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zoom RSS 北方の歴史〜近代化以降

<<   作成日時 : 2012/07/27 16:24   >>

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太平洋戦争終息時点に付きまとう一番大きな誤解といってよいのは、ソ連が一方的に日ソ中立条約を破棄したというものだろう。これについては、同条約締結後のわずか2ヵ月後の1941年、ドイツがソ連に進行した時点で、時の松岡洋介外相が『日本の基本的な外交政策は三国同盟であり、独ソ戦と日ソ中立条約が矛盾するような事態になれば中立条約は効力を発揮しないであろう』旨をソ連駐日大使マリクに伝えている。そして7月2日に、所謂「関東軍特種大演習」(関特演)という計画を御前会議でたて、70万の兵を満ソ国境に終結させ、ドイツと共にソ連を挟撃することにしたのであったが(*)、間もなくドイツの快進撃は止まり、厳寒期に入ると形勢が逆転したために、関特演も中止となった。旗色が悪くなったときだけ都合のよい主張を持ち出すのはどちらであろうかと思う。しかも、戦後にいたっても日本政府はこのことはほとんど公表せず、国民にはソ連の契約違反のことばかり強調している。最も、日本にしてもソ連にしても、必ず中には趨勢とは逆のことをやる人物というのがいる。そういったものの功績に過度にスポットライトを当てて過去を振り返れば、事実とは真逆の事であっても事実であったと主張できることはできるであろう。電流はプラスからマイナスに流れるとはいっても、すべての電子が足並みそろえて行進しているわけではなく、中にはさかさまに動くものがあるだろうというのと同じである。しかも、人間社会の場合はさかさま分子の数がものすごく多い。

(*)ちょうど1941年の七夕の日に動員令が下り、13日に内地から300人を満州へ動員したのを皮切りに、16日には14個師団を動員、およそ70万の兵と軍馬14万頭、飛行機600機を北満州に派兵した。しかし、ドイツの勢いに翳りが見られたため、8月9日になって年内の対ソ進入計画を中止したものである。このことを考えれば、戦争末期、ソ連の満州進行は当然の報復に移るし、シベリア抑留などにしても理由が全くなかったわけではなく、積年の恨み辛みが嵩じた物である事が分かる。だいたい、スターリンの性格からして、ヒトラー型の気まぐれでことを起こすということはまず考えられない。かなりの長期間にわたって構築した怨念が感じられる。スターリンは戦時中を通して「日露戦争の屈辱を忘れるな!」と国民に訴え続けていたそうである。まさに「リメンバー、パールハーバー」のロシア版である。「日露戦争、シベリア出兵」の怨恨というものをスターリンのような人物が抱いていたらどうなるかはおよそ想像がつく。『ぜひとも北海道の半分は占領して日本にもわが国が味わったと同様の途端の苦しみを味わわせたい』どころか、何の苦労も知らない米国が日本に原爆を2発も投下できるならば、わが国にも同じものを数発投下する権利は充分にあると思っていただろう。数千万人規模の日本人はシベリアで強制労働に付くのが当然だと考えていたに違いない。ソ連最初の水素爆弾の実験が行なわれたのが1953年の8月12日のことで、広島原爆の27倍の破壊力があったという。そんな実験が日本で行われなかったのも、アメリカのお陰であったかもしれない。

