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zoom RSS ガダルカナルの闘い・・・前半

<<   作成日時 : 2011/09/20 16:49   >>

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星亮一の「偽りの明治維新」という薄い本を読んで以来、日本政府自体がいんちき政府であるという感を強くして、おまけに産業革命以来環境破壊の主役を務めてきた殖産興業の原動力となったのが、戦闘で傷付いた大衆自身であることも加わって、あまり日本の近・現代史というものを調べようという積極的な気にはなれないでいる。



島は南西太平洋ソロモン諸島の火山島であって、面積は6500平方キロだ。長辺で100キロ強ほどの大きさしかない。土着の住民はメラネシア系だというが、当時、一応イギリス保護領で連合国の領土に属していたとはいえ、日米とも勝手に人の土地に入り込んで爆弾の投げ合いをして平然としていたのだから全くあきれたはなしだ。喧嘩がしたいのなら自分たちの家でやるのが常識というものである。自国領なら、隣近所で誰かが抗争発砲でもしたら、これは当然当時であっても逮捕拘束されたのだが、日米の戦争兵士以外の第三者の家屋を破壊したものは無罪であった。世界大戦などというのはただの口実で、戦争などとは無縁な第三国のほうがずっと多かった。戦争当国の準植民地まで含めれば、圧倒的な多数派が戦争とは無縁なただの一般人だった。広島や長崎の住人も戦争とは無縁だったなどといわれるが、彼ら第三国の人間ほどに無縁だったと言い切れるのか、少し言葉の選び方に問題があるようにも思う。

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ソロモン諸島の名の起こりは、旧約聖書にあるソロモンの財宝を求めていたトレジャーハンターのスペインの航海者メンダーニャ(1541−1595)が、ヨーロッパ人としてはこの島(ツラギ島らしい)を始めて発見した事に由来する。それが1568年のことで、日本では1560年の桶狭間の戦いが済んで、織田信長が京都に南蛮寺を建立した年にあたる。

時は流れて1870年代に、フィジーやオーストラリアの農園のための労働者狩り(ブラックバーディング)が行なわれ、大英帝国がその対策として1893年に同諸島南部の保護領化を宣言したことで、一応この地域はイギリス領となったわけだ。労働者狩りなどといっても、原住民を捕まえれば即働いただろうかというと、かなり長い期間教育を受けさせて幼児期から次第に飼いならしてゆかなければ、必要もないのに働こうとする人間など誰も出てこない。そこでまず植民地を開こうとする列強の民が選んだのが、畑を潰して幹線道路や工場を作るという作戦だった。そうすれば、畑がなくなり自給自足ができなくなるので、いやでも工場に働きに出かけなければならなくなるというしくみだ。それでも自給自足していていた頃は一日2時間も働けば十分だったので、長時間働かせるためにはどうしても警棒を持った看守の暴力が必要だった。馴致教育が進むに連れて人々は自分から労働するようになったので、これは列強を大いに栄えさせることとなった。洗脳教育といってもよい。これは後年ラッセル卿が驚きをもって語っている。1914年8月4日、宣戦布告の非の衝撃の事実だ。その日の夕暮れ、彼は多くの群集に混じって、トラファルガー広場にいた。そうして多くの善良な平和主義者と同じように、『戦争は、専制的でマキアヴェリ的な政府によって、嫌がる民衆に強制的に押し付けられたもの』と思い込んでいた彼の耳にしたものは、強制どころか、自ら進んで戦争に激情を燃え上がらせる群集の熱狂的な歓呼の声であった。つまり、圧倒的多数の大衆にはしそうだとか信念などといったものは全くなく、ただ他人と同じように考え、同じように行動するように作られているだけの機械人形なのだ。だから、ただ「労働は尊いものであって、勤勉はこれ以上はない美徳なのだ」というプログラムを彼らの脳髄に埋め込んでやりさえすれば、彼らは非常に便利な奴隷となるのだ。

