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zoom RSS ガダルカナルの戦い〜後半(その1)

<<   作成日時 : 2011/09/28 16:26   >>

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始めに『ガダルカナル』という名前の起こりについて話すことにする。戦争について書いても、後半はいいところがなく、ラバウル航空隊の30機ばかりのゼロ戦部隊がまあまあ最後まで拳闘したらしいが、大局において日米の差が開くばかりで、終いにはアメリカ軍はコーラを飲みながらの戦闘といっていいくらいにまでなっていたそうだ。ソロモン諸島のまわりの島々と比べて、何か違和感のある名称で、やけに気になるので調べてみた。そうすると、ソロモン諸島というのは、前回話したように、スペインの航海士アルバロ・デ・メンダーニャが1568年に発見したものであるが、島々の名を命名したのは、おそらく彼を含む船員およそ150名が任意に行なったらしいということが判明した。たぶん、宝島だとか、家族の名前だとか、おのおのの好きな様にだ。その中の一人、ペドロ・オルテガは彼の故郷の名をとって「グアダルカナル」という名を一つの島につけた。船員の多くはスペイン北西部のガリシア地方の出身者だというから、現在残っているスペイン南部のアンダルシア・セビリア地方のものと同一の町だかどうかははっきりしないが、この地方に「グアダルカナル」(Guadalcanal)という町があることは確かだ。オルテガのスペルはあいまいで、正しい語彙のものには見当たらなかったらしいが、1932年になってイギリスが『これに違いない』というので、この島の正式名称に[Guadalcanal]を採用した。日本語では、こちらを「ガダルカナル」と呼び、スペインのあまり有名ではなさそうな町のほうを「グアダルカナル」と言い習わしているようだ。

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ついでだから、少し探検の仔細を述べると、メンダーニャの一向150名は2隻の船に分乗して、1567年の11月にスペインの植民地ペルーを出向した。そうして太平洋を西回りに横断し、翌1568年の2月にソロモン諸島のイザベル島を発見、命名し、ここに3ヶ月停泊して、小さな保線で都合3回の探検を行なったとある。ガダルカナルには1ヶ月、サンクリストバル島には2ヶ月程度とどまったが、40人以上がマラリアにかかり病没したものも多かったという。画像このときの島の住民は現在よりも多かったと推測されている(2008年現在で四国ほどのソロモン諸島の国民は52.3万人、平均人口密度は1平方キロメートル当たり18人)。年間平均気温は1年中を通して27,8度程度だというが、熱帯地方の水蒸気分量は体積にして大気全体のおよそ4%と南極地方の4倍を占める上に、海の湿り気を常に受けているので、一度マラリアにかかったらなかなか直らないまま悪化して病没するものも多かったと思う。現在でも、おおよそ120の多言語を持つ諸島であって、これはおよそ島ごとに言語があるという勘定である。部族同士の抗争も多かっただろう。首狩りの習慣もあったという。なにか祭りごとがあるたびに、誰かよそ者を供えるというものだろう。メンダーニャは一度引き返し、1595年に妻子を伴った総勢368人で、4隻の船に分乗し、2度目の探検を試みたが、原住民との闘争やマラリアの発生で戦病死者が絶えず、メンダーニャ自身もマラリアにより病死してしまい、入植は失敗した。その後200年近く全く省みられなかったが、1767年以降の西欧人探険家によって大部分の島が再発見されることになったという。

最初の[guad]は、アラビア語の[wadi](涸れ谷、川)からきているとも言われる。[al]もアラビア語の定冠詞、[canal]はスペイン語の「運河」だそうだ。だからたぶん、現代スペイン語の表記なら、[wadialcanal]とか、せいぜい[wadalcanal]となっていたかもしれないが、昔はスペイン語に限らず、フランス語もイタリア語も、ラテン系の諸言語にはすべて「W」の文字がなかったので、しかたなく[wa]を[gua]で代用することになったのだという。そもそも、ヨーロッパ系の言語には「わ」行の音というものがなかったらしく、スラブ系の言語であるロシア語などはいまだに外来語の「ワ音」さえ自国語に取り入れていない。ウラル地方のハンガリー語やそれに近縁のフィンランド語などでも「W」を用いるのは外来語表記の場合のみである。日本語だと日常当たり前のように使用する音であるが、「モスクワ」とか「イワン」などという言い回しが本国にいまだに存在しないということはちょっと奇異な思いがする。


