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zoom RSS 無差別爆撃ということ

<<   作成日時 : 2013/05/21 10:25   >>

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前にちらと触れたことがあるが、この概念が誕生したのは、第一次大戦であまりに多くの犠牲者を出したことへの反省からであった。職業軍人をいくら殺傷したところで、犠牲者に対する哀悼の念はあまり生じないのでどの国も降伏ということをせず、力の尽きるまで戦おうとする。それは大衆には軍人と一般市民とは別物という観念が色濃く根付いているからだ。確かに戦争が早期のうちに終了するならば、戦闘員たちは自ら志願した体力自慢のつわものたちであって、一般市民とは異なるところもある。しかし戦争が長期化すれば、兵士不足から、一般市民の中から無作為に軍人を選ぶ方法をとる以外に手管はない。ということになれば、一般市民も軍人も何ら変わることはない。一般市民の命が軍人の命よりも重いというようなことはない。それでも軍人を攻撃する代わりに、一般市民、特に子供や赤子を攻撃すれば、それは大衆の感情に訴えて、彼らを速やかに厭世気分に導くことができるだろう。すると政府は圧倒的多数派の支持を受けて、速やかに降伏文書に署名するため、戦死者は激減することになるのである。西欧先進国はいずれの首脳陣たちもこのように考えたようである。ただし戦時下にあっても政府は民主政治を施行し続ける力を持っているという前提があってなのだが、西欧人たちはこんなのはごく当たり前のことだとして、別段意に介しなかったようだ。実際、こうした概念は案外うまくゆき、戦争終結にかなり役立っていたとみられる。無差別攻撃により自国の一般市民を犠牲にされた国の政府与野党の諸議員からも、自国民に対する憐憫の情から即座に降伏せよとの声が上がる。世界初の空爆というもが行われたのは、ウィキによると1911年のこととなっているが、多分あまり定かなことではないだろう。ヨーロッパで飛行機が発明されたのは1906年のことで、当時は情報伝達が遅く、ライト兄弟の3年前の発明はあまり知られていなかったから、多くのヨーロッパ人にとってはまだ航空機が発明されてから5年しかたっていなかった。無差別爆撃の構想が生まれたのはその後のことで、イギリス空軍の一将兵の発案らしいが、どうせ市街地を爆撃したところで大した事にはなるまいと踏んでいたのかもしれない。

しかし、航空技術の発達で航空機が大型化し、専用の爆撃機が登場してくると、現実はなかなか思い通りにはいかなくなってきたようである。それでも、戦闘員は一般市民が量産しているという事実は変わるものではない。戦争が長期化してくれば来るほど、まず市街地を叩く必要も生まれてくる。武装した戦闘員を叩いても防御が固くて容易には破壊できない上に、味方の爆撃隊員の犠牲も多くなる。一般市民を叩けば何倍もの効率が生まれる。前線で直接指揮を執る将校からしてみれば、慣れ親しんだ部下の兵士の戦死のほうが、敵国の見ず知らずの一般市民の生命より尊いというのも、また否定できない感情であったろう。大体無差別爆撃は許されない行為だなどといって、単純な気持ちで反対している人間というのは、出兵した息子が全線で爆死したなんて聞かされた母親の気持ちというものを考えているのだろうか?普通の母親なら『息子の代わりに自分が代わりに死んでやればよかった』などと思うのではなかろうか。それらのことを思いあわせると、それほど許されないものだとは短絡的には思えなくなる。戦闘員の命も民間人の命も同じものなのに、兵士の頭上に爆弾を落とすのは非道ではないような言い方をするのには抵抗がある。

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それでも、1922年に、オランダのハーグに、日本を含めた先進6か国が集い、空戦規約として、攻撃は軍事目標に限ることや無差別爆撃を禁止する条約が結ばれた。最初にそれを破ったのが、ドイツと日本であることは言うまでもない。

特に旧日本軍の重慶爆撃は全くの失敗例といってもよかった。。結果としてこの爆撃は、一般市民を軍人とみなして行った史上初の無差別大量爆撃となった。1938年から43年にかけて丸3年以上続いたこの絨毯爆撃は、ドイツ軍のゲルニカ爆撃などとは比較にならないほどの犠牲を中国の民衆に与えたが、中国国民政府が降伏することは決してなかった。ゲルニカ空襲の目標は一般市民ではなく、交通網の遮断が主な目的だったらしいので、被害は存外少なく、死傷者総数は300人以下だったそうである。ドイツの場合はこういう言い訳ができるように、あらかじめ周到に計算立ててことを起こしていた点が侍ジャパンとは異なる。ゲルニカの場合の実際の死者は50人くらいか、すると第2次大戦で米軍の報告では誤爆とされている米爆撃機によるスイス・シャフハウゼン空爆の死者数と大差ないことになる(*)。一方、重慶爆撃での中国人死者数合計は1万人とされている。1945年3月10日の東京大空襲では一夜にしてその10倍もの犠牲者が出たらしいが、スペイン人や中国人のようには東京市民が無実であったわけではもちろんない。戦争に参加したものとして、その責任は成人はもちろんのこと、青少年や赤子にもあるはずである。ただし、こういうことは感情に訴えるということがないので、爆弾が落ちる以前からすでに風化が始まっていた類のものだ。こういうことは除外しして考えたとしても、日本側に全面的な減点があるのは明らかで、それは社民党の福島瑞穂氏の口癖のように、「ああいうことをしたのだから、原爆を落とされても文句は言えない」のである。ただし、大衆にそういうことを言っても理解されないのが常であるから、彼女がそれをいえるのも野党である間においてのみではあろうが。

