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zoom RSS 日本の原子爆弾製造計画

<<   作成日時 : 2012/08/02 16:58   >>

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『日本の原爆』(保坂正康、新潮社2012年4月)という本を読む。装丁はしっかりとしたハードカバーでしおり紐も付いていが、1575円と値段は手ごろだ。見開きに「原子爆弾研究開発の関係図」というのが描かれていて、日本の原爆開発は主に陸軍航空本部に属する理化学研究所の仁科芳雄研究室が中心となって研究を行なっていたというようなことがわかる。「原子核、中間子の理論チーム」の中には、仁科芳雄(1890−1951)や玉木英彦と並んで、朝永振一郎(1906−79)湯川秀樹(1907−81)の名も見える。陸軍ではこのほかに、第八技術研究所がトリウム(原子番号90)爆弾も研究していたという。このほか海軍では、第二火薬廠技術研究所の「京都帝大荒勝文策研究室」に、湯川秀樹や坂田昌一(1911−70)が属していた。艦政本部の技術研究所の核物理応用研究委員会には、長岡半太郎(1865−1950)や仁科芳雄らがいた。〔日本の研究者が海外の研究者たちと比べて、どうも短命であるようなのが気になる〕・・・興味深いのは、太平洋戦争が日本の不利になる頃(サイパン陥落の辺り)にはすでに巷では「マッチ箱一箱の大きさで町全体を破壊する新兵器」のことが話題となっていたということだ(*)。日本では核分裂がヨーロッパで発見されるとすぐに原子核分裂爆弾の研究がおそらく理化学研究所で始められていたらしいということが窺える。

(*)昭和19年7月9日の朝日新聞には、「現大戦の直前、ドイツのある学者が放射性元素のウラニウムに中性子をあてて、原子核を爆発させる実験に成功したという情報をつかんだロンドン市民は、もしこれが大量にできれば、マッチ箱一つぐらいの量でロンドン全市の壊滅も不可能ではないとし、敵の秘密兵器の正体はウラニウム爆弾ではないかと戦慄したという」と、3ヶ月ほど前に、2日間連続で掲載した『科学戦の様相』というコラムをなぞっている。この『科学線の様相』は京都帝大工学部で電気工学を専攻した陸軍科学研究所に勤務していた佐竹金次陸軍中佐の執筆になるもので、多少は新聞編纂者の意向も反映されているかもしれないが、大概において真相であろう。面白いのは航空機にウラン爆弾の原理を応用すれば、相当距離の飛行が可能で、爆弾の搭載量もはるかに増やすことができるとしていることだ(*)。又高空では宇宙線の中の中性子により早期爆発の危険もあるなどとしている。実際、宇宙船に搭載した原子力電池の寿命が減少するのは、宇宙中性子による核分裂の惹起が進むからなのだろう。「ウラニウムを原料に用いれば、窓から飛び出せる飛行機もできる」という話が国会の議事録に残っているそうだ。無人の模型飛行機のようなものか、ミサイルみたいなもののようにも思える。原子力潜水艦としては疾うに完成しているが、航空機としてはまだだ。空も海も浮力を利用することには変わりはなく、科学の歴史としても、気球による高度記録を打ち立てたピカール博士が次に樹立したのは潜水の世界記録だった。それがいまだに原子力航空機というものは開発されていない。ちょっと考えると、原子力爆撃機で首都圏を空爆されても、容易に撃墜できないはずであるから、かなり軍事的には高い評価を得る所があってもおかしくはない。陸軍は、将来的には原子力潜水艦を作る目的か、昭和19年10月に、海軍には極秘で3隻の輸送用潜水艦を完成させ、海軍に見せた後、輸送用にフィリッピンへ向わせたが、性能が悪くいずれも撃沈されたらしい。

(*)戦後になって、仁科芳雄は
「多量の中性子、X線その他の放射線が、原子動力の発生に伴うものであるから、人体に非常に有害である。そのため装置全体を遮蔽しなければならぬ。これには少なくとも厚さ3尺の鉄を使うから、莫大な重量となることはやむをえない。この理由により、人の乗る飛行機の動力にはなれない。」
などと述べている(1946年11月)。3尺といえば90センチ以上で、当時は放射線がそれほど有害なものと考えていたのかもしれないが、実際はそれほど分厚い遮蔽装置は必要ない。福島原発の炉の厚さでも鉄板としては15センチしかなかった。原子力潜水艦の原子炉などは、乗組員に向う側以外の遮蔽はほとんどなく、炉心がむき出しのものもあるそうである。もっとも、一般人には軍人の100倍以上の安全性を要求するということかもしれない。緊急時には一般人の放射線許容度も100倍に拡大するという国際規定もその線に沿ったものだと考えられる。