ヤルタ協定で、「ドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること」が義務付けられていたから、ドイツ降伏の5月7日から丸3ヶ月か過ぎた8月8日になってソ連は行動を起した。それでも実際に千島列島へ進行を始めたのは、1845年8月の18日の午前2時過ぎのことだ。日本は8月15日に降伏の意思表明をしているから、もう戦意は持っていないだろうと踏んだのかもしれない(単なる嫌がらせの意味かもしれないが)が、油断したのか最初の1日で日本軍の4倍以上もの死者が出た。ソ連軍の兵器の性能は米国製のものよりも優れていたはずなのであるが、これはなんだか分からない。よほど訓練を積んでいない素人部隊だったのかもしれない。兵隊にしろ、ロシア系ではなくアイヌかオホーツクのようなアジア系の農民が中心だったろうから、さして強力だったとも思えない。途中、得撫島まで来ると、ここに防衛軍を設置したいという米軍と小規模な戦闘となった。アメリカは原爆が完成したので、もうソ連の援助は必要ではなく、戦後処理を進めていく上で共産国の援助はむしろ邪魔となった。戦争を終結に導いたのも大半はソ連軍の尽力のお陰なのだが、恩知らずというか、薄情なものである。ヤルタ協定の後、南千島は日本の領土とすることが米英間で一方的に決められていた。「樺太、千島の全域はソ連領土となるであろう」といったのは米国のルーズベルトではなかったか。それでも、ロマノフ朝ロシア時代以来取り決められていた正式な領土に戻っただけであるから、ソ連としてはさして大損をしたわけでもないのだが、この程度ではスターリンの腹の虫が収まるわけもない。何とかして日本には辛酸を味わわせたいものだと考えている。原爆が完成した途端に態度を豹変させたアメリカも気に食わない。それで終戦の9月2日を過ぎても、歯舞や色丹の攻略を進めていた。この2島はもともとすぐ返還する予定だったから、終戦後に占領したのだろうが、1955年になって日本に返還しようとすると、アメリカが出てきてそれを拒まれた。ソ連中さぞ頭に来ただろう。この年の5月に行なわれた日ソ漁業協定で、日本側はうっかり「南千島はソ連の領土」といってしまったらしい。重光外相はそれを打ち消すのに必至だったということになっているが、実情は日本国内の世論を交わすためだったようにも思われる。「択捉、国後を断念しても、日ソ国交回復したほうが良いとの国論が高まっている」と重光外相はアメリカ国務長官ダレスに語っている。「二島返還で妥協したら、沖縄は返さないぞ」となったわけである。すべてがアメリカの都合のよいように運んでいた時代だった。アメリカに都合の悪い記録は総て書き換えられていった。

スターリンがこのように感情に流されるということはあまり見られないことであるらしく、彼の死後、1953年から64年までソ連の指導者であったフルシチョフも『回想録』で、日本との接触を拒み続けたために経済的に大きな損失を招いたというスターリンの過ちを批判している。復讐心が異常に肥大したものという程度のもので、いわば身内のものを殺害された遺族が犯人を極刑にしてくれとせがむようなものである。実際のところ、もしスターリンが癇癪を起してシベリア抑留などやらなかったなら、相当量の戦時賠償金を日本政府からせしめることができたかもしれない。それだけでも残念なことだ。日本にとっては逆に幸いだったかもしれないが。

先に少し放したように、ダレスの発言でいったんは交渉が流れたかに思えた北方領土返還ではあったが、翌56年の10月に鳩山一郎首相が直接モスクワへ赴き、日ソ共同宣言を締結し、「ソ連は日本の要望にこたえ、かつ日本の利益を考慮して歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する」旨が正式に取り交わされ、ソ連は直ちに国境警備兵を除く住民の総てを両諸島から撤退した。面白くないのはアメリカである。アメリカは、サンフランシスコ平和条約の第26条で、日本が南千島の領土件を譲歩すれば、沖縄の領土件を要求できるということになっていた。しかし、鳩山一郎が強く出たのには、南千島と違って沖縄には日本の潜在主権が存在しているということであったらしい。どのように転んでも、結局アメリカは沖縄を返還せざるを得なくなる。

