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zoom RSS 『陸軍登戸研究所と謀略戦』をよんで

<<   作成日時 : 2012/06/01 17:24   >>

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表題の書物は、吉川弘文館2012年2月に歴史文化ライブラリーの一巻として発行されたものだが、1996年10月に始まったこの歴史シリーズがかなりの分量にまで充実しているのが少し意外であった。出版業界は不況で大苦戦などとあちこちでうわさしていたからだ。

明治大学の生田キャンパス内に遺されていた生物兵器研究棟を改装して、資料館がオープンしたのは、2010年(平成22)の4月のことである。この生物兵器棟は、旧陸軍の建設した登戸研究所の第36号鉄筋棟だったらしい。川崎区多摩区のこの資料館がオープンしたのは、登戸研究所に勤務していた人たちが重い口を開き、資料を提供してくれたことが大きいという。旧陸軍のことなど、とっくに時効だからいくら口にしても一向に構わないはずなのであるが、畏れ入った口の堅さである。先に書いた風船爆弾の発案者などは「いまだに洗脳教育が解けない」などと自分を卑下していたが、戦後半世紀以上もの間硬く口を閉ざして国家機密を漏らさないというのは、国家に対する忠誠心の表れなのだろうか。しかも、何処の国でもこのことは同じようなのだ。連合国でも枢軸国でも。イギリスなどでは、重要事項は100年以上の長きに渡って金庫に保管しておき、関係者はそのことを語ってはならないという法律まであるらしい。

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筆者らが登戸研究所の調査を開始したのはおよそ25年前の昭和が終わるころだったそうだが、その頃になると元研究所の職員たちも、まだ大人には用心して何も語らなかったが、子ども相手にはぼちぼち話すというような気風も生まれてきていたという。孫のような高校生たちに熱心に質問されると、つい気が緩んで重要なことも語るようになっていったそうだ。その又聞きを基に、実際の歴史的な記録と照らし合わせて真偽を確かめるという手法を繰り返してゆく。

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登戸研究所の敷地内には今でも残されている高さ3メートルもある「動物慰霊碑」がある。実験用に使われた動物たちの魂を鎮めるもので、研究員たちが昭和18年に建てたものらしい。その一報で、中国南京の1644部隊(731部隊に所属)が人体実験用に登戸研究所で開発された毒物を使用するのは「はじめは嫌であったが馴れると一つの趣味となった」のだそうである。自国の動物のほうが敵国の人命よりも尊いといった感じの表現である。現実に目で見えるものについては、人間の感情はこのように理性を惑わせやすい。目で見えないもの、放射線などについては、象牙の塔の学者が机上で考え出したプランがそのまま現場に採用される場合がもっとも安全であったということを考えると、信念を狂わせるものは感覚だということを身に沁みて感じる。

登戸研究所は、陸軍兵器行政本部管轄下の十の技術研究所のうちの一つの研究機関のことで、最終的な正式名称を「第九陸軍技術研究所」というそうだ。登戸研究所だけでも、相当大規模なもので、こんなのが10個もあったということは、かつての大日本帝国が相当豊かであったということを物語っている。もっとも、登戸研究所は特別で、ほかの機関の倍ほどの予算が計上されていたという。4科に分かれていて、第一科は主に物理兵器、第二科は生物兵器、第四科は後年設けられたもので秘密兵器の大量製造を受け持っていたが、とくに厳重に機密が守られていたのが、3メートルほどの壁に囲まれた第三科で、ここでは偽造紙幣の開発を行なっていた。大量の紙幣を中国国内に流通させ、ハイパーインフレを起すことによって国力を奪おうという考えであった。以下手短に登戸研究所各科で開発されていた兵器についてみて行こう。