原子力飛行機↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F



原子核エネルギーの開放に関する脅威は、ドイツが1938年の9月1日にポーランドに侵攻すると急激に高まった。すでにそれ以前、ナチスドイツは何をしでかすか分からないというので、原子核学者たちはアインシュタインの名声を利用して、何とかドイツにウラン鉱石を手に入れさせまいと奮闘していた。アインシュタインの手紙がルーズベルト大統領に届いたのは9月の下旬で、この本によると、同年の10月には早速「ウラニウム諮問委員会」というものを設けたが、当初予算6千ドル(1ドル:1000円としても600万円にしかならない)で軍人や科学者をメンバーに加えてとりあえず発足だけは行なっていたという程度のものであったらしい。ところが、イギリスにとってはヒトラーがたびたび「われわれは誰にも防御不能な高度な兵器を作る」と繰り返すので、それが原爆の事を指しているものと常に戦々恐々であったようだ。ぜひとも「希望の光」はドイツより先に製造しておかなければならないと、何かにつけアメリカにその声が聞こえるようにつぶやいていたので、1941年の12月6日になって終に「マンハッタン計画」を正式に認可することになった。翌42年9月には大規模工場の完成により本格的な始動が始まった。しかし、副大統領のトルーマンも知らないほど秘密は守られ、引継ぎに関する文書も残されていなかったようだ。それでトルーマンは大統領就任後、陸軍の用途不明の莫大な予算の調査に乗り出そうとしたことがあるそうで、そのとき、陸軍長官ヘンリー・スティムソンから、最高の機密計画が進行中である旨のみを打ち明けられたという。仔細を明かさなかったのは、新大統領がルーズベルトとは異なり平和的な性格であったので、計画を阻止されることを恐れたのだろう。

第2次大戦開始直後の1939年2月にアメリカで開催された原子物理学の研究発表会においては、「一キログラムのウランを使って巨大な爆弾を作ることは何年ほどで可能なのか」という新聞記者の問いに対し、フェルミの共同研究者であるジョン・ダニングは「それを作るには最低25年、ひょっとすると50年かかるだろう」と答えている。実際には6年で実現したから、予想の5倍も速く技術革新が進んだと考えてもよい。

日本においては、戦時中から「核分裂爆弾の製造は絶対に不可能である」と声高に主張していたのは長岡半太郎で、彼の持論は陸軍発表の論文にもなったという。同じ陸軍であっても、長岡半太郎が協力する兵器行政本部と仁科芳雄の理化学研究所のアル航空本部との間には若干の摩擦があって、兵器行政本部は「無理だからやらない」と言った感じだったらしい。仁科のほうも『日本にはウラン鉱石がないから原爆の製造は不可能』と内心思ってはいたが、敗戦後の原子力の平和利用のことを考えて、予算だけはがっぽり頂戴していたらしい。彼の夢の一つは原子力利用の月世界旅行であったという。「原子爆弾など到底、今次の戦争ではできない」という気持ちが根底にあったものの、1943年2月の「ガダルカナルの転進」の一報を耳にすると、敗北を悟り、その頃から陸軍には「すぐにでも技術的に製造可能」と言い出した。ここで筆者の保坂正康氏は筆が滑ったように、「仁科は、ドイツのハイゼンベルクやアメリカのアインシュタインと同じだ」などと言い出している。アインシュタインは原爆製造には積極的ではなかったというのが通説であって、それが歴史的事実であると伝えられている。一行足らずの記述であるが、わざわざ素人の誤りででもあるかのようにアインシュタインの名を出しているということは、なにかそういった未確認の資料でも一部で発見されたのではないかということを示唆している。

陸軍のほうでも、1942年(昭和17年)の夏を過ぎる頃になると、にわかに原爆の研究に本腰を入れ始め、各地でウラン鉱石の確保に乗り出したらしい。それで仁科博士などは『アメリカが原子爆弾の製造に着手したのではないか』と盛んに気にし始め、研究室でしきりにそのことをつぶやいていたという。まさにマンハッタン計画がアメリカで発足したのが1942年の8月13日のことであった。とすると、陸軍はこの頃何らかの情報を入手していたという可能性もある。政府や軍部は秘密裏に行動していても、科学者の動きは隙だらけだから、なにか動きに異変があれば比較的容易にそのことが推測できたのだろう。軍人でなくても、その頃からにわかにドイツ占領下の重水工場の爆撃が執拗に続くようになったので、学者にもなにかおかしいということは筒抜けであったそうだ。ところが2年近く過ぎてもウラン鉱石というのは見つからない。それで当時は大きな薬局に行けば大体どこにでもあったという硝酸ウラニル(*)を購入し、そこから6フッ化ウランを生成したという。原爆製造の本質とは全くかけ離れていたらしいが、軍部を欺くことはできたらしい。実際やっていたことは、核分裂の研究に過ぎないものであったが、軍部はすぐにでも原爆製造は可能だというそぶりを示していたという(ただし実際は軍にも分かっていて、ただの強がりを演じていただけなのかもしれない)。仁科博士は研究員一人ひとりに困惑の表情を浮かべながら、「君は原子爆弾ができると思うか?」と聞いて回ったが、全員が「出来るとは思いません」「出来ません」と答えたそうだ。連鎖反応を連続しておこさせるためには最低10キロの濃縮ウラン(仁科博士の計算では10%濃縮ウランで充分となっていたらしいが、その程度の濃縮度では爆弾など作れない)が必要だが、それも不可能だ。ただし、ウランは重いのでこの重さで大型サイズのマッチ箱一箱には違いない。仁科博士の証言というものは、将来においても容易に解読されないような工夫がしてあったのか、かなりあいまいなところがあるようだ。

