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zoom RSS ピコラエビッチ紙幣

<<   作成日時 : 2011/08/24 16:10   >>

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「ピコラエビッチ紙幣」というのは、尼港事件で有名な極東ロシア領の小都市二コラエフスク・ナ・アムーレにある日本企業の島田商会が発行した紙幣で、下落の激しいルーブル札(*)を保管し、町の産業を支える紙幣として大いに流通していたという。ダイヤモンド社から出版された同名の歴史小説の筆者は熊谷敬太郎氏は昭和21年の生まれで、雑貨の輸入業を営んでいたが、印刷業のほうも手がけたことがあるらしい。『ピコラエビッチ』の始めの『ピ』は『ニ』の誤植だという。ロシア語では『H』がN音をあらわすのだが、Hの横線を上にもと上げると「P」を示すようになる。現在も函館市中央図書館に、正規に印字された未使用の紙幣が10枚、流通していた使用済みの誤植紙幣が1枚残っているそうだ。写真の文字だと、そのほかにもはじめから2文字目も上にぽっちが抜けているので、「ペートラ・ピコラエビッチャ・シマーダ」という風にしか読めない。それはともかく、シベリヤ出兵中の1920年(大正9)3月から5月に掛けて行なわれた尼港事件については、あまりよく知られていない。日本軍はこの地を1918年(大正7)の9月に占領し、20年の冬には日本人居留約380名、陸軍守備隊1個大隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊336名)、海軍通信隊若干の総計およそ750名がいたという。そこへ20年1月にトリャピーツィンの率いる4千人のパルチザンが日本軍を包囲した。日本側は破れ、いったん停戦協定を結んだが、武器の引渡しを要求されたので住民の一部と策謀し、奇襲を掛けたが、またしても敗れた。それでパルチザン部隊が日本人捕虜を虐殺したという話で、よく考えてみればパルチザンが怒るのも当たり前の話だ。停戦協定を破られて奇襲を掛けられたのであるから。

(*)ルーブルについてはここ。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB#.E6.97.A7.E3.82.BD.E9.80.A3.E6.99.82.E4.BB.A3

大体昔、金相場制の下では、金1グラム相当だったらしい。アメリカドルが1ドル=金1.5グラムくらいあったらしい。その頃のドルは、現在の円にして1000円ほどの力があったのではないか。仮に1ドル1000円とすれば、金1グラムは670円ほどとなるから、これと同じほどの値打ちのある1ルーブルも650円の価値はあったと推測される。島田商店が10万ルーブル印刷したとすれば、6500万円だ。15万ルーブルでも、せいぜい現在の1億円ということになる。適当に計算してみただけだが、意外に少ない額だ。


2月6日の救援を求める連絡を最後に、この町は氷雪の中に孤立していた。4ヵ月後の6月2日になり、ようやくアムール川が解氷したので、派遣隊が現地に入港してみると、日本軍民計750名のほぼ全員が戦死もしくは惨殺されていたということが分かった。何が起こったのかさっぱり様子がつかめていないのは今も同じだ。戦死もしくは惨殺された日本人はおよそ730人であったが、資産家階級あるいは反革命思想の持ち主として殺害されたロシア人は7千人を超えるといわれている。その後レーニンの革命政府の裁判により首謀者トリャピーツィンには死罪が適用されたが、詳細は不明なので、ソ連側は分からないことはわからないと正直に話しているが、日本側はパルチザンが勝手にやってきて、無垢な軍民を勝手に虐殺したなどと、おそらくでたらめだろうという記事を載せていた。『元寇以来の屈辱』などと国民を煽り立てた政府は、北樺太との占領を同年7月3日に宣言した。この事件の日本側の一方的な決め付けは、現在に至ってもなお国交上の問題として残っている。いまだにかなり多くの日本人が、ソ連側の理由なき殺戮であったと信じて疑わないでいるようだ。しかし、真相は、ロシア住民の虐殺を先に行なっていたところ、日本人の一部がロシア人に加担したので、日本軍に襲撃をかけたところ、偽りの停戦条約を結ばれて、奇襲攻撃を受けたため、怒り狂ったものであったという可能性が最も濃厚であるようだ。小説の中では、襲ってきた赤軍過激派の頭目はツリャーピツインと記されているが、まだ二十歳そこそこの若者で、ハバロフスク方面からやってきて、各地のロシア人の死骸を襲撃、破壊して回りながら勢力を拡大していったとなっている。兵卒の大半が鉱夫であったり漁民であったそうだ。この辺はチンギスハンの手口を髣髴させる。当時の尼港の総家屋数は2170棟であったが、そのうち2140棟がやかれ、わずかの30棟が残ったに過ぎないという。人口は、ロシア人9000人、中国人2500人、朝鮮人1000人、日本人は軍民計750人であった。1920年3月と5月の2度の戦闘行為と虐殺により、7000人以上のロシア人と日本人のほぼ全員が死亡した。中国人や朝鮮人の被害は分からないが、当初ロシア人だけが被害にあっていたのに、あるときを境に日本人が襲撃されるようになり、それもほぼ全員が虐殺されたというのは、どうもこちらから手を出したのでパルチザンが逆上したと見るほかなさそうだ。シベリア進駐の初期に大日本帝国軍が略奪を働いたという村々の犠牲者の中に、トリャピーツィンの身内のものがいたのかもしれない。ちなみに、当時の日本陸軍は4個中隊1000名をもって1大隊としていたが、尼港に派遣された1個大隊は総計336人しかいなかった。指揮官の石川正雅少佐の人柄も、どうもあまり高く評価されていない。任務に失敗したのだから評判が下がるのは当たり前だが、赤軍過激派の包囲が始まってからも、相手の戦力を調べるでもなく、住民を守ろうという風でもなかったようなことが書かれている。小説と入っても、筆者もこの辺はよく調べて書いたのだろうから、石川少佐が能力的に見劣りする人物であったことは確かなようだ。