さて、日本潜水艦によるガードが硬かったためか、しばらくは低速の輸送船による物資供給も可能であったのではないかと思われるほどであったものが、秋も深まる頃になると、輸送船ではそれが不可能になり、日本軍は駆逐艦での輸送がメインとなったが、米軍はこれを「東京急行」などと呼び習わしていたらしい。日本側では「ネズミ輸送」などと呼んでいたが、いかにも米俵と共にネズミも輸送したという感を受ける。日本側とは対照的に、米軍には当初の食糧危機というのは影を潜めていった。

1942年10月3日からは日本陸軍第二師団が上陸を開始した。飛行場をおさえられているので、空爆による被害はかなり大きかったが、数度にわたる輸送で何とか総突撃が行なえるだけの兵士が上陸した。その間にサボ島沖海戦だとか飛行場の砲撃などがあったが、上陸した兵士がどうやって空爆を防いでいたのか詳しいことが分からない。普通テレビのドラマなどでは、いきなり防空壕のようなものが出てくるのだが、仮にそういう施設のようなものがあったにせよ、東京大空襲のようなものを考えると、密林の中に多数の兵士を隠しておくという方法というのはちょっと思いつかない。まあ、現在から見たら、空襲の行なわれている場所にどうして上陸しようなどという気になったのかもさっぱり分からないだろう。今なら、上官の命令は無視して、兵士は全部逃亡するに決まっている。予断だが、このことで東京大空襲などの際になぜ民間に被害が多かったかということが垣間見えるような気がする。対空砲火の少ない安全なところに爆弾を投下しようとすれば、それはたいてい民間人の住居だということになる。軍事施設の周辺というのはもっとも危険な場所であるから、部下を危険にさらしたくないのであれば、こういう場所への攻撃は避けるのが筋だろう。先日のドゥーリトル隊にしても、あれだけ厳選したのにもかかわらず、逃亡した機があったようなのは、人は自由意志で動こうとする限り安全第一で行動するのが当たり前だからなのだろう。

10月11日にはサボ島沖夜戦というのが起きるが、それまで野戦を得意としていた日本海軍が、この戦いで破れてしまう。レーダーによる先制攻撃を受けたためだ。しかし航空機の場合と正反対に、レーダー技術に関してはアメリカよりも日本のほうが進んでいたのであったが、日本海軍は民間からこの技術を吸収しようとはしなかった。この開戦が煙幕となって、同日トラックを出港していた栗田艦隊は、サボ島わきを無事通り抜けて、ガダルカナル島にあるヘンダーソン飛行場を砲撃した。それが13日の夜11時30からのことで、戦艦金剛や榛名が、新開発の砲弾を用いたので砲撃自体は成功して、飛行場は一時使えなくなったが、すぐさま修復し、上陸しようとする日本輸送船団に空爆を与えたことはこの前書いたとおりだ。
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ガダルカナル島に集結した日本陸軍が総攻撃を行なうのにあわせて、連合艦隊も出撃したが、この海戦を南太平洋の海戦と呼んでいる。10月26日に行なわれたこの戦いで日本軍は出撃機のうちの半数以上の航空機を失い、空母ホーネットを撃沈して海戦には勝利したものの、大打撃を受けた。国の生産力の差を考えてみれば、もう負けたといっても良いのは後になってみれば誰にもわかる。ガダルカナルの戦いが、「餓島の戦い」と呼ばれるようになったのはこの前後からだろうか。

撤退のところまで書いて、今回で後半はおしまいにする予定だったが、急に気乗りしなくなってきたので、続きはまたこの次にすることにした。


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