(*)1977年に「原子炉等に関する規正法」が制定されるまでは、個人を除いては大方自由に手に入るものであったという。だから今でも、そこいらじゅうの学校とか化学工場に大量に保管されているという。電子顕微鏡撮影にはなくてはならないものだそうだ。

ともかく仁科博士は、「日本でも原爆は製造可能かもしれない」とし、『ウラン爆弾の研究』計画は新たに、『原子爆弾製造計画』として昭和19(1944)年3月にスタートし、翌20年3月に終了した。その実体は、昭和20年に入って、漸く高さ5m、幅50cmほどの分離等を製造したが、ウラン235の連鎖反応は見られなかったというお粗末なものであったらしい。そもそも、10%濃縮ウランで十分だなどというものに、原爆をつくろうなどという意思があったとはちょっと思えない。これは原子炉の実験でしかない。そのうち理研がB29に狙い撃ちされて分離塔が破壊されてしまい、関西にあった分離塔もやはり爆破されてしまったという。5月下旬になって、仁科博士が陸軍少佐の鈴木辰三郎に「もうウラン爆弾は出来ない」と告げたのが正式な幕引きとなったらしい。アメリカ軍は、ウラン鉱石のありそうな福島県石川町の周辺にウラン工場施設があると思い、その周辺の爆撃は避けていたという。陸軍理研の原爆研究が頓挫したので、海軍が原爆研究を委嘱している京都帝大といやいやコンタクトを取ろうとする向きもあったらしいが、こちらは理研と比較すればますます学者の自由研究のようなものであったらしい。京都帝大の原子爆弾製造の理論面の代表が、後にラッセルやアインシュタインらと共に反核運動に加わった湯川秀樹がいる。湯川秀樹のような人も、徹頭徹尾平和主義であったかというと、少しは疑義が残ることから、アインシュタインに関してもまるきり無実とは言い切れないものがあるのだろう。それに、海軍は原爆製造の目的をはっきりと京都帝大の研究者たちに明かさなかったようで、どうも京都帝大の科学者は兵器開発に当っているとは考えず、原子核の研究をしているつもりでいるものが多かったらしい。そうすると秘密事項などというものは守らないし、海軍のほうでも「戦争は陸軍主導でやっていることで自分たちには大して関係がない」ということで、陸軍ほど秘密厳守の立場を貫かなかった節も見られる。理研の研究施設がことごとく爆撃されたのも、京都帝大の研究員が口から漏らしたためかもしれない。

そんな具合だったから、広島に原爆が投下されたときも、いちいち現地調査などせずとも、これが原爆であることは理研の科学者にはもちろん、陸軍にもすぐに分かった。それでも、仁科博士をはじめとする研究員は『これで日本が降伏すれば潤沢な研究費の下に好きなことを研究できる自由な時代は終わった』という嘆息の方が強くて、『2発目が落ちたら大変危険である』と思うような人はあまりいなかったようである。この当時、原子核物理の研究ができる人間などというものは、ほぼ例外なく裕福な家庭の子息なのであって、一般の庶民感覚とは無縁であったようだから、そういった下々のことなどには余り心が及ばなかったのも無理はない。

