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zoom RSS エルサレム王国と十字軍の歴史。

<<   作成日時 : 2012/03/25 16:53   >>

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この前、フリードリヒ2世について記したが、現時点から世界史の流れを追ってみれば、彼がエルサレムを奪回したことは十字軍の歴史において唯一の成功例として、当然最も評価してしかるべき人物であるにもかかわらず、意外なことに、彼の名は十字軍の歴史の中に登場してくることはあまりない。現在一般的な歴史像では、イスラム国家の台頭の歴史のうち、始めの2世紀か3世紀は、イスラム教世界が優勢で攻撃的態度を示し、これに対して民族大移動期の不安定な状況にあった西欧のキリスト教世界は守勢の立場にあったということが強調されている。然しどうもイスラムの拡大は武力による交戦一方というより、友好的合併というか、攻められたことになっている相手のほうから合流してきたものなのではないかという気がしてきた。

キリスト教徒においては聖地エルサレムへ巡礼する慣わしがある。そうすることで死後は天国へいけるものと信じ込んでいるからだ。現代社会においても、先祖の墓参りをすると何となくすっきりしたという人間が多いのと同じである。始めのうちアラブ社会は巡礼者に迫害を加えることはなかったのだが、セルジュクートルコ(1038−1194)の時代になると、東方貿易の利益を独占しようとして、彼らを弾圧するようになったということになっている。力と富を得た王朝が悪しざまに言われるのは歴史の常である。トゥグリル・ベクの甥である第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(1029−72)はビザンチン帝国の大軍を1071年に、東アナトリアのマラーズギルトの戦いで破り、アナトリア半島のトルコ化への道を築く。彼の宰相がニザーム・アルムルク(1018−92)である。この戦いで、ビザンチン皇帝ロマノス4世は捕虜となり、続くアレクシオス1世(在1081−1118)は宿敵であるローマ教皇ウルバヌス2世(在1088−99)に援助を依頼する。しかし、聖地エルサレムを占領、破壊したものは史実的にはセルジュク朝ではない。それは1009年のことで、当然のこと、まだセルジュクが勃興する前のことである。それは異教徒に寛容であるはずのイスラムのファーティマ朝第6代カリフのアル・ハーキムの仕業であった。こういうことはアラブ系イスラムの伝統にはなかったので、1021年に王君が代わると、すぐに迫害は止んでいたのであった。皇帝はその辺のいきさつを、たぶん歪曲して伝えた。セルジュク朝の矛先を西欧へ向けさせる目的だろうといわれている。教皇はこれに答えて、1095年フランスのクレルモンに公会議を開いた(*)。一応表向きは、東ローマ皇帝の嘆願を受けてということになっているが、ローマ教皇にとっても、カトリックの勢力を西ヨーロッパ以外にも伸張できるチャンスである。教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世を雪中にひざまずかせた「カノッサの屈辱」以来、教皇権は絶頂の期を迎えていた。そして教皇の絶頂期と十字軍の行なわれた時期はぴったりと重なる。

(*)教皇の宣言は「われらが主の御托鉢後1095年」の11月28日の水曜日、10日にわたるクレルモン公会議の閉会直後に行なわれた。場所はフランス東部の「オーベルニュなるクレルモンとその名を呼ばれた町」にある野外大演説会場。数千人の大聴衆を前に演説するウルバヌスは立ったままで長い演説を熱烈に語ったという。クリュニー修道会出身のグレゴリウス7世以来、教皇側は自分たちの正当性を豪も疑わなかったに違いない。脳を侵されるということはそういうことで、現代社会における多数派の狂いを眺めていてもこのことはよく分かる。一神教の恐ろしさというものは、人間の主体性をまったく奪ってしまうことにある。多神教でも似たようなものだが、神々の数が多ければ、人間のほうに集中できない「迷い」が生まれるから、それが世の中にはかえって役立っている。それでグレゴリウス7世は一途に教会の改革を行なったことで英邁視されることが多いが、結果としてはスターリンの大粛清と同じようなことをしでかすことになった。近くはブッシュ大統領が数十万人のイラク人の命を奪っても平穏に暮らしているのに対し、わずか数千人のアメリカ市民の命を奪ったのに正当にあだ討ちされたという妙な事件があった。西欧キリスト教社会圏は、将来派手に報復されるかもしれない。




