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zoom RSS プラトンの倫理観と空中浮遊

<<   作成日時 : 2011/02/10 16:31   >>

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プラトンにしてもソクラテスにしても、医者というものをいつも引き合いに出すのは、医者が肉体を矯正するように、哲学者というものは魂を正しく善い方向に導かなければならないという風なものであった。

プラトンは「大切なものは、ただ生きるということではなくて、良く生きるということだ」と何度も書いているのだが、それが度を越すと「邪悪なものに負かされてよいのか」ということになる。同じプラトンの言葉でも、『ゴルギアス』などになると「彼は、こんな風に考える。もし乗客たちの中に重い不治の病に身体を侵されている人がいて、その人が海に溺れるのをまぬかれたのであれば、そういう人は死ななかったゆえにかえって惨めであり、したがって、船員である自分からなんら有益な奉仕を受けたことにはならないであろう。然るに、誰かが身体よりもさらに大切なもの、魂の中に数多くの不治の病を持っている場合、そういう人に限って生きていたほうがよいというようなことが、いったい、ありうるだろうか。そういう人を、海であれ、法廷であれ、そのほかどこであれ、とに角危険から安全に救ってやることによって、その人のためになる奉仕をした事になるだろうか。いや、そんなはずはない、と彼は考える。邪悪な人間にとっては、生きているということはなんらよいことではない、邪悪な人間が悪い生き方しかできぬのは動かぬ必然だから、ということを彼は知っているのだ・・ ・・・人は自分の住む国の政治形態に自己を同化させながら生きてゆくのがいったい、最上の生き方なのであろうか」となる。

初めの部分、「不治の病のものを助けるという行為は全く有益ではない」というところは、現代文明のような肥大した国家の生んださかさまの歪んだ妄想教育の洗礼を受けた単純な神聖さを持った純真無垢な医者には全く分からないのであろう。なんという単純で身勝手な行為かとあきれるばかりである。しかも、本人が反対の意思表示をしているというのに、彼らは戦闘に赴く戦士が国家の命を受けて他人を殺害するのと同様の行為を平然と行なっているのだ。しかも戦士たちの多くは敵の兵士の命乞いを受ければ国命にそむく場合もあるというのに、洗脳された医師たちは問答無用で国の命令に従うだけである。この恥ずべき者たちのおぞましい行為にはまさに現代の病魔を感じる。国民の多くも一切かまわず命ながら得ることが生命を尊ぶことだと思い込んでいるようだ。ようやく海外で、「自殺者の権利」のようなものが尊ばれるようになってきたばかりである。もっとも、健康なものが自殺したいなら、息を止めて死ねるくらいにまでに達観してからそうすべきではあろう。昔、クレアンテスが断食して自殺するなどという簡便な方法をとったので、40や50の若いものの自殺がはやって大騒ぎになったことがあるそうだ。

「魂の不純なものは、生きていてもなんらよいことはない」などという考えを発展させると、私は、オーム真理教の行った行動のことをすぐ思い出す。地下鉄サリン事件で麻原彰晃が逮捕されたとき、近くの駅前でオーム教の信者の人が、定価1200円もするかなり厚めの小冊子を配っていたので、記念にもらってきて本棚にしまっておいたのだが、どうも麻原氏は昔、ジェセル王の宰相のイムホテップであったとき、ピラミッドの設計に携わっていた経歴があるらしい。サッカラに階段状のピラミッドを建設し、後世アスクレピオスと同一視されるようになった医聖としても知られているが、ピラミッドというのは、宇宙の構造をあらわしている巨大なポア装置なのだそうだというようなことが書かれている。しかし、麻原氏は現在独房において一人では用も足せないほどの精神喪失の状態に陥っているといわれていて、もしそうであれば、高々15年程度でそのような状態に陥る人が、数千年も以前の記憶を正確に覚えているだろうかという疑問が残る。

