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zoom RSS 真珠湾の仕返し::ドゥーリトル爆撃隊

<<   作成日時 : 2011/09/22 16:28   >>

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真珠湾攻撃後、一ヶ月足らずで日本本土への爆撃が考えられていたことには、その背景に、日本の潜水艦による米本土の襲撃という歴史的な事実が隠されているらしいということを知ったが、このことはまたまた新たな驚きであった。

真珠湾の奇襲後、カリフォルニア州を初めとする西海岸の住民が、終戦間際まで日本軍の空爆が何時あるかと恐れるあまり、連日灯火管制を怠らなかったという話は以前から聞いて知っていたが、どうも潜水艦によるアメリカ本土沿岸部の襲撃があったことまでは聞いたことがない。たぶん、日本の潜水艦はドイツのUボートとは異なり通商破壊を目的としたことはなかったという誤った情報を真に受けていたせいもあるかと思う。通商破壊を目的とした潜水艦がなかったというのは本当のことであるが、それは『海軍式大型潜水艦』というタイプに限られ、『巡潜型潜水艦』についてはそうではなかった。Uボートと比べれば積極的に敵の戦闘艦を攻撃したのは、ただ単に大きさが大きく攻撃力に勝っていたからだろう。決して、チェスター・ニミッツ元帥(1885−1966)が語ったというように「その強力な潜水艦部隊を、連合軍の商船隊攻撃という正統作戦に決して振り向けたことがなかった」(「ニミッツの太平洋会戦史」)というわけではなかったようだ。

日本海軍は、真珠湾の奇襲が成功裏に終わると、すぐさま巡回型の潜水艦群10隻ほどを通商破壊用にアメリカ西海岸へ差し向け、沿岸を航行中の米タンカーや貨物船を5隻撃沈、5隻を大破させたという。その総トン数は6万4669トンに達したという。中には日中に多くの米国市民の目撃している前で、日中沖合い数キロの貨物船を撃沈したという記録も残っているそうだ。これはドイツのUボートの通商破壊が絶頂に達したときの月間の平均撃沈トン数13万トンと比べても、その期間と台数を考えれば引けをとらないどころか、むしろ上回っているほどである。日本軍潜水艦部隊の攻撃力のすさまじさというものがここからも窺える(*)。年末を狙って沿岸付近にある市街地の要所を砲撃するという計画もあったらしいが、クリスマスの時期に一般市民に死者を出すようなことにでもなると問題になるというので中止になったらしい。ここに、当時の日米の国力の差というものが見える。日本側は、はじめから屈服させることなど到底不可能であることが分かっている国を相手にしている。目的としているのは、少しでも優位な講和だけであるから、相手国の一般市民は傷つけまいと必至である。それに対して国力に勝るアメリカのほうは、ほとんどそんな事は考慮していないように見える。これは単独同士で繰り広げられていた時の日中戦でも見られた法則だ。その後しばらくして、翌1942年2月24日には伊17潜水艦が、カリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油精製所を砲撃して、施設の一部に損傷を与えたらしい。さらに6月20日には伊26がカナダバンクーバー島の無線羅針局を、翌21日には伊25が米海軍基地を襲い兵士1名を負傷させた。米本土にある海軍基地が砲撃されたのは、1812年の英海軍との対戦以来のことであった。この伊25はその後のドゥーリットル帝都空爆の後米本土への空爆を単独で決行する。水上飛行機一機による森林地帯へのひそかな空爆であったが、これが米国の歴史始まって以来始めて本土が空爆された記録となった。

(*)より詳しく言うと、第6艦隊の一部伊9.10.15.17.19.21.23.25.26の9隻にて先遣支隊を編成 して、アメリカ西海岸沖で12月20日頃から12/27まで通商破壊戦を実施 したということになっている。10隻という説もあるそうだ。詳しい内容は、