後に彼らソロモン諸島の人々はイギリスから独立して、1978年7月7日の日に同名の「ソロモン諸島」という名の国家を建国した。カナダやオーストラリアと同じく、イギリス国王が元首であるが、西欧人はともかくとして、メラネシア人やポリネシア人の国が国家元首をイギリス国王としているのは果たしてこれを独立といえるのだろうかという気もする。国旗の右斜め下半分の緑は豊かな自然をイメージしているそうだが、実際そのことで、東レンネル地方は世界遺産に指定されていて、南太平洋最大の汽水湖であるテガノ湖があるそうだ。貴重な生態系を維持しており、生物の重要サンプルにあふれているらしい。
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さて、戦争自体はガダルカナルで起こったのだが、ここはアメリカとオーストラリアの供給線に近かったので、緒戦の1942年1月下旬に南雲機動部隊の働きによりラバウルを占領すると、半年ほどでガダルカナルへの進軍が企てられた。なぜ半年以上も大きな進展がなかったかというと、その大きな要因は、ここまでが日本軍の第一段作戦の目標ラインであったからだという。そうして、そこまでは目標を上回る快進撃であって、太平洋戦争開始後3ヶ月も経ずしてそこまで進撃するなどとは想定外の出来事で、まだ次の作戦が出来ていなかった。初めから、第一の目標ラインまで戦線が拡大する前に米軍は驚いて講和してくるはずだと踏んでいたのに、ちっともそのそぶりを見せない。参謀同志が青ざめた顔でふさぎこんでいるのに、将兵たちは連日の大勝利で浮かれ気分だった。おまけにドイツ軍のほうもひところの快進撃振りは影を潜めてきたらしいとあっては、参謀の中には『もはや敗色濃厚なのだから』と内心そう思うものも出てきたと思われるので、こうなると意見がまとまるはずもない。同じ海軍同士にあってもこんな風だから、まして陸軍と海軍の協力などまずありえないという雰囲気になってきてしまった。

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陸軍としては、やはりやるべきは日中戦争の終結から、対ソ戦への備えである。それでまず陸軍の全面的な協力を仰ぐために、日ソ中立条約というのが1941年の4月13日に締結された。それから海軍としては、前述のようにアメリカとオーストラリアの供給線を遮断したい。だがこれには連合艦隊司令長官の山本五十六が反対していて、ミッドウェーで米空母をたたいてハワイを攻略せよだとか、フィジー、サモア等を攻略して米豪の交通路を遮断するためにニューギニアのポートモレスビーをたたけなどといって聞かない。本来なら、連合艦隊司令長官といえども海軍総司令部の命令には従わなければいけないのであるが、真珠湾以来山本長官には絶大な力があって、結局最終的な意見の統一はならなかった。加えて日ソ中立条約が成立して間もない4月18日には帝都東京が、空母ホーネットを発進した陸軍爆撃機B−25ミッチェル(ドゥーリットル爆撃隊)16機の空爆を受け45名が死亡した(ドゥーリットル隊については後日まとめる予定)。米軍からの思わぬ空爆に衝撃を受けた大本営は、このことでミッドウェイ作戦の必要性を痛感したといわれる。

それでも最初に実行されたのは、海軍としても数ヶ月前から小規模な攻撃を始めていたニューギニアの大軍事基地ポートモレスビーの攻略(MO作戦)を目指す山本案であった。ポートモレスビーはニューギニア島の南側に位置し、ニューブリテン島の北端にあるラバウルからは南西の方角に位置するのだが、北方にはビクトリア山(4038m)など4000m級の山々が連なるオーウェン・スタンリー山脈がそびえていて、陸路ではとても近づけない。そこでまずソロモン諸島のガダルカナル島のすぐ北のツラギ(すでに住民の港があり、かなり栄えていた。彼らは避難していたはずであるが、どうしていたのかはわからない)に上陸したのが5月3日のことで、ここに水上機の基地を作って、周辺の偵察を開始したが、作戦はアメリカの暗号解読のために筒抜けで、翌朝早速米空母の爆撃を受ける。そのうちアメリカに空母祥鳳を撃沈されて、作戦中止を余儀なくされる。MO作戦をめぐる2度の海戦を「さんご礁の海戦」と呼んでいるが、開戦以来拡大の一途を続けていた日本軍の前線が始めて停滞した。しかし、作戦失敗にもかかわらず、陸軍は勝算の見込みのない陸路からの進撃を敢行する。