第一科は、電波兵器を開発することを主目的として、陸軍科学研究所登戸出張所としてスタートした。「く号研究」、「ら号研究」、「ち号研究」と分かれていた。それぞれ@「怪力(くわいりき)光線」、A「雷(らい)兵器」、B「超短波(ちょうたんぱ)兵器」の頭文字だ。ここで指導的役割を果たしていたのが「YAGIアンテナ」の八木秀次(1886−1976)(*下の写真)だ。彼はすでに1926年(大正15)の時点で、『所謂殺人光線に就いて』という講演で、「怪力光線」で期待される作用として、1「飛行機自動車等の操作妨害」、2「生物殺傷」、3「火薬爆発」、4「空中に電導性瓦斯柱を製造」の4点を上げていた。のぼりと研究所で行っていた正式な資料は存在していないので、委細は不明だ。しかし、超短波の研究を精力的に行なっていたという一職員の証言とメモが残されている。その計画の一環として、怪力光線の研究も行なわれていたという。やや遅れて、「せ号兵器」(宣伝兵器)、「ふ号兵器(風船爆弾)」なども開発された。前者は1940(昭和15)から和紙で作られた風船を兵器化して水素ガスで膨らませ、それに伝単をつけてソ連のウラジオストック方面に飛ばす目的だったそうだ。1942年6月にミッドウェーで主力機動部隊を失って、同年8月15日に「決戦兵器考案に関する作戦上の要望」が参謀本部から提出され、「一年以内に電波兵器を開発」することや「数年以内に太平洋横断を可能とする気球兵器」を製造することが求められた。この気球爆弾は43年諸島には海軍の潜水艦を使った本核実験が検討されたものの、海軍側に断られたため、航続距離を8倍も伸ばす必要に駆られたという。しかし同年4月にはもうそんなのが出来上がってしまったというから、この辺は迅速だ。8月には搭載する細菌兵器の研究が開始された。和紙の研究も平行して進められたというから、単に張り合わせれば丈夫になるという程度のものではなかったということが分かる。前に書いた「風船爆弾の記事」で、愛知の中学生が1944(昭和19)年3月10日の陸軍記念日に書いた作文の内容を見て、風船爆弾など中学生でも思いつく発想だったことを知って陸軍もさぞかしびっくりしたかと思う。

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(*)ウィキペディアによれば、大学教授時代の彼は講義の際、心眼で電波が見えるようにならなければ、学びを取ることは困難だなどというのが口癖だったらしい。思想的には社会主義者で、日本フェビアン協会などにも属していたというから、この辺には人心と科学を一体化させる社会主義的なところが見える。



第2科では生物化学兵器、スパイ用品を開発した。スパイ用品の中には、今もマジックなどで用いられていそうな一瞬で消滅する紙などもある。紫外線を照射すると見える商品コードなどもこのとき開発されていたものに萌芽が見られる。生物兵器としては、開発には成功して威力も確認したが、報復を恐れて実践には使用しなかった、風船爆弾に搭載する予定の牛痘の冷凍結晶がある。稲をからす兵器についても、大量生産のめどがつき、中国での投下実験にも成功した。これは実際の爆撃機の小窓から投下した研究責任者松川仁の『きのこ随想』に書かれていて、1942年6月のことだという。「攻撃目標は湖南省洞庭湖の西側の水田、証拠を残さないため投下器は使わずに直播」とすることなどの会議を終えた後、97式重爆撃機の3機編隊の1機に軍服を借りて乗り込んだとある。市街地に爆撃の黒い煙をところどころに確認した後、用意した鉄製の円筒容器を爆撃機の横マドからすべて投下した。ただ窓から落とすだけのやり方だったから、吹込みが怖かったという。爆撃機には始めて乗り込み、正面の視界の広さに驚いているくらいだから、かなりいい加減なやり方だったろう。
 毒物兵器、青酸ニトリールの研究は「ホニ」号と称され、動物実験を終えた後、1941年5月、7名の研究員が南京病院へ赴き人体実験を行った。人体実験は1943年12月から翌年1月にかけても行なわれたという。かなり期間が開いているのはなぜだろうか?