―「でも、ここでよく考えなければならないことが一つある。それは、自分すら信じられない人間、自分の本質すら信じられない人間が、他人の言っていることを信じることができるだろうか。自分の本質からのデータそのものによって安らぎを得ることのできないものが、他人の情報、他人のデータによって安らぎを得ることができるだろうか。そう考えると、次のことに気付くであろう。最も大切なもの、それは自分自身を信じることである。自分自身の体験を信じることである。自分自身の心を信じることであると。そして、それを信じるものは、確実に自己の道、自己をより磨く道に邁進することになるだろう」−

麻原氏もそのように主張しているが、このように生きられたなら、それは国家にとっては大変困ることになるだろう。国家の行いそのものが泥棒に等しいといってもいいくらいであるということがわかるからである。それで、アメリカやヨーロッパでは、国民というものがそれに気付いても暴動のようなものが起こらないように、できるだけ「公僕」であることを広くアピールしている。ところが日本では国家というものはそれをやらない。それで何時国家が転覆するか分からない状態なのだ。「他の国であれば疾うに内乱状態だ」などといわれている割には治安が保たれている。警察でも消防局でも、果ては自衛隊の隊員まで、こんなにまじめに任務を遂行しているものは、どこの国にもめったにいないらしい。かつて、アメリカのポリスの実態を暴いた映画があったが、ポリスが強盗や乞食と大差ないという状況は日本においてはまずありえない話だ。官公庁の役人がこれほどしっかりしているので、まず内乱状態には陥らないのだが、そのことが同時に官公庁の腐敗を誘っている。しかし、腐敗が今に始まったものだとはいえず、明治維新の元勲は総じて賄賂の名人であったそうだ。ただ生前は表ざたには決してならないような手配はしていた。その点は現在のほうがガラス張りだろう。明治維新政府というのは、どのようにみても、とんでもない暴力政権であるのだが、なぜかNHKなどでも維新政府樹立に貢献したものなどをたたえる。たとえば坂本龍馬や西郷隆盛だ。本人たちの気持ちは前向きなものであったろうと思う。特に坂本龍馬はそうだ。しかし、彼はあくまでも「死の商人」なのであって、闇取引で薩摩に鉄砲や大砲を売りつけることで利益を得ていたに過ぎない。それもどうやら龍馬が率先して海援隊という商社を設立したわけではないらしく、薩摩の小松(1835−70)の案らしい。それがどうして英雄のようにもてはやされるのだろう。龍馬の闇取引が遠因となって、朝鮮や中国はやられたのである。どうも英雄視するのは早とちりというものではなかろうか。

余談だが、坂本龍馬(1835−67)といえば、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎(1834−85)のことが頭に浮かぶ。同じ土佐の出身で、龍馬の亀山社中(海援隊)を通じて、両人は1867年以降何度か交流し、龍馬の日記にはたびたび酒を酌み交わしたという風なことがかかれているという。同じ同郷の商人同士、考え方はかなりに通ったものがあったと思われるが、あまり素行がよかったとは言い難い弥太郎と親交があったのでは不名誉だとでもいうのか、うわさでは不仲であったということになっている。どうやら、坂本龍馬にしても、かなり買いかぶりの面があるのかもしれない。現代でいえば、たまたま少しばかり才能のあったものが運よく芸能界にデビューして有名になった、といっては悪いかもしれないが、その程度のものなのかもしれない。


それはさておき、今回麻原氏のことを引き合いに出したのは、以前反共で有名な某サイトが、オウム真理教の「空中浮遊」の写真そっくりなテ法を使って中共を誹謗していたことを思い出したからである。別段そういう行為がやましいとか何とか、ことさらに道徳に反するようなことをいうのは、それはそれで社会の因習にとらわれているような気もする。精神界を云々するのは、鏡の国のアリスではないが、われわれが「道徳的ではない」とすることが、かの国では善とされ、「道徳的」なことは逆に不正とされていることもあるわけだ。精神界に限らず、物質界においても、われわれの国でもそのほか中国や北朝鮮でも挨拶一般の際は訪問先の人間を殴りつけるようなことはしないが、どこか南の島国では、会う人毎に軽くひっぱたくか殴りつけるのが親愛の表現であったらしい。