原爆が落とされたのは8月6日の朝8時15分頃であって、日付と時刻は真珠湾アタックとほぼ同時刻に合わせたようにも受け取れる。真珠湾奇襲の行なわれた日は、ホノルル時間の12月7日早朝であったから、原爆を投下する日も一日早めて6日にしたというのである。仁科博士の回想では、「6日の日は何事もなかったが、7日の朝に陸軍の人が来て、‘アメリカが広島に原爆を落としたので、調査に参加してもらいたい’といい、すぐその後に記者が‘広島にTNT火薬2万トン相当の原爆を投下した旨のトルーマン声明があった’と告げに来た」となっているそうだ。陸軍の第8技術研究所では、8月6日当日の午前中には原爆が投下されたものと推定して、アメリカの保有する原子爆弾の総数の試算を始めていた。それは6日の午後から9日の午前中までかかったという。産出可能なウラン鉱石の量から、それはおよそ広島原爆と同じ規模のものが250から500個、多ければ1000個と推測された。この試算がおわって間もなくの午前11時過ぎに、長崎に二発目の原爆が落とされた。しかし陸軍および海軍首脳は8月7日に原子爆弾委員会を設置して、「ウラニウム爆弾の威力は一トン爆弾の900倍以上と予想されるが、今回広島に投下されたものは、その数分の1の破壊力に過ぎないので、原子爆弾とはいい得ない」と結論していた。先のトルーマンの話しと比べると、広島に落ちた原爆は不完全燃焼であったことが窺える。しかしその後参謀本部の一人の大佐が日本刀を持って理研に押し入り、原爆はいつになったらできるのかとか学者たちに詰め寄ってきたが、「でもできないんです」といわれると、男泣きに泣いていたそうだ。

アメリカが日本に原爆を投下することを決定したのは、1945年の2月か3月の段階であることがほぼ特定されてきているらしい。10年程前には、最初はドイツに落とす予定だったが、ドイツが降伏してしまったので、仕方なく日本に投下したなどとも言われていたが、ドイツに落とすつもりは最初からなかったらしい。ドイツは進行にいたる理由をもっていたのに対し、日本にはそういったものは何も存在していないように見えたし、アジアの周辺国を見ても、日本だけが単なる興味本位で周辺国を侵略しているように見えた。だから当然制裁するに値した。1945年5月に結成された暫定委員会が、6月1日に開いた5回目の会議で、日本への原爆投下が正式に決定されたという。その内容は、@原子爆弾を出来るだけ速やかに日本に投下する、A原子爆弾は二重目標―即ち周囲もしくは近接地に最も破壊されやすい家屋や建物のある軍事施設、もしくは軍事工業地帯に対して使用すべきである、B爆弾は事前警告なしに使用すべきである、というものであった。日本国民の抗戦意思を挫折させることが出来るように、又爆弾の効果が正確に把握できるように、まだ空襲による傷跡が残されていない半径がほぼ1マイルの人口密集都市が選定された太平洋地域の諸国だけでなく、近隣の中国や朝鮮のような国も何ひとつ日本のことを好意的には見ていなかったということは、過去においても日本だけが常に傲慢であったと取られても仕方がない。個人個人の場合でも、常日頃周囲に気配りを心がけていれば、一度くらいの過ちなら大目に見てくれるだろう。

日本に対する不信感は戦後になっても消えうせるものではなく、アメリカは『こんな国民総テロリストのような国にウランなど渡しでもしたら、忽ち核開発を始めるに決まっている!』と、原子核の研究などはほとんど許可しなかったらしい。それで学者としては政治的駆け引きのうまい仁科が死んでしまった以上、原子力委員会に任命されていた湯川秀樹がいくら国産の原子炉開発を訴えてみても、彼の力では政治は動かせず、原子炉本体もアメリカから購入することになった。


日本に原爆が製造できなかったというのは分かるが、なぜ戦時中のソ連に原爆の研究をした形跡がないのだろうか?きわめて不思議なことだ。そのためにアメリカをはじめとする連合諸国に一時期手玉に取られたのである。分かっているのはいまだそれくらいで、ソ連の戦時中の原爆研究の実体というのは皆目分からないらしい。一応1943年にはスターリンによる「原子力プログラム」というのが設けられてはいる。ソ連の原子核科学の開発を主導したのは、イーゴリ・クルチャトフ(1903−60)で、1930年代に、ウランを核分裂させることで膨大なエネルギーが生み出されることを独自に導いた物理学者だ。しかし、スターリンには原爆製造の意思はなかったのかもしれない。「エリート兵器は社会主義にはふさわしくない」といって、戦闘機の類はおおむねくず鉄に変えてしまって、大戦初期はえらい目にあった人物だ。原爆を好んだとは到底思えない。スターリンが「原子爆弾の開発を急げ!」と科学アカデミーに命じたのは、英米の会談内容が突然強気になったことで、スターリン自身が西側の原爆完成に気がついてからだという。


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以上のように、原子力の軍事目的というものは、『ラッセル=アインシュタイン宣言』によって強く非難されていることだが、だからといって、原子力の平和利用を推進しているわけでもない。この宣言のバートランド・ラッセル卿の懇願は、過剰生産の抑制であって、そのことは即ち電力の削減をも意味する。原子力発電も労働力と同じように、過剰に供給してはならないものであった。この宣言そのものは、かつてソビエト政府が永遠の平和を祈願して設立されたのと同じく、資本主義を根本的に非難するものなのである。資本主義世界が続く限り、人類の幸福は訪れることはないだろう。

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