第3科は中国の法幣(正式な紙幣)の偽造(*)で、参謀本部が本腰を入れたもので、特別に堅く機密が守られていた。高さ3メートルの壁で区切られて、部外者で入れるものは所長くらいというものであったらしい。1939(昭和14)年辺りから偽造紙幣の印刷を本格的に始めたそうだ。1942年当時、国民政府の最高額の5円札、10円札を偽造し、一時的には大きな戦果を挙げたというが、米英の直接空輸により、大量の千円札、1万円札、10万円札が国民政府に供給されて、混乱に乗じて軍需物質を買い占めようという参謀本部の思惑は阻止された。偽札製造に当って、最も腐心した点は紙質の問題であったそうだ。戦時中といえども、紙幣発行のために黒漉き入りの紙を内閣印刷局以外で用いることは硬く禁止されていた。ちょっと考えると、敵国向けであればよさそうなものだが、やはりだめだったらしい。内閣の人間にも知られてはならないほどの極秘事項だったのだろう。

(*)『交通銀行』が発行した紙幣の模造。しかし、実際はインフレが進んでしまって、日本がいくら贋造紙幣を増刷しても、あまり効果はなかったらしい。



1945年(昭和20)になると、本土決戦の草案として「帝国陸海軍作戦計画大綱」が決定された(1月20日)のに基づき、登戸研究所も長野へ移転した。アメリカ軍の上陸が千葉の九十九里浜を除いてはありえないとの思惑の上でだったらしい。陸軍の中野学校のほうは群馬県のほうに移転し、関東平野が占領された場合、同地に残留する日本国民を組織して遊撃線を行なう準備を進めていた。その場合に住民に装備させるべき武器の類を調達する役目が登戸研究所であったという。そのための工場の完成が6月末の予定であった。強力超短波の共鳴発振で、敵航空機ないしは搭乗員に損傷を与えようというもので、松代に大本営が移転した際は、大きなパラボラアンテナを建設してこれを擁護しようとするものであったが、こうした「く号研究」が航空機の期待による遮蔽効果でうまく行かないことは初期の研究実験で確かめられていたことだ。敗戦が決定的となって、わずかな期待のみによって行動していたのだろう。福井に移転した第3科も、終戦の8月まで中国向けの偽造紙幣を製造し続けていたそうである。

8月15日のポツダム宣言受諾に当って、真っ先に証拠隠滅が図られたのは、風船爆弾、続いて関東軍の731部隊、100部隊であった。いずれも、細菌兵器に関する疑惑を消すためである。風船爆弾に搭載する予定のものは、対人用のものではなかったらしいが、それでも生物兵器には違いがない。アメリカ向けに実際に使用されたものなので、証拠隠滅の後、真っ先に風船爆弾の仔細資料が米軍に提出された。登戸の偽造紙幣焼却の煙は終戦後もしばらくは燃え続けていたという。細菌兵器については、当時の米国はこの分野で出遅れていたので、煙に巻くことは比較的容易であったらしい。


戦後の1948(昭和23)年の1月26日に起きた帝銀事件の捜査で、警視庁に疑惑を抱かれたのが登戸研究所であった。殺害に用いられた毒物が陸軍の開発した特殊な遅効性の毒物ではないかとされたのだ。とりわけ「青酸ニトリール(アセトン・シアン・ヒドリン)の開発に当った第2科が操作の対象とされて、遅効性と即効性の2つの毒物を製作したことや、人体実験には総て中国人の捕虜もしくは死刑囚を使用し、コーヒーや紅茶に忍ばせた毒物を飲ませて実験したことなどを証言させた。中国人は昔から毒物の謀略を受けていて自分から先に呑む習性がないので、先に試験管が呑んで見せて、大丈夫だから君もやれ、という方法を用いたという。使用された毒物は青酸カリではありえないという研究員の証言も得られ、警視庁も当初から青酸カリの可能性はないと踏んでいたのにもかかわらず、裁判所は青酸カリと断定したようである。戦後の動乱時代にあって、面倒な事件が続出する中にあっては、判断を早急に済ませる必要があったのだろう。




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