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zoom RSS 世界の終戦記念日

<<   作成日時 : 2011/09/02 17:05   >>

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この前書いたように、日本は例外的にポツダム宣言の受諾を表明した玉音放送の行なわれた8月15日を終戦記念日としている。連合国各国は、9月2日か3日としている。それは、アメリカのトルーマン大統領が、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印がなされた日の9月2日を終戦の日と決めたからだが、これは理屈から言って妥当な日と思う。

ただ、イギリスがおそらく一国だけだと思うが、日本と同じ8月15日を終戦の日としているようだ。これは、日本に対米戦を誘ったのも、アメリカに原爆の使用を強く勧めたのもイギリスのチャーチル首相であったこととも関係しているかもしれないが、それにも増して英国が天皇というものの重みをわきまえていたことを表しているように感じる。ソ連やアメリカに対する敵愾心から同じ日を選ばなかったのだとも思えるが、イギリスがいくらアメリカに憎しみを懐いていたとしても、それはまず考えられない。もっとも、英国を始め、ヨーロッパ諸国は日本との戦闘などあまり行っていないので、第2次大戦はドイツの降伏を持って終了したと国民のほうでは思っているようだ。日本に国土を蹂躙された国としてはソ連と中国とがあり、フィリッピンやインドネシアなどもその部類だ。蹂躙されたといっても、ことにソビエトは執念深いので、シベリア出兵のときのはなしが大部分であったと思う。中国にしても対日戦が始まったのは満州事変以降で、第2次大戦の行なわれた期間など別段どうでもいいことだろう。この期間、関東軍が何を行なっていたのかは日本政府も知らなかったのだから、これに関する日本側の資料というのはかなり杜撰なもので、現地のロシア人や中国人の記録のほうが信頼性が高そうだというので問題になっているわけだ。ガラス張りという点に関しては、この時代の日本政府よりもスターリン政権の方がましだったらしい。ということは先進国では最低で、もしかしたら隠し事の数では世界一だったかもしれない。

シベリア抑留などにしても、昔は5人に1人くらいはラーゲリ(収容所)で倒れたなどといっていたが、これも原爆被害などと同じで、次第に犠牲者の推計数というのは減少してきて、現在の推定犠牲者は10人に1人以下ということになってきている。寒さで凍え死んだなどというのも、おおむね作り話で、シベリアの夏は半そでシャツ1枚でもやはり汗をかくほど暑い。冬場でも、モスクワほど寒くなるところなどあまりないと思う(モスクワの冬はアラスカのアンカレッジよりも冷える)。どうも日本人のイメージでシベリアが寒いところだというのは、下のグラフを見ると大体分かると思うが、旧日本軍が収容されたのはおおむね極東地域に当るからだと思う。このグラフは犠牲者の数を示しているので、極東収容所の看守が日本軍に強い復讐感情を懐いていたとしたならばそういう仮定は成り立たないが。実際、20年も前の恨みを晴らそうという執念深いスターリンからは、日本人捕虜を囚人並に扱うようにという指令が出ていたらしい。そうなると、ドストエフスキーの『死の家の記録』みたいなことになって、体力のない日本人兵士は3人に1人は死んでいただろう。ソ連兵士がかなりいい加減であって、命令を無視したのが幸いしたのだろう。
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しかし、常識的にはどう考えても9月に記念日を設けるべきであるのに、とくにそれをしていないのは、かなり身勝手な好意であると受け取られても仕方のないところだ。ポツダム宣言の受諾と、天皇の吹込みが行なわれたのは8月14日のことだが、原爆投下やソ連の進行というものがあっても、なお降伏は容易にはできず、やはりその晩陸軍省幕僚と近衛師団参謀らによるクーデター未遂事件があって、近衛師団長の森赳(もりたけし)中将だか中尉だかが殺害されるという事件が発生していた。もしかしたらまだ降伏はできなかったかもしれないところだったというのはある。

(*)8月14日深夜から15日にかけてのクーデター未遂事件を「宮城事件」という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6



イギリスの[VJ Day]というのを調べてみると、これは[victory over Japan Day]の日であるから、最後にイギリスが日本と戦った日か、あるいはイギリス兵が日本軍に虐殺された記念日なのか(イギリス人の常識では虐殺されるというのは名誉につながるらしい)、日本の幸福には関係なく、たまたま8月15日がそういう日であったのかもしれない。イギリス兵士の捕虜が日本軍に虐殺されたのを追悼する日だそうだ。日本式だと『追悼』となるのだが、どうも『祝う』という感覚もあるようで、古代ギリシャ人もローマ人も、戦没した人間はハデスの大いなる祝福を受け、盛大な富を受け取るという伝承を持っていたらしい。同時に、日本軍への敵愾心も国民に呼び起こさせる日でもあって、この日に外出した日本人は、何年か前まではしばしば何の前触れもなく殴られるようなことがあったという。これといった大規模な被害はイギリスには及ぼしていないはずなのにもかかわらず、これだけの憎しみを抱かれているということは、当時の日本軍の行いが如何に非常識なものであったかということをうかがわせる。同時に、海外の人間の怨念というものがどのくらい堅牢不抜なものであるかだ。こうしてみると、スターリンの執拗さというのも、向こうでは案外常識的なものなのかもしれない。ロシア人も日本人と同様忘れっぽいのだろう。

