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zoom RSS ピラミッドの戦い〜ナポレオンの戦役A

<<   作成日時 : 2013/03/07 14:12   >>

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ロディ橋の戦い以降もイタリア戦役は続いたが、1797年10月にオーストリアとの間でカンポ・フォルミオの条約が結ばれ、これで一時休戦となったので、ナポレオンはパリに凱旋した。

ナポレオンは次にイギリス打倒のための海軍の増強を総裁政府に進言するが、イギリスに直接侵攻することはまず不可能な状況にあったので、まずエジプトを抑え、イギリスのインド交易のための通商線を脅かす案が浮上する(*)。こう提言したのは、のちのウィーン会議において敗戦国でありながら戦勝国に要求をのませたことで知られるタレーラン(1754-1838(**))である。ナポレオンは自分より14歳ほど年長であるタレーランの老獪な政治手法を「絹の靴下の中の糞」と呼びならわし、両者は互いの天分を認め合っていたという。

(*)本書には、フランスがエジプト方面を抑え、紅海を制圧することで、香料街道を抑えれば、共和国の威信はインドにも及ぶという思惑を熱心に説いたのはタレーランだとある。ということは、当時、アフリカの喜望峰を回ってインドへたどり着くルートのほかに、商人であればすぐ思いつきそうな最短ルートで同じインドへと到達するルートもかなり広く利用されたのではないかと思う。

(**)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB
この当時のフランス総裁政府にとっては、とりわけタレーランにとっては、植民地化とは解放を示す行為であった。エジプト遠征は、マムルークに制圧されているアラブの民を強奪者の手から解き放つということを意味していた。ナポレオンが結局連合軍に敗れた後、タレーランは‘この危険な独裁者が現れなければ、我々の民族解放計画はあらかたうまくいったのだ’などという屁理屈ともとられかねない演説を連合諸国の前でとうとうと述べたのかもしれない。もっとも彼はあらかじめ遠征時にすでに、エジプトは元来ローマ共和国の地方であったがゆえにフランス共和国の所有に帰すべきものであると述べてはいたようだ。そして、エジプトの民のほうもその後相当の期間(100年以上)にわたっておおむねフランスを受け入れたらしいという経緯がある。いずれにせよ、この面倒な策士の働きで、戦勝国代表たちは敗戦国フランスの要求をのまざるを得なかったことになる。ちなみに1814年9月から翌年にかけて、トルコを除く全ヨーロッパ諸国代表がオーストリア首都の集合したウィーン会議中、当時の5大国代表は、オーストリア宰相メッテルニヒ、ロシア皇帝アレクサンドル1世、イギリス代表ウェリントン卿および外相カッスルレー、プロシア宰相ハルデンベルク、そしてフランス代表タレーランだ。「会議は踊る。されど会議は進まず」の原因はおおむねタレーランにあったのだろう。

こうしてナポレオンはエジプト攻略のための司令官に任命され、1798年の5月19日に、北西イタリアに近いトゥーロンを出港する。200隻以上、4万人もの兵士からなる大艦隊ではあるが、イギリスのネルソン率いる艦隊と遭遇したならば、ひとたまりもない。まだまだこの時点ではイギリスとは到底まともに立ち会えなかったらしい。

ピラミッドの戦い↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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勘のよいネルソンに出港を気付かれはしたが、単なる運の良さで船団は6月9日にマルタ島沖に到着した。早速この島の攻略を済ませた一行は、補給を終えるといよいよエジプトへと向かう。ここで初めて目的地が兵士らに告げられる。エジプトに到着してからの灼熱の更新でいくばくかの犠牲者を出しはしたものの、これといった戦法も持たないマムルーク騎兵を撃退するのはさほど困難ではなかった。強靭なマムルーク騎兵たちはフランスの2つの陣軍によって左右からはさまれてことごとく彼らの銃弾の餌食となったので、戦いで死亡したフランス兵士のほとんどは味方の放った銃弾でやられたものだったという。とはいえ、同士討ちは戦闘にはつきものであって、のちに日本軍の行った真珠湾奇襲では、同士討ちで撃墜された日本軍戦闘機が一機もなかったので、これが大変な話題となり世界中の軍隊を驚かせたという。ハワイ島に当時の日本軍の優秀さをたたえる記念碑があるのは有名な話だ。米海軍は日本軍の作戦を褒めちぎったが、これがルーズベルト大統領の逆鱗を買ったのもよく知られている話である。軍人の精神面からすれば敵の作戦計画であっても、優れたものは称賛するのが当たり前であって、それをいかにもけしからぬことのように云々するというのは、実に大衆操作以外の何物でもない。開戦時間のずれにしても、攻撃する側の日本時間で決定することに何ら問題はないはずだ。ナポレオン軍のピラミッドの戦いなどと比較するとはるかに戦史に残る名作戦である。裏を返せば、インプット・アウトプットによって反応するだけの大衆の操作はそれだけ容易だということになるし、それが史上数々の偉人たちを輩出してきた要因でもあるのだが。