しかし、ドゥーリトル隊による空爆のためか、ミッドウェイ作戦(MI作戦)が先になった。ミッドウェイと同時にアリューシャン列島も攻略し、ミッドウェイとアリューシャン列島に設けた軍事基地の間に敷く哨戒線で日本本土への空爆を防ぐという作戦で、当初の同作戦には哨戒線のことは論議されていなかったはずで、帝都爆撃の衝撃の大きさというものが見て取れる。MI作戦のために各基地から終結した大艦隊は正規空母4隻以外にも戦艦11隻を含み、空母3隻に戦艦ゼロという米軍をはるかに上回っていた。ところが、実際に戦火を交えたのは、空母4隻を率いる南雲機動部隊のみであったので、たった一度の海戦に勝利しただけでで米軍は戦争の主導権を握ることとなったのだった。それが6月5日のことだ。

こうしてミッドウェー作戦が敗北に終わったことで、日本には主だった機動部隊がなくなり、それでフィジー・サモアの攻略により米豪の連絡ををたとうとするFS作戦というのは当面行なえなくなった。そこでソロモン諸島のガダルカナル島に航空基地を建設し、同海域の制海権を確保しようということになったのである。それぐらいしかやることが無くなったといった方が良いくらいで、ほとんど計画らしい計画は立てなかったらしい。6月下旬に大本営はガダルカナル島に飛行場の建設を命令した。その命を受けて7月6日に海軍の設営隊が上陸し、基地建設を始めた。5月のツラギ上陸のときのように米軍に暗号は解読されなかったようで、翌朝すぐ空爆されるようなことはなかったが、一ヵ月後の8月7日に米軍が襲ってきた。完全な奇襲であって、日本軍3000名のうち戦闘員はわずか250名のみで、残りはすべて設営隊員で武器らしい武器は持っていなかった。

米軍は、アレキサンダー・ヴァンデクリプト(1887−1973)(*)少将の率いる米第1海兵師団約1.6万人を上陸させ、飛行場を接収し、ヘンダーソン飛行場として使用し始めた。要するに泥棒みたいなものなのだが、戦争なのだからそういうことをしても逮捕されない。ところが、さぞやミッ同ウェーの敗戦で落胆しているであろうという日本軍であったが、意外にもすぐにこれを迎撃した。ラバウル基地からすぐに零戦や陸攻を差し向けると共に、三川軍一中将の第八艦隊を急行させ、8月8日の深夜より野戦を仕掛け、米豪連合軍の重巡洋艦3隻を撃沈するという大戦果を上げた(第1次ソロモン海戦)。潜水艦14隻もこの海域に派遣した。ところがこの大勝利で日本軍は情勢を楽観視してしまう。8月18日におよそ900名の一木支隊第一梯団も、夜襲をかければ敵は簡単に退散するであろうという読みであったらしいが、米軍は強固な陣地の前に戦車部隊で応戦し、一木支隊は20日に夜襲をかけた後間もなく全滅してしまった。24日に第2次ソロモン海戦というのが行なわれたが、南雲機動部隊の放った艦上爆撃機は、強力な対空砲火を誇る新型戦艦ノースカロライナに次々と撃墜されてしまった。日本軍の攻撃機では装甲が薄すぎて撃墜されてしまうのだ。

(*)ヴァンデグリフト海兵隊大将(下の写真)は、ルーズベルトから次のような賞状をもらってはいる。少し訳がおかしいようだがそのまま引用する。

「1942年8月7日から12月9日にかけて、ソロモン諸島の敵日本軍部隊に対する作戦において第1海兵師団の司令官としての義務の要求を越えて傑出し、そして英雄的な業績による。

天候、地形そして疫病と彼の任務を難しく冒険的な事業にする悪条件の中、彼の指揮する海、陸そして陸軍航空隊、海軍そして海兵隊を含むアメリカ軍部隊最初の上陸波と次の任務はヴァンデグリフト少将の指揮によって著しい成功を収めた。

彼の不屈、勇気そして機知に富んでいたことは、強く断固とし、そして経験豊富な敵に勝り、そして彼の部下を鼓舞する指揮の下にある部下の勇敢な闘争心により、彼らは空、陸そして海の攻撃に耐えることを可能にし、そして敵を混乱させ、破壊した。