それで「空中浮遊」なんていうのは、実際に空中に人間が浮かんでいるわけであるから、文句を言われる筋合いはどこにもないはずであるのに、そういうことにも揚げ足を取って駆けずり回るものがいるというのは情けないと思った次第なのだが、テレビなどでは得意になって非難していた。昔は、かのニコラ・テスラなどが雷放電の下で椅子に腰掛けて読書をしているというのがあったが、あのほうがよほどトリックだ。「空中浮遊の件」には人をだますという思惑はそれほどなく、むしろ何時までも浮かんでいられると思って写真を見ている人間の頭のほうがおかしいといえる。しかし、テスラの件に関しては、詐欺師の頭角の表れを否定することはできないだろう。

もう一つ思い出したのだが、インドの聖人というのは、よく水の上を歩くそうなのである。もちろん、プールに入った途端に水中に沈んで頭も見えなくなってしまうのだが、インド人の観客というのは、それに対して万雷の拍手を送るのが普通であって、ペテンだとか詐欺だという言葉は出てこないという。そして実演したほうも、どうやら水上を歩けたものと自負しているらしい。考え方の違いで、これだけ人間の見方というものが変わる。空中浮遊にしても、たいていのものは、腹に力を入れて飛び上がっている場面が、隠すでもなく、克明に写真に撮られている。ヨガの空中浮遊では、普通片一方の手に握った杖を支えにして長時間行なう伝統らしいが、オウム教ではそれは特にやらなかったようだ。

魔術であれば、可能な方法はいくらでもありそうな感じである。戦闘に利用されないのは、それなりの資力が必要だからであろう。マリックの水上歩行↓
http://www.youtube.com/watch?v=cv5tauygVEw&feature=related


インド人一般の常識が風変わりなのか、日本人の常識が風変わりなのかは分からない。たとえば、日本人は数十年前までは、バスや電車という公共の場においても、授乳のために女性が胸をはだけることは普通に行なわれていた。私が高校を過ぎるくらいまでは、大体バスの後部座席に座って赤子に授乳している婦人を見かけることが、月に1,2度ほどあった。1970年の大阪万博が終わっても、まだ何年かはそういう状態であったが、そういうことは西欧人はしないらしい。その当時の国語の教師が、昔はそういうことは道端でも普通にやっていたなどと語っていた。明治初期の外国人がいずれも、日本人が人前で平気で裸になり、往来をふんどし一枚で闊歩している様子を伝えているが、そういう習慣は今でも残っていて、いまだに人前で全裸になって目隠し用の柵もない温泉に入る。最近は、下着姿で往来を歩いている男女を見かけることはないが、どうも法律で規制の対象になっていて、警官に注意されるのでやらないだけのようだ。法律による取締りというのがなければ、やはり裸になるらしい。これは、インド人もびっくりすることなのかもしれない。だいぶ前に私が驚いたのは、米国が原爆の記念切手を発行しようとした際の日本政府の態度であった。日本でも、原爆記念日というものがあるのに、外国が原爆を記念するのはだめだという。内政干渉のように思うのだが。


◇ところで、しばらく前から、BIGLOBEの検索で、「不食」だとかその種のことを検索すると、ここのブログ内だけについての検索が出来るということに気が付いた。世間で言われるほど、超能力のようなものを頭から否定しているものは多くはないということがわかる。ブロガーが匿名で好きなような意見を開陳することと、世間での振舞い方は、当然異なる。一方で、人の気に入るようなことだけをブログ記事に載せるという人も見られるようだ。特に、なんだかわからないのは、写真ばかり載せているもので、その写真も、まったく同じサイズなのに、簡単にダウンロードできる人と、一枚の写真だけダウンロードして表示できるまでに何秒もかかる人とがいるのがさっぱりわからない。割といえるのは、賢そうな人のページは写真類が多くても開くのが速いということだ。ためしに「写真」とか「花」などというカテゴリーをみようとしたら、IEがとまったようになり、結局は自分で閉じる羽目になったことが何度もある。そういうカテゴリーでも、すぐ写真が開く人がいるのは不思議である。

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