「21日 『エミディオ』号撃沈(タンカー、6912総トン) 伊17 雷撃による
     『アグィワールド』号大破擱座(タンカー、6771総トン) 伊23 砲撃による
 22日 『モンテベロ』号撃沈(タンカー、8272総トン) 伊21 雷撃による
 23日 『H・M・ストーレイ』号撃破(タンカー、1万0763総トン) 伊19 魚雷1本命中
     『アイダホ』号撃破(タンカー、6418総トン) 伊21 雷撃による
 24日 『ラリー・ドヘニイ』号撃破(タンカー、7038総トン) 伊17 魚雷1本と砲撃による
 25日 『アブサロカ』号撃破(貨物船、5695総トン) 伊19 雷撃による
     『ドロシー・フィリップス』号撃破擱座(客船、2119総トン) 伊23 砲撃による
 28日 『コネチカット』号撃沈(タンカー、8684総トン) 伊25 雷撃による 」

とある。



これより前『黄過論』というのが欧米を吹きまくっていた。中国および中国人を軽蔑しながら、一方では広大な国土と巨大な人口に対する恐れから、いつかは世界中が中国人たちによって征服されてしまうという話なのだが、この話しが生まれた大本も、元はといえばイギリスでアヘン戦争に対する非難の嵐が起こってきたためであったといわれる。マカートニー事件やアマースト事件を通じて、散々頭を押さえつけられて来た中国に報復するといっても、度が過ぎた行いであって、到底文明国の人間の行なってよいまねではないという非難に対して、彼らを押さえつけてよい正統な理屈を説いたものだった。そこで白人以外の人間は人間というよりもむしろサルに近いのだという理屈を並べると、うまいことに大衆全般がそれを信じ込んだのだった。そういう思想がアメリカに広まったのは1880年代のことだったといわれる。しかし、時代を経るにつれて、中国人の驚異というのは問題ではなくなり、変わって台頭してきたのが、同じ黄色人種の日本人であった。イギリスと同じような島国であるだけに、いかにも世界を征服しそうだ。それで当時の欧米の大衆というのは異常なほど日本人を畏れていた。だからルーズベルト大統領は決してアメリカ本土が日本軍の潜水艦に襲われているということは国内では報道しなかったし、海外にもらすことも禁じていた。国内中がパニックになることを恐れたからであるが、それでも西部沿岸の諸州は必要もない過剰な恐怖を懐いていた。


さて、開戦以来全く防戦一方で少しもいいところのなかった米国としては、イギリスやドイツに勝る超大国ぶりを見せ付けなければならないというので、何とかして日本に一泡吹かせてやりたいものだと連日考えあぐねていた。このまま負け続けたのでは悔しくてたまらないというところは誰でもわかるだろう。そうしているときに、1942年の1月31日だというが、空母ホーネットを上空から視察していた海軍作戦参謀のフランシス・S・ロー大佐は、航続距離の長い大型の双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつき、航空作戦参謀のドナルド・ダンカン海軍大佐に相談を持ちかける。早速陸軍機のB25ミッチェルがクレーンでホーネットの甲板に取り付けられ、ジョン・フィッツジェラルドとジェームス・マッカーシー両海軍大尉が、ノーフォーク州の海域で発進に成功した。画像なんとよく2月1日のこととあるが、わずか一日で陸海軍のやり取りがうまく行なわれるとも思えない。日本軍であったなら、そんな馬鹿な進言をした参謀はきっと訓告処分であって、陸軍と海軍の中の悪さは何処の国でも同じだったろう。特にドイツ海軍とイギリス海軍の石頭ぶりは有名で、アメリカ海軍の頭だけが柔軟だったとはあまり考えられない。やや疑問だが、とにかく海軍はこのことをルーズベルト大統領に報告した。発案したロー大佐のことを潜水艦隊員だと紹介したらしいが、どうやらルーズベルトは潜水艦の乗組員のいうことなら信頼できると思っていたらしい(**)。『パール・ハーバー』というムービーにもこのことが描かれている。真珠湾奇襲の攻撃隊の零戦パイロットがハワイの学童たちに向かって『逃げろー!』と大声で叫んでいる場面が印象的な映画であったが、たぶんこの人がハワイの記念碑に突入した第二次攻撃隊の飯田房太郎大尉ではないかと思った。時間的に考えると、学童の登校時刻にぶつかるのは第1次攻撃隊ではなくて第2次だと思う。この人は、敵弾に燃料タンクを打ち抜かれて母艦に帰還できなかったので、引き返してカネオエ基地の格納庫に飛行機ごと体当たりして戦死したのだが、それでよく記念碑などこしらえてくれるものだ。ただし、石碑の日付は’DEC.7.1941’とある。

