類など一切、食料なども略奪した。身につけているわずかな衣類まで奪われ、下着姿にされたままの一家は、壁板を引き剥がされて寒風が吹きぬける冬の寒さの中で、その日のうちに凍死するより他はなかったそうだ。

アメリカやイギリスなど各国のソビエトロシアに関する資料もかなり歪曲されているはずだが、その仲でも、ルーズベルト大統領やケインズなど、ソビエト共産党に好意的な人間も多かったことも考慮すべきだろう。以前述べたティルゲル氏も、資本主義よりも社会主義のほうが、貯蓄をしないという点を除けば、おおむね優れているようなことを示唆している。レーニンが統治していた頃か、スターリン統治の始めの頃のソ連というのは、このように案外よく言われている。カール・マルクスの性格が子供のように無邪気であったとはよく言われるが、レーニンなども現代日本の○○諸氏などと比べると、おそらく断然ましだったであろう。

ある試算によると、シベリア出兵で受けたソビエト側の損害は、その後のシベリア抑留の際の日本の損害で十分埋め合わされているとはいう。しかし、シベリア抑留時の日本側の被害というのは、ソ連兵による反抗ではなく、中国住民の自発的なものがほとんどであったという話もあって、もしそうなら、北方4島の分もこの賠償金のうちに入っているのかもしれない。しかも、この試算というのは、「自虐史観もいい加減にしろ」式のサイトで見つけたもので、かなり日本びいきに偏ったものであるかもしれないのだ。千島列島まで日本領だと主張しているような日本共産党のような甘い夢は到底かなわないと見るしかない。

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