なぜ皇帝の力では教皇の権力にかなわなかったのかというと、それだけ地方豪族が教会に依存していたからだ。魂の深奥に救うパウロウイルスが、諸侯の自由意志を奪った。教会の命に逆らうようなことを諸侯に命じたとしても、教皇に破門されるようなことがあれば、忽ち国中に内乱が起こるであろう。だから従うしかなかった。そうして十字軍が実際に東方へ移動することとなれば、教皇の膝元である北イタリア諸都市は、東ローマ商人を退けて発展することになる。当然教皇の下には莫大な財産が寄進されることになるであろう。そうした経済的利得を勘定に、何処まで真実か分かりはしないゲッベルズ並みのいかがわしい扇動工作を激しく疲労したものが、ウルバヌスの演説であった。あごひげを生やした背の高い人目を引く50代の男は、「・・・神はキリストの旗手なるあなた方に、騎士と歩兵を選ばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そして私たちの土地からあの忌まわしい民族を根絶やしにするように、繰り返し勧告しておられるのである」と、そのようにいったとある。何が忌まわしい民族であるか。何がわれわれの土地か。常に敵対していた東ローマ帝国の領土だったではないか。いったい東ローマの何処が西欧だというのか。

公会議の翌年、早速第1回十字軍が編成される。主だった正規軍の指揮官は、@フランス王フィリップ1世の弟であるユーグ伯(1053−1101)とノルマンディ候ロベールの「フランス人」軍団;、A中世の9偉人の一人である下ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨン(1061?−1100)の「ロレーヌ人」軍団、B最大の武力を有するトゥールーズ伯レーモン(1052頃―1105)と調停者としての司教アデマール(?−1097)の率いる「プロバンス人」軍団、そしてCアンティオキア公ボエモン(ボヘモンド)(1058頃―1111)はノルマン人系の南イタリア軍である「ノルマン人」軍団を指揮する。一応ウルバヌス2世は出陣の日を1096年8月15日と予定していたらしい。これに、予備軍のような形で、だ。しかし、真っ先に出陣したのは、Dアミアンの町の司祭である隠者ピエールの集めた民衆十字軍であって、5フランス人とドイツ人の混成5部隊からなるものであった。この混成部隊は一足速く春に出発したというが、素人軍団でたいしたことはできなかったらしい。総てで10連合部隊5軍団となるが、最も尽力したとされるのがレーモン部隊で会ったらしいことは、エルサレム王国樹立の際、「最大の貢献者」としてレーモンを初代国王とする取り決めが為されたことから窺えるのだが、この人は品行方正とは言い難い人で、自分から「イエスの墓守などゴメンだ」(本当はもう少し格好をつけるようなことを言ったらしい)とか言い残して帰ってしまったらしい。それでゴドフロワが「聖墳墓守護者」の役を引き受けて同地にとどまるのだが、「9偉人」(*)の列に加わるほど偉大な人物というのは何かおかしい。

第一回十字軍↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D


ゴドフロワ・ド・ブイヨン↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%83%B3



(*)中世の9偉人というのは、聖人を異教、旧約、キリスト教の3グループに分け、それぞれについて3名ずつ割り当てたものだ。@ヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサル、Aヨシュア、ダビデ、ユダ・マカバイ、Bアーサー王、シャルルマーニュ、ブイヨンの9人である。何かいかにもおかしいだろう。ブイヨンというのは、フランス語で「だし」のことだ。マギーブイヨンでも知られる単語である。ゴドフロワのことではないのではなかろうかとも勘ぐってしまう。ウィキペディアにも、もっとも活躍した重要な人物は、アデマールとレーモン、それとボエモンの3名だとあり、ゴドフロアは単にその他の指揮官のひとりとなっている。

軍勢の多寡はまったく分からないといってもよいくらいだ。レーモンの率いる最大部隊である「プロバンス人軍団」にしろ、一説では総勢6万などとも言われているが、教皇の代理とされるアデマールがわざわざ同行したというのに、出立時の記録が全くないといういい加減とも取れるようなものであったらしい。それで十字軍の過半数を要していたとされるこの主力部隊の総数が問題となるのだが、たぶん本当のところは1万人程度ではなかったのではなかろうかという話である。数の上で最大だったのは、まず間違いなく先行した民衆十字軍であるが、この軍勢に加わったものは大部分略奪が目的であったという代物だから、ずいぶん味方にも駆逐されて、コンスタンチノープルにつく頃はすでに大分数を減らしていたといわれる。仮に5万人の手勢がいたとしても、正規軍の数百人分の働きも出来ないといった体のもので、むしろ足手まといに近いものがあったかもしれない。結局シリアまでにも至らず壊滅して、わずかに残ったものは正規兵に組み込まれたらしい。

第1次十字軍最大の難所は、アンティオキアからシリアに至るまでの攻城戦にあった。城壁さえ乗り越えてしまえば、エルサレムまでの道程は比較的楽になるのだが、ここでボエモンが東ローマ帝国の契約不履行を理由に、アンティオキアに留まり、この地の領有権を主張する。レーモンはいったん帰国したらしいが、再び十字軍に加わりエルサレムに進軍することになる。