イギリスというのも、案外世界の趨勢と外れたところなのか、終戦記念日というのを11月11に定めている。昔はそもそも第1次世界大戦において西部戦線での戦いが終了した日であったそうだが、第2次大戦が終わると、ついでにこちらも11月11日に統一したらしい。名称も[Remembrance Day]などとも言って、どちらにも当てはまるように出来ている。この日は母の日のように胸に赤い「ポピーの花」をかざって、11月の寒空の下で犠牲者の追悼にいそしむ。儀礼の国だからさぞ息が詰るであろう。しかしまた名誉の死であるから兵士または市民が読みの国で至福の富を授かった祝いの晴れ舞台でもあり、めでたい日なのか悲しむべき日なのかが分からない。ポーカー・フェイスを貫けば無難であろうが、なんとも風変わりな国だ。


日本がポツダム宣言を受諾した日は8月14日で、玉音放送のレコード盤に天皇が吹き込みを行なったのもこの日だったが、翌日の正午にこれが放送されるまでの間に、ちょっとした暴動があったのは上に述べたとおりだ。そうして16日には念のため全陸海軍に停戦命令が出された。素直に守られたとはあまり思えないが。28日に進駐軍第一陣としてテンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に上陸した。そうして30日にマッカーサーが専用機「バターン号」で厚木飛行場に降り立ち、横浜のグランドホテルを接収した。ここをGHQの仮庁舎として日本の統治が始まった。その後9月2日に、内閣代表の重光外相と、大本営代表の梅津参謀総長が、戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に署名を行って、ここに第2次世界大戦が終了した。今現在の常識から見ても、契約文書に署名捺印したその日が契約の発生日なのであって、テレビやラジオで放送したからといっても法的根拠は何もないものとされる。どう考えても8月15日というのはおかしいのだが、こういうことをあいまいにしておくから日本国旗を踏みつける人たちが出てくるのだと思う。前にも書いたが、明治政権移行の日本政府は、偽文書を持って成立していたものであり、今に至るまで本物の政権とはいえないのである。日教組がもし徳川の末裔であったなら日本国旗を踏みつけたり燃やしたりしても文句は言えない。



で、ドイツではどうしているかと思ってよくよく考えてみると、戦後ドイツという国はなくなったのであった。1945年から1990年まで45年間、国体としての自由はなかったのだから、日本などよりはるかに悲劇的であったわけだ。西ドイツも東ドイツも委任統治を受けていたわけであるから、国としての独自の文化があったとしても、当たり障りのない部分だけで、真の自由など何処にもなかった。戦時中、ヒトラーが同じゲルマン民族として、捕虜のイギリス兵を連日パーティに招待するなどの優遇策をとり、「劣等民族である日本などに我が同胞の英国がこれほどたやすく敗れるとははなはだ遺憾なことである」と、盛んにイギリスを持ち上げるようなことをしていたが、その効果はさっぱりなかったようだ。

大戦中、日本もドイツと同じように分割統治するという案があったそうだ。どうもソ連に割り当てられた部分が相当多いということを見ると、連合軍がソ連を敵に回したくなかったという意向が見える。ソ連はこれを信じて、日ソ中立条約を根拠にポツダム宣言の受諾を一時拒否して、日本への侵攻をためらっていたが、アメリカの原爆投下を見てあわてたらしい。そういう風にも取れる。何しろいろいろな話が錯綜しているから、何を掘り出すかで視点も容易に変わってくる。

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ここで、ソ連の日本侵攻は、日本がせんじて中立条約を破棄したからだということを少し述べておこう。日本はこのことを国民にはどうしても知らせたくないらしい。私としては、ソ連を敵国としたいために、9月2日を避け、8月15日を選んだという気がするのだ。
ソ連対日宣戦布告においては、ソ連対日参戦の旨とその理由として、次の4点が述べられた。

1.日本政府が7月26日の米英中による3国宣言(ポツダム宣言)を拒否したことで、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われたこと。
2.日本の宣言無視を受けて、連合国は、ソ連に、日本の侵略に対する連合国の戦争に参戦して世界平和の回復に貢献することを提案したこと。
3.ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。
4.以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。



2番目の項目を見ると、ヤルタ会談以降の時点で、日本がポツダム宣言を受け入れなければ、日ソ中立条約は自動的に消滅するというようなことが見て取れる。もちろんこのことは日本政府は知らず、連合国間で決められた一方的な協約である。それでも連合国の主張は圧倒的多数の合意によるもので、民主主義の精神にのっとった正しい処方だ。


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何だ、こういう本があるのか。やはりどう考えてもおかしいのは、誰が見てもおかしい。

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