(**)パールハーバーで散々な被害にあったのにもかかわらず、自国の兵士たちの戦没者を悲しむ様子も見せず、敵国である日本軍の奇襲部隊の錬度の高さを褒めちぎる太平洋司令官のキング元帥(1878−1956)の態度は、イギリス人堅気のルーズベルトには鼻持ちならないものであったらしい。奇襲作戦こそアメリカ軍の伝統とするものであったが、反対にそれはイギリス軍の最も忌むべきものであった。加えて海軍は『真珠湾は水深が浅いので航空機による魚雷攻撃は絶対に不可能だ』と常々口にしていたのに、日本軍の魚雷攻撃は何発も命中したではないか。それでルーズベルトは以来海軍というものを全く信用していなかったらしい。ノックス海軍長官は、キンメルを更迭し太平洋司令官はニミッツに代え、合衆国艦隊司令官にキングを任命し、形式上はルーズベルトの承認を得た上で、この人事を発令した。ここから推すと、海軍もルーズベルトの決定には手放しで賛同するというものではなかったようなことが読み取れる。このキング氏の長年の側近であったのが、帝都奇襲作戦を発案したロー大佐だそうだ。

ドゥーリットル空襲については、ウィキペディアにかなり詳しく紹介されている。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2


日本でも、宇垣纏(うがきまとめ)(1890−1945)などは、帝都が空襲される可能性についてたびたび論じていたらしいが、おおむね無視されていたようだ。やはりアメリカ海軍と同じで『・・・絶対にありえない』と高をくくっていたらしい。宇垣は、2月2日の陣中日記『戦藻禄』で「冒険性はアメリカの特長であって、戦線が東西に拡大した今は何時何処で奇襲攻撃があるか分からない。そのうち最大の懸念が帝都東京への空襲だ」などと記し、3月11日にも公の前でその危惧の念を語っていた。


4月1日に16機のB25を搭載した空母ホーネットは護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻と共にサンフランシスコ港を出港。途中巡洋艦2隻、駆逐艦4隻に護衛された空母エンタープライズと合流した。任務は極秘だったので、エンタープライズの乗組員は、ホーネット上のB25はソ連に移送する爆撃機だと考えていたという。東京まで640キロの地点まで到達したところで発進する予定であったが、4月18日に日本の哨戒艇『第23日東丸』に発見されてしまい、直ちに軽巡洋艦ナッシュビルがこれを撃沈したが、時間を要したため、日本側に打電されてしまう。やむなく付近の哨戒艇をエンタープライズの爆撃機で撃沈した後、当初の夜間爆撃の予定を変更し、予定を7時間早めて、午前7時20分より発艦を始め、8時19分までに16機すべてを送り出したところで、ハワイに向った。16機中15機が爆撃に成功するが、1機は海上に爆弾を投下した後逃走した。