この事件で名を知られることになったこの町で、大正7年〜同8年(1918〜9)の間流通させた一商店が発行した紙幣の名が『ピコラエビッチ紙幣』だ。もちろん日本文字ではなくロシア文字で印字されている。通貨単位は「コペイカ」と「ルーブル」で、50コペイカ紙幣、1、3,5、10ルーブル紙幣のものまで5種類のものがある。最も、紙幣の形をしているけれども、正確に分類すれば、商品との交換を保障した商品券や小切手の部類に属するということである。しかし、ルーブルの名を印字したものの流通を許すというのは、その頃のレーニン革命政府の力が極東地域にまで及ばなかったのか、それとも、ロシア人の目から見ればこのくらいの細工はまだまだ手形のうちであって、日本流の考え方が杓子定規に過ぎるのだろうか、とに角同じ1ルーブル紙幣であっても、日ごとに価値の上がってゆくものであったらしい。当時は1ルーブル紙幣と1ルーブル銀貨とがあった(前述のとおり大体1ルーブルが金1グラムで、1アメリカドルが金1.5グラム程度相当だったらしい)が、紙幣のほうは年々値打ちが下がり、そのうちルーブル銀貨も金本位制の元では、価値の変動が激しく、金貨のほうが価値を持つようになっていった。とうとう革命政府の元ではルーブル紙幣は10万ルーブルのものまで発行されるようになって行ったというが、このことについては又別の機会にロシアの歴史としてまとめてみようと思う。今はよく分からない。しかもルーブル紙幣の印刷を手がけたのはどうやら東京にある印刷所で、日本の円紙幣のほうは明治以降大日本帝国政府印刷局が一手に印刷していて、一般の印刷業者が刷ったのでは偽造紙幣ということになってしまう。相当今とは観念が異なる場所と時代であったようだ。本書にも最初のほうで、その説明は小説の形式で説明されているが、戦争中の占領下であったからできたというようなことだと思う。ロシア人はロシアルーブルではなく日本円での販売を望んでいるのだが、ロシアだから日本円は無理である。かといって小切手にしたらば、どのみち銀行でルーブル交換の必要が出てくる。だから島田商会の商品との交換を保障された保証書がほしいというわけだ。いちいち小切手の形で流通させていたのでは返って面倒であったので、いっそ紙幣の形をとったらしい。ふと、普段何気なく購入している物品だが、購入の際、店員に「この札では交換できません」と受け渡しを拒否されたらどんなものなのだろうなどと考えてみる。月に2倍も3倍も下落しているというわけではないが、それにやや近いのが現在のドル紙幣だ。ちなみに、今の日本でも、輸出企業のほうが大規模だとは言いながら、輸入産業のほうの利益のほうが大きく、国全体で見れば黒字を確保しているというのは、なかなか民間企業も早々馬鹿ではないという見方もできる。おまけに、ソニーなど、物が売れれば損失が出るはずのないところまで、利益は計上していないのだから、実際はもっと黒字幅は大きいだろう。企業間同士の取引ならば、為替変動のない流通手形というものを発行しても、別段取り締まりの対象とはならないようにも思うが、ライブドア事件のように始めは政府が黙認している場合でも何時ヒステリックに手のひらを返されるか分かったものではないから、いまどきこういう冒険的な真似をやる人はまず出てこないであろう。

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細かいところまでははっきりしないから、本書は歴史小説のスタイルをとってはいるが、実際はノンフィクションに近い。筆者の推定では合計15万ルーブル印刷したとある。どうして15万ルーブルも印刷した時点で、つづりの初歩的なミスが発見できなかったのか分からない。わざと間違えたようにも思える。当時の日本には社会主義思想が蔓延していて、資本主義世界での社会主義思想御三家といえば、ドイツ、アメリカ、日本であった。加えて、当時の読書人というのは、数が少ない分、現在よりもかなりハイレベルであったと推測される。少数グループだと、必然的に精鋭になるというのが人間の性質だ。だから、その頃の植字工は、おそらく英文字と同じくらいロシア文字にも精通していたはずで、そうそう簡単な見間違いというものはしなかったように思うわけである。しかし実際不注意で間違えたことが本当だとすると、日本人の本質もかなり愉快なところが垣間見える。スペイン人のように真面目腐ってドジなところを平然と演じるところだ。

島田元太郎社長が尼港の島田商会でルーブル札を最初に発行したのは、大正7年のことで、そのときはアムルスキー・リマンという新聞社であったそうだ。発行額は5万ルーブルとなっている。ロシア政府発行のルーブル紙幣は下落が激しくて支払い手段としては不適切であったので、町の人々はみなシマダの紙幣での支払いを要求した。極単純に考えてみても、これから下落することが分かっている通貨と交換にものを売ろうという人間はめったにいないだろう。円高が進めば、こちらからわざわざ輸入などせずとも、向こうのほうから出向いてきて商品を売りつけてくるのと同じだ。

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     1918年頃発行されていたルーブル紙幣↑




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日本人が発行したルーブル札の謎 熊谷敬太郎 ダイヤモンド社発行年月:2009年10月 ページ数:33


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小説の類はあまり好きではないというか、どちらかというと嫌いだが、この本は面白かった。ロシア人の立場から見た日本企業というものも想像して書かれているが、シベリアがそれほど寒いところだと思っているというのがあまりよくわからなかった。満州と比べたらぜんぜん暖かいだろう。北海道旭川よりも寒いところなどあまりないと思う。

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