東ローマ帝国にすれば、ただ略奪狼藉を縦にするフランクの野蛮人のほうこそ無礼なもので、こんな礼儀知らずに食糧物品など調達する義理などあるわけがないと考えていたであろう。文化水準の違いだ。6世紀ユスティニアヌスのローマ法大全で知られる法治国家であれば、戦闘行為というものは「万策尽きた後やむを得ずにとる手段で、恥ずべき失敗の告白」に過ぎないものだった。そもそもカエサルの頃のローマ帝国時代から、軍事国家といわれながらローマの軍事力は微々たる物であった。国民が馴致されるにしたがって、戦闘行為など好まなくなってくるからである。高い賃金を代償としなければ兵士になろうとするものなど次第にいなくなるから、文化程度が高まるにつれて国防の力は次第に弱まってくる。皇帝アレクシウス1世にしても、いったんはヨーロッパ世界に援助を願い出るようなことがあったにしても、ラテン人たちの軍勢が続々と入国してくるのを実際に目の当たりにすれば、やはり心穏やかならぬものはあっただろう。西ヨーロッパ人全般に対する不信感のうちでも、とくにノルマン人に対しての嫌悪感は強く「ボヘモンとその一族郎党のような邪悪な者共は腹の底に、うまい機会をつかんで行きがけの駄賃に帝都そのものを奪い取ろうという計画と野望を抱いているに決まっている」とつぶやいたことが記録に残っている。そうしてこれは十字軍のほうでも、レーモンがノルマン人に対して抱いていた不信感とつながっている。それで、皇帝は十字軍司令官たちに君従を誓わせた後、軍勢を速やかにトルコ人の国へと追いやってしまいたかったのであったが、ゴドフロアの如きは容易に承服せず、コンスタンチノープルの城壁に攻撃を仕掛けたとある。結局皇帝が宗教的情熱をそのうちに認め、温かく接したのは民衆十字軍の指導者のピエールのみであり、その他の司令官たちに対してはなんらの宗教性も認めることはなかった。「異教徒との戦いは避けがたいものであるにしろ、それは嘆かわしいことであり、その戦いでの死は殉教ではない」という古代教父たちの思いが彼の脳裏には常にあった。現代日本だとこうした思想のほうが優勢なのだろうが、えてして優柔不断に陥りがちで、そのことが詮索好きな者たちの批判の的となる。何かにつけ他人の欠点をあげつらわなければ気がすまないといった連中が多いのは、そうでもしなければ生きがいがないという些細な理由による。

1097年5月の末に正規軍一行はコンスタンチノープルを後にして、いよいよ今はトルコ人の堅城となっている二ケーアの攻略に取り掛かる。6月1日から3日にかけての布陣だったという。攻城戦は3ヶ月弱続いたが、終にトルコ軍はビザンツ皇帝に調停を依頼することとなった。この後一行はアナトリア半島を横断するのだが、次第に輜重の展開が苦しくなる。それでも勝利を続けながら、10月の20日には小アジアの横断を完了して、アンチオキア前面にたどり着いたとある。かのユスチニアヌス帝のころはこの辺りもビザンチン領であったが、500年も年月が流れればそんな名残もない。アンチオキアの白の堅牢さは今までの火ではなく、十字軍側は三方から包囲戦を展開するのだが、実にこの年を越して翌年も半年を過ぎ、6月になり漸く落城にこぎつけるという大苦戦となった。ボエモンの姦計により6月3日に勝利を得たようだが、虐殺と略奪の果てにチフスが蔓延し、十字軍の兵士までもが多数死んだ。人望高い司教アデマールまでがチフスの犠牲となる。

この時点で、十字軍はいったん解散の形をとる。ボヘモンは完全にアンチオキアの統治に専念した。ゴドフロアの弟などは全く関係ないほうへ遠征に出かける始末だったという。諸侯の多くも領地あさりに没頭し、全くエルサレムのことは忘れてしまったかのようであったので、民衆十字軍のうちで残ったものが不平を言い出した。この声を耳にしてレーモン伯が先ず動き出した。とりあえずレーモン隊だけで行進を続けたようなことになっている。1099年1月13日とあるから、大分長いこと停滞していたようだ。先に行進をしていると、後からボヘモンやゴドフロアの部隊が追いかけてきた。こちらから攻撃をしない限り、セルジュク領もファーティマの土地も、イスラム側は全く戦いを仕掛けてくるようなことはせずに、かえって糧食を供給してくれたり、聖地までの道案内をつけてくれるほど親切だったので、一向は何の苦労もなくエルサレムへと到着した。というのはエルサレムはシーア派の中でも過激なイスマーイル派のファーティマ朝の支配下に置かれていて、正統スンニー派のアッバース朝カリフの信任の下にスルタンを称しているセルジュク朝の人々とは仇敵の間柄であったからである。