この辺の感覚は日本人にとってはわかりにくいところではないかと思う。ナポレオンの生きている時代にはすでに日本人にとって戦闘に駆り出されるということは強制的な義務のようなものであって、西欧人が思っていたような権利ではなかった。第2次大戦においてさえ、兵士として戦場へ赴くことは、西欧人にとっては往々にして権利の行使であった。徴兵されるということは彼らの非情な名誉であって、したがって黒人で徴兵の特典に預かったものは歓喜にあふれていたのが常であった。対して日本人のほうは兵役に就くということは決して権利の行使などではなく、義務以外の何物でもなかった。明治新政府が徴兵制度を導入した際も、これを国民の特典として与えることができずに、租税の一種としての「血税」と称して国民の義務としなければならなかったほどである。

話が脱線するが、こうした日本人の心理の奇異性というものを思うにつけても思い出されるのが、広島長崎の原爆やシベリア抑留の被害に対するヒステリックな誇張であるとか、およそ事実無根の被害妄想的なもろもろの感情である。広島原爆などは「一瞬にして20万人市民が消えうせた」などというとんでもない大嘘。実際は投下後24時間以内に死亡したものはわずかの8000人程度であったとされる。投下後半年以内に死亡したものの総数にしても、わずか6万人ほどで、東京大空襲の犠牲者のほうがはるかに甚大だ。日本のマスコミが必死になって作り上げた戦後の虚構を、ばかばかしいことに今では当のアメリカ市民までが信じ込んで後悔の念に打たれている。日本政府が当時「原爆投下やソ連の侵攻は天佑だ」とありがたくこれを頂戴していたということを忘れてはならない。まだまだ本土決戦を前にした日本軍には相当の余力があり、先のベトナム戦争と同じくアメリカ側が講和条約を結ばざるを得なくなるという可能性もわずかに残されていた。それを狙う軍部のクーデターも秘密裏に進行していたという情勢であったのだ。もしも100万人のアメリカ兵士が犠牲になれば、アメリカ世論は日本と屈辱的な講和条約を結ぶ方向へと動いたであろう。ゲリラ戦になれば、飛び道具は弓矢でも毒の吹き矢でも対抗できる。軍部は、国民が半分になってもなお戦うつもりでいたのだろう。日本軍には生物化学兵器という切り札があった。この分野ではアメリカなどよりはるかに進んでいたので、それだけ勝利への自信はあったはずだ。だから降伏などせずに、アメリカ本国で反戦の機運が高まるのをじっと待っていただろう。ゲリラ戦なるものはかなりの長期間続いただろう。犠牲者も日増しに増えてゆくことになる。・現在の教科書を見ただけで、アメリカが楽勝できたというものは、最後の詰めがいかに困難であるかなど考えようともしていないのだろう。日本がドイツのようにすんなりと降伏してくれるという保証など、どこにもなかった。そしてそのことは疾うにわかりきっていたことだ。ソ連軍がドイツ軍の突撃をわずかな銃器で食い止めることができたのも、彼らの玉砕戦術によるところが大きかった。そうして玉砕を行う軍隊といえば、ほかには日本軍があるのみであった。原爆の使用はこれらの危殆を未然に防ぐことができた。せいぜい10万人足らずの老若男女の犠牲によって、数百万人以上の日本人の命が救われたのである。
 多分、100万人が犠牲になっても、ソ連なら最後まで戦うだろう。ソ連のほうがむしろアメリカよりも驚異なくらいだ。アメリカ政府はゲリラ戦が続くことで自国の兵士たちの内部に発生するサボタージュが反乱の動きとなることを憂えていただろうし、もしもソ連が日本を占領するようなことにでもなれば、その先に待ち構えている恐怖のシナリオを前に半ばパニック状態になっていたかもしれない。もしも日本が降伏を拒み玉砕を諮ってくれば、その前にアメリカ政府のほうが崩壊してしまう可能性のほうが大きい。軍隊を撤退せざるを得なくなるのだ。もともとアメリカ世論は、パールハーバー後も参戦には反対であったのを、ただルーズベルト大統領がイギリス人気質であったために、いやいや参戦させられただけである。カリスマ的なルーズベルトは死んでしまったし、新大統領のトルーマンはいかにも戦争には否定的なようにみえる。原爆投下さえ中止しかねない男であったらしい。実際彼はのちになって「原爆投下はきわめて悼ましいことであって、非常に後悔している」と述べているそうだ。もしかするとトルーマンの就任中に撤退が行われてしまうかもしれない。軍部のほうにも焦りが走っただろう。