この危険だが、極めて重要な作戦において、彼の生命の絶え間ない危険によって達成し、敵に対する我が方の部隊の更なる作戦とその首尾良い完了のために価値のある機知を確保することを可能とし、大きな名誉をヴァンデグリフト少将と彼の部隊そして合衆国海軍にもたらした。

フランクリン・D・ルーズベルト」

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8月29日から9月3日にかけて川口支隊と一木支隊第二梯団計7千名ほどが上陸したが、米軍が食料の調達に難渋しているという弱点を突くことができず、わずかのところで撤退したことは、後年『兵力の逐次投入の誤謬』などと指摘されているところだ。この当たりの選挙区まででは、米軍は日本軍の残した食糧米を奪って飢えをしのぐといった有様で、飢餓に関しては日本軍以上であったようだ。周辺の海域は日本軍のほうが押さえ込んでいたのだから、考えてみれば、米軍は制空権を握っているだけで、大規模な物資の移送は不可能だっただろう。制空権を握れば、同時に制海権も握れるというのは戦後も半ばを過ぎて航空機の目が進歩してからだろう。それまでは夜間に哨戒機が飛び回っても、何の役にも立たなかった。日の出前、日没後の飛行はできず、又雨の日も視界が悪くてだめというのではあまり脅威ではない。それに、戦争初期のころは、潜水艦にとっては昼間でもあまり関係はなかったようだ。

陸戦ではぱっとしなかったものの、先に派遣されていた潜水艦はよく働き、とくにソロモン諸島南東のサン・クリストバル等付近の海域を米軍は『魚雷交差点』と呼んで恐れた。日本海軍の潜水艦には、艦隊の護衛を任務とする『海大型(海軍式大型)』と、単独で偵察・攻撃(通商破壊)任務に当る『巡潜型』とがあったが、『巡潜乙型』の活躍は特に目覚しかったそうだ。中でも、9月15日の昼前に木梨鷹一艦長の伊19潜水艦が米空母ワスプに向けて、至近距離900mからはなった魚雷6本のうちの3本でワスプを撃沈、はずれた3発のすべても、およそ10キロ離れた戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンに命中し、オブライエンを撃沈させたという話は非常に興味深い。味方に当ったら大変なところだったが、そういう話は聞かないから、実際日本軍の砲撃はうまかったのだろう。この戦果によって、米軍のガダルカナル島への供給は一時途絶えてしまったが、日本は米軍が危機的状況にあるのに気付かず、このチャンスを逃してしまった。なお、巡潜乙型の潜水艦は、開戦以来から、アメリカ西海岸一体で通商破壊に従事していたというから、相当の航続距離だ。音が大きすぎるのと、戦争の長期化を予想していなかったことで石油の枯渇を招いたので、アメリカ西海岸一体での潜水艦による通商破壊作戦は1年足らずで中止された。日本兵は気付かなかったと思うが、日本の潜水艦はドイツのUボートなどと比べると、あまりに居住性を重視していて、ドイツ軍は野菜の栽培室まで備えている日本の潜水艦を見て仰天したらしい(ドイツ兵士にはそう見えた)。彼らには日本兵の食事内容は水上艦並みのものに映ったらしい。特に広さとトイレの清潔度の高さとタービン音のやかましさに驚いたという話だ。

10月13日には、戦艦金剛と榛名が約1000発の艦砲射撃をヘンダーソン飛行場に行い、一時的に飛行場の機能を奪うが、すぐに米軍がブルドーザーで飛行場を修復し、上陸しようとする日本軍に空爆を加えた。

この後、南太平洋海戦で、日本は米軍が太平洋で使える正規空母を一時的にせよゼロにするという成果を上げる。ミッドウェイでの大打撃の後、坂を転げ落ちるように防戦一方でもなかったことが窺えるが、国力に5倍以上の差があっても、現実の戦闘の場ではそれほどの大差が出なかったというのはどうにも奇妙な話だ。それだけアメリカ人一般の生活ぶりが戦時中でも普段どおりであったとも言えるが、前線の兵卒の窮乏状態には余り目を向けず、相変わらず国民生活の向上ばかりを心がける政府というのも、単なる人気取りが目的ではないかという気もしてあまり共感の持てるものではない。この時点の国力の差は10倍近くあったと思われるのに、日米の兵士の窮状には大差がなかったようなのだ。