しかし、結局歯舞、色丹の変換はならなかった。鳩山首相に代わって、岸信介が首相となると、再び親米へと流れが変わり、彼は1960年に日米安保条約を強固なものとした。そのことで日本各地に米軍基地がしかれることとなった。そこでソ連は先の共同宣言の内容を書き換えた。どうも勝手に書き換えたということになっているが、そう思っているのは日本だけの解釈のようだ。日本は米軍を介して、実力で先の共同宣言を反故にしている。対戦中の日ソ中立条約のときと同じである。何年も前に日本のほうから一方的に破っておいて、都合が悪くなると、途端に手のひらを返すような態度を示す。実に狡猾で油断のならない国である。といっても、別段日本にずる賢さがあったというわけではなく、単に日和見で動いていたのが、偶然近隣諸国には狡猾に見えただけなのだろうが。

これで当面はアメリカののぞみどおりの形になったわけであるが、この頃になるとソ連も力をつけてきた。というよりも、対戦前から科学技術面、とくに理論面には屈指のものを持っていた国である。ロケット技術などに関しては、もともとドイツをしのぐほどの力を持っていた。その国に核開発で並ばれたら、もうおいそれとは勝てない。フルシチョフの平和路線の時代が終わると、次第にソ連が強く出ても、アメリカは何もいえなくなってきた。もともと軍事力においては、質量ともに圧倒的に西側を凌駕している。ソ連の黄金時代は1980年代の半ばまで続いたようだ。北方4島の周辺で違法操業する日本漁船を拿捕しても、もう誰も文句は言えなくなった。1979年、ソ連は択捉、国後に飛行場を建設、日ソ平和条約が締結されると返還が決まっている色丹島へも軍隊を派遣してきた。日本は1982年、「北方領土の日」を2月7日(日露和親条約が締結された日で、ツァーリの意向どおり日露の境界が択捉海峡であることが決められた)とすることを閣議決定したため、ソ連との中はますます悪くなっていった。こういう風に世論が反ソ派一方に染まってくると、私などは逆にソ連を応援したくなってくるわけである。それでも近年ロシアに好意を覚えるものが少しずつ増えてきているようで、減少時でも15%、多いときは3割程度のものがロシアに好感を抱いているという調査結果が得られてきている。歴史をちょっと調べれば、日本側に分が悪いということは割とすぐわかるからだろう。特に古くから金科玉条のようにしてきた「ソ連が一方的に日ソ不可侵条約を破った」というのが2重の意味で日本の勘違いであることが判明してからはなおさらである。

その後、電子戦の分野でアメリカがソ連を上回ってくると、再びアメリカが強気になり、ワインバーガー国防長官が「第二次世界大戦直後に北方領土に米軍が進駐しなかったのは不覚だった」などという力を得るようになる。この年、チェルノブイリ事故がソ連邦に起こったのは偶然には違いないが、ソ連びいきの人間の一部にはアメリカの陰謀による事故などとも思えてくるだろう。

仮に、「歯舞・色丹」の返還だけでもロシア政府が望んでいたとしても、「北方領土返還などを要求してきたら、日本に水爆を落とせ」などと主張している強硬派が存在する限り、返還には2世代ほどの距離はどうしても必要だろう。維新政府以来終戦までの度重なる暴虐がなかったならば、ツァーリの境界線を復活させてもよいが、そうした状況ではなくなったのだから、これで4島返還となったら、アメリカや日本の大勝利だ。金の亡者の勝ちとも言ってよい。


終わりのほうに、プーチン大統領が中国との国境制定に関して、大分中国側に譲歩したということが書かれていた。大戦中、満州の一部を侵略したことが影響したらしいが、アヘン戦争以降の中国分割に関しては中国側も不平は言わなかったらしい。結局、1割近くの旧ソ連領土の島々を中国側に引き渡すことで決着が付いたというが、対日本ということになると、明治維新以来、日本側のロシアへの侵略が4回、ロシア側の日本への侵略が2回あるそうである。しかし、日本側はロシア本土への侵略があるのに対し、ロシアは日本本土には進行していない。そこからすると、筆者は、「2島返還ならロシアの勝ち、4島返還なら日本の勝ち」などといっているが、どうもすんなり2島返還してくれるのかどうかかなり怪しく思われる。




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