(*)ドイツ国境に近い町だけではなく、内陸部に近いチューリッヒなども誤爆と言い張るのだから、全くふざけた話である。大戦中に、アメリカ軍の誤爆攻撃によりスイス市民400名余りが死亡したといわれている。欧州連合軍によるスイス誤爆攻撃が皆無だったことを見ると、地理不案内というよりどうも米軍の嫌がらせであった公算が大きい。


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「複式簿記は人類が生み出したものの中で最大の発明だ」などというのがゲーテにあるそうだ(*)が、複式簿記が偉大なのはそこに英知が隠されているからだ。誰にでも直感的にわかる『今現在』というこの瞬間としての時間と、瞬間の積み重ねとしての時間との公式だ。公社としての行為は、まさに知恵者にしかできないことだ。アメリカをはじめとした連合国は、戦争が継続している間中、ずっと保安官の役割を演じていた。対して日本の演じた役割は終始悪党であった。だから、時間の継続という点で見る限りは日本の得点はない。「今」の瞬間においてアメリカの果たした役割がどれほど残虐であろうとも、日本の果たした残虐の割合がゼロであるということはない。仮にアメリカの残虐度が日本の2倍であったとしても、アメリカは今の瞬間瞬間において、常に30点以上は取れるのだ。しかるに先の評価方式においては、アメリカはいつも100点であった。日本がこれら2方面からの採点基準でアメリカを上回るためには、少なくとも最初の採点基準の重要度を倍に引き上げなければならないのだが、そんなことはまず絶対に不可能であるし、だいいち、アメリカの残虐度が日本の倍に達していたとは到底思えない。

(*)「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)」岩波文庫版(山崎章甫訳)にあるそうだ。主人公ヴィルヘルムが友人ヴェルナーにやり込められる下り。

 ヴェルナー「・・・真の商人の精神ほど広い精神、広くなくてはならない精神を、ぼくはほかに知らないね。商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも、経営に複式簿記を取り入れるべきなんだ」

ヴィルヘルム「失敬だが・・・君は、形式こそが要点だと言わんばかりに、形式から話を始める。しかし君たちは、足し算だの、収支決算だのに目を奪われて、肝心要の人生の総計額をどうやら忘れているようだね」

ヴェルナー「残念ながら君の見当違いだね。いいかい。形式と要点は一つなんだ。一方がなければ他方も成り立たないんだ。整理されて明瞭になっていれば、倹約したり儲けたりする意欲も増してくるものなんだ。やりくりの下手な人は、曖昧にしておくことを好む。負債の総額を知ることを好まないんだ。その反対に、すぐれた経営者にとっては、毎日、増大する仕合せの総計を出してみるのにまさる楽しみはないのだ。いまいましい損害をこうむっても、そういう人は慌てはしない。どれだけの儲けを秤の一方の皿にのせればいいかを直ちに見抜くからだ。ねえ、君。ぼくは確信してるが、君がいちど商売の本当の面白さを知ったら、商売でも、精神のいろんな能力を思うさま発揮できるということがよくわかると思うよ」

修業時代だから、やはりヴェルナーのほうが先輩格なのだろう。ヴィルヘルムの考えはいまだ大衆のお決まりの思考から脱却できていないようだ。 商売に励む道もまた人間精神を高めるということはゲーテの持論でもあったに違いない。

ウィキペディアによると、ゲーテはワイマール共和国の大臣であったときに、複式簿記の教育を国民に義務付けたなどとある。前回の「数学的思考の大事さ」に通ずるところがあるが、大衆的直観法も取り入れている点で、現代の資本主義の世の中ではより注目される。かのマックスウェーバーも「複式簿記という発明がなかったなら資本主義も育たなかったであろう」などといっているそうである。「インドやイスラム世界にも資本主義の邦画のようなものはあったが、それが高度に洗練されたものにならなかったのは、プロテスタンティズムといういでーがなかったからだ」という。・・・今のように何事も金銭に換算して評価する時代になってしまうと、かえって嫌味に思えてくるかもしれないが。

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時の流れは何か特別のものだというような勝手な思い込