文字カウントを数えたら、引用文を加える前に6000字を超えてしまったので、続きはまた気の向いたときに書くことにした。これから先は大体において米軍優勢という展開になってゆく。
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またウィキペディアの「ソロモン諸島の戦い」というところからのコピペを下に上げておく。ほかのところからの引用だと、プライバシーの問題などいろいろあるので問題があるだろうからのせられない。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「1942年5月3日、早速日本海軍はわずかな守備隊と飛行場設営隊を送り込み飛行場建設を開始した。一方この情報をつかんだアメリカ軍は、8月7日に飛行場建設が完成目前のガダルカナル島に海兵隊16,000名を上陸させ、さしたる抵抗も受けずに島を占領した。またこれと同時にフロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に対しても陸海共同の占領作戦が行われた。ウォッチタワー作戦と呼ばれるこれらの作戦は、太平洋戦線のアメリカ軍にとっては初めての攻勢であった。こうしてそれまで注目されていなかったガダルカナル島は日米両軍の最大の交戦地となった。

米海軍は戦艦を含む大艦隊をこの島の周辺に送り込んだ。それに対し日本陸海軍は、ソロモン諸島奪還を目的とする「カ号作戦」を発令したが、海軍はその頃効果の現れだした米軍の通商破壊戦による影響から燃料不足に陥っており、そのため新鋭戦艦大和を保有しながらも旧式の金剛型4隻のみを送り出した。この日本海軍の行動はミッドウェー海戦とおなじく太平洋戦争の敗北原因の1つとされている。さらにこのソロモンでの戦いでラバウル航空隊は往復2,000キロもの長距離飛行を強いられた。そのため、熟練搭乗員の疲労は激しく、多くの航空機と貴重な搭乗員を消耗していった。また日本が建設しアメリカ軍が命名したヘンダーソン飛行場を巡る地上戦では、日本軍の状況判断の誤り、輸送能力の不足、戦力の逐次投入などにより攻撃はことごとく失敗し、戦況は泥沼化した。

一連の撤退作戦が行われた後、1943年2月9日ガダルカナル島からの「転進」(撤退)を伝える大本営発表が行われた。この戦いにおける日本軍の死傷者24,000名、アメリカ軍の死傷者6,000名を数えるまでになっていた。日本軍はソロモンでの戦いに敗北、ガダルカナルから撤退し、以後戦況は悪化の一途をたどる。」


「日本軍のガダルカナル島撤退後、アメリカ軍の攻勢は強まり、3月5日にはコロンバンガラ島への輸送に当たっていた日本軍の駆逐艦2隻がアメリカ艦隊に撃沈された。また、ニューギニア方面でもラエへの輸送部隊が連合軍の空襲で壊滅した(ビスマルク海海戦)。さらに、連合軍はソロモン、ニューギニア方面の航空機を増強し、この方面の制空権を握っていた。この状況を打開するため日本軍はソロモン、ニューギニア方面への大規模な航空作戦を実施したが、たいした戦果は挙げられなかった(い号作戦)。そして、この作戦後前線の視察に向かっていた山本五十六連合艦隊司令長官はブーゲンビル島ブイン上空でアメリカ軍機の攻撃を受け戦死した(海軍甲事件)。

6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島の日本軍の飛行場があるムンダの対岸のレンドバ島に上陸した。日本軍の守備隊は少数ですぐに占領した。そして、7月7日にはそこからムンダへの砲撃を開始し、5日にはニュージョージア島にも上陸した。日本軍は何度か増援部隊を送り、これを阻止しようとするアメリカ軍との間で海戦が発生した。8月5日にはアメリカ軍はムンダを占領し、下旬には日本軍はニュージョージア島から撤退した。

8月13日、日本軍は中部ソロモンからの撤退を決め、10月6日にはベララベラ島からの撤退が行われた。アメリカ艦隊と交戦した(ベララベラ海戦)もののこの撤退は成功した。

11月1日、アメリカ軍はブーゲンビル島タロキナへ上陸した。」


日本軍の戦死者8万人に対し、米軍の戦死者は1万1千人とされる。なぜ撤退表明後の犠牲者のほうが多いのかよくわからない。



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