さて、ピラミッドの戦いのほうであるが、この戦いがピラミッドの戦いなどといわれるゆえんは、ナポレオン軍の進軍する側に、ちょうどギゼーの三大ピラミッド群があったからである。その手前にマムルークの騎兵が陣取っていたからだ。マムルークのほうは大砲がなかったので、ナポレオン軍にも大砲を使わせない腹積もりだったのかもしれない。このように布陣しておけば、世界遺産のピラミッドは砲撃できないだろうと踏んだのかもわからない。ピラミッドといっても、現在ほど発掘が進んで巨大な全体像を呈していたかどうかはわからない。例の大スフィンクス像にしても、当時は肩のあたりまで砂に埋もれていたらしい(下の図)。現在ほどではないにしても、上部構造は地上に出ていたことは確かなのだが、それらの遺跡群に何一つ砲火の痕跡が残っていないことから推すと、おそらくナポレオン軍はマムルークの騎兵をめがけた遠距離攻撃は厳禁していたのだろう。もしも遺跡を傷つけるようなことを行っていれば、エジプト人たちのフランスへの信頼心というものが一世紀以上にわたって続くとは考えにくいからである。

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 1838年のスフィンクス像 まだだいぶ砂に埋もれている

勇猛果敢で恐ろしげではあるが、秩序というものがまるでない騎兵群の突撃を相当するのは容易であったようだ。射撃距離の半分まで近づいた敵をめがけて激射すると、人も馬持ちを吹きだしながら重なり合って倒れる。マムルーク側は2度目の突撃でも全く同じやり方を繰り返すのみなので、彼らはたった5分の間に300名が殺され、その倍以上が負傷した。フランス兵の側の犠牲者は主に同士討ちによる20名ほどだけだ。20分余りの戦いののち、すぐさまフランス兵は倒れた敵騎兵に駆け寄り、生者も死者もお構いなしに、彼らの革袋から金貨や宝石を略奪した。豪華な靴をもぎ取り、自分の靴と交換した兵士もいたという。騎兵団であるから、いずれも相当に裕福な者たちだ。身に纏う衣服もはぎとって売ることができれば、かなりの金額になる。この辺が、兵役を我が権利と考えている民族性の表れだ。危険なトレジャーハントの仕事なのだから、稼げるときに稼がなければならない。


この軍事的散歩のような気楽な戦いのちょうど1年後の1799年7月15日に、ナポレオン軍の一将兵が発見した760キロのロゼッタ・ストーンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%BC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3はのちにエジプト象形文字解読の手懸りとなったことで大いに有名だ。ちょうどナポレオンの死の翌年の1822年、シャンポリオン(1790−1832)による解読がパリ学士院に発表された。何とも驚くべき後日譚は、近代エジプト学の基礎となる部分は以後10年間の間に、彼一人の手によって完成の域に達したということである。

さて、マムルークの脅威からエジプトは解放された。ナポレオンはアラブの不純分子の首を毎朝欠かさず切り落とし、エジプトの伝統的な権威の尊重に努めた。征服のための布告文には、コーランから多数の引用を用い、アラブ人たちとの融和を図った。こうして訪れたエジプトの平和とフランス的な秩序のゆえに、エジプトとフランスの友好は末永く続くことになったのだと思う。



ピラミッドの戦いが文明の勝利であったことを象徴するかのように、文明国同士の争いでは、フランス海軍はイギリス艦隊の敵ではなかった。ネルソンに発見されたナポレオン艦隊は、敵の艦船の一隻も倒せないまま、ほぼ壊滅の打撃をこうむっていた。操船では到底かなわないと見たナポレオン側は、船団を浅瀬に閣座させて陸戦と同じ戦いができるよう乗員を砲操作に集中させたが、それにもかかわらず、一隻のイギリス艦にも致命傷を与えられなかったことには、彼我の実力の差を痛感していたに違いない。1798年8月1日のことであった。イギリスの守りはまだまだ完璧であった。

ナイルの戦い(アブキール湾の海戦)↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6

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