エルサレム開放の戦いは、7月13日の夜半と決まった。攻める側の総戦力は、この時点で「騎兵1500、歩兵2万」ともいう。アレクサンドロス大王やチンギスカンの部隊なら進軍と共に雪だるま式に軍隊の数を増やしていったのだが、西欧には敵兵を自軍に取り入れるという慣習はなかったようなので、たぶん当初の兵力よりもかなり減っているはずだ。軍団は三方面から攻城戦を仕掛ける。先ずは城壁にはしごを取り付ける作業だ。これはイスラム側からの弓矢や投石の雨とギリシャ火という新兵器に悩まされてなかなか進展しなかったが、15日朝になって漸くゴドフロア隊が城内に突入した。南壁で苦戦中のレーモンはまた先を越されたことを知ると地団太を踏んで悔しがったらしい。

現在のエルサレムの旧市街を形作る石の城壁は、16世紀にオスマン帝国のスレイマン大帝が築いたものだという。第1回十字軍のころは、十字軍の攻撃で打ち破られた北壁が約1200メートル、西側が約700メートル、東と南がそれぞれおよそ800メートルの台形型の姿をしていたそうだ。最大級の都市としては少し小さいが、普通の町よりはずっと大きい規模であったらしい。城壁の長さから見て、ゴドフロアの侵入した北壁の防御がもっとも弱いものであったろうが、二日と少しで進入を許したのは、それほど激しい戦闘を想定して築かれたものではないことを物語る。

ゴドフロアの部隊が進入すると同時に十字軍兵士たちが相手にしたものはサラセンの兵士ではなく、むしろ逃げ惑う一般市民であった。レーモン伯の如きは、城壁を越えて逃げようとするサラセン人を見るや、「全速力でそこへ駆けつけ、部隊と共にかの憎むべき敵どもを追いかけ斬り殺し、何時やめるとも知れなかった」とある。もっともこのレーモン伯という人は、市街の陥落直後には、自分だけの判断で、金貨と引き換えにダビデの塔のイスラム兵たちの生命の保証を与えていて、したがってこのものたちだけはエルサレムを脱出できたのだから、激すると冷静な判断力を失うようである。多数の人々が神殿に逃げ込んだが、下から矢を射掛けると、まっさかさまに落ちて死んだ。岩のモスク内部では、「血の池の中を膝まで浸かりながら歩く」状況であった。ユダヤ人たちについては、突入の翌朝、中心街のシナゴーグに全員を集め、総てのユダヤ人が会堂の中に入ると、扉を閉めて、全員焼却した。ユダヤ人迫害はバビロン捕囚以来古くからあったが、ウィキではこのユダヤ教徒殺戮は「反ユダヤ主義思想」を確立させたと見ているようだ。こうしてエルサレム内のほぼ総ての住民が処刑されたが、十字軍側では虐殺は丸2日間というが、イスラム側の記述では1週間となっている。サラ先陣は金貨を飲み込んで貯えるといううわさを十字軍兵士は信じていたので、およそ8万人とされている住民(*)の処刑がすんだ後も、入念に腹を割いて調べていたらしい。

(*)カリにエルサレム市街の居住区の大きさをを500メートルブロックが2個という大きさとしてみると、5メートル四方に1人という人口密度で、おのおの1万人、合計2万人が住めることになるから、8万人というと5メートル四方に4人という計算になるが、これだとかなりすし詰めとなる。しかし、平屋に住んでいたとは限らない。たぶん、3階建てか4階建てのアパート風の建物であったと推定すると、スペース的にはこれで充分だろうが、それでも8万人は誇張だろう。

しかし、エルサレム征服は、決して十字軍兵士が自らの実力で勝ち取ったものではなく、背景には、シーア派とスンナ派の対立というイスラム世界内の問題が深くからんでいたので、この問題が後退してしまうと、もはや西欧の力ではイスラムには対抗できなくなって来る。エルサレム王国成立直後から防戦一方であった戦いであったが、1187年、サラーフ・アッディーン(サラディン)(1138−93)がエルサレムを奪回すると、実質十字軍問題は終わりを告げた。

エルサレム王国国王一覧↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

画像


  薄黄は1160年頃のエルサレム王国の版図、濃黄は1229年のエルサレム王国の版図




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歴史読み物としては、塩野七生シリーズが面白いらしい。

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