画像


隊長のドゥーリットル(下の写真)機は、中学校校舎を陸軍工廠社と誤認して爆撃し、学童らを死傷させた上に家屋50棟を破壊した。残りの機も、大した重要施設を破壊することなく、家屋262棟を損壊させ、日本軍の高射砲の破片による死傷者も含め、死者87名、重傷者466名を出し、存外戦火としてはぱっとしなかったものの、本土が空爆された日本軍には心理的に大きな打撃を与えた。爆撃を終えた15機のB25も、中国大陸を目指すが、うち一機は途中燃料が不足したため、ウラジオストックに向い、ソ連に拘留された。一発の対空砲火も当らず、迎撃されたものもなかったとは妙で、どのくらい攻撃目標を破壊するつもりがあったのか少々疑問だが、残りの機も中国へ不時着したので、機体のほうはすべて損壊した。この1942年の4月馬鹿作戦といってもよいであろう米軍の奇襲により、ほとんど思いつきに近いミッドウェイ作戦で、日本軍は虎の子の機動部隊を失うこととなってしまう。
画像


さて、先に米海軍基地を砲撃した潜水艦伊25は、いったん横須賀へ寄稿した後、小型水上機EY14を分解して搭載し、再び米国沿岸へ向う。もちろん連戦連勝の出鼻をくじかれた報復の空襲が目的である。巨大な山火事を起こして敵を錯乱する計画であった。一ヶ月ほどしてアメリカにたどり着くと、しばらく潜伏していたが、潜水艦上で組み立てた零式小型水上偵察機に76キロ焼夷弾2個を搭載し、9月9日の深夜に藤田信雄(1911−97)飛曹長と奥田兵曹の2名を載せた機は発艦した。機はオレゴン州ブルッキングスの森に焼夷弾を投下したが、あいにく雨で機が湿っていたので、山火事にはならなかった。帰還して、「なんだ、木を一本焼いただけじゃないか」と上官になじられ、もう一度空爆に出かけたが、今度も山火事にはならなかった上に見つかってしまったので、それきりにして日本に引き返したそうだ。戦後になって藤田氏は、1962年5月20日に日本政府に呼び出され、理由を明かされないまま、アメリカから空襲のことで話があるので渡米してくれといわれる。それで家宝の日本刀を携え、監禁されそうに成ったら自害するつもりで、恐る恐るブルッキングズへ赴くと、彼を待ち構えていたのは米国市民の大歓待であったので、自分の不測を恥じて家宝の日本刀を市長に贈呈したという。
画像画像
ウィキペディアによると、潜水艦からの空爆があったことは大統領命令により極秘にされたとなっている。空爆といっても、上述したように、零式水上偵察機一機で76キロ爆弾を2個、2回に分けてひそかに落としたに過ぎない。どれほど大衆というのがパニックになりやすいかということでもある。おそらくこの空襲騒ぎがもとで、日系アメリカ人の差別問題というのが始まってしまった。

画像

サンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令。

伊25はその後10月4日と6日にアメリカのタンカーをそれぞれ一隻ずつ撃沈してから日本へ帰還したが、帰途に着いた10月11日に当時中立国であったソ連海軍の潜水艦L16を米潜水艦と誤認して撃沈してしまった。こういうことはたびたび起こる事故ではあったろうが、多分賠償金のようなものは請求されたと思う。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下に当時のおもな航空機の諸元を適当にまとめておくと、
機体名称   横幅   全長   最高時速  航続距離  
B29    43m  30m  576km 6598km
B25    20m  16m  442km 4300km 
B24    34m  21m  467km 3270km
B17    31m  22m  426km 3219km
四式重爆  23m  19m  537km 3800km

ドーントレス 12m  10m  410km 1248km
97式艦爆  16m  10m  378km 1021km

P−47    12m  11m  697km 1657km
零式21型  12m   9m  533km 2222km

細かな点を上げても、製産年代で大分異なるので、寸法などはメートル以下四捨五入してある。アメリカや日本の戦闘機の場合航続距離がやけに長いのが特徴であるかと思う。たとえばドイツ軍のめっサーシュミットBf110などでも、最高時速510キロの航続距離は910キロメートルしかない。イギリスの名機スピットファイアーは最終的に最高速度605キロ、航続距離1840キロをマークしているが、1943年に零戦と対戦したときは8倍も多く撃墜されているそうである。

日本は航空機の純国内製造ができない状態で開戦したので、開戦後の戦闘機の開発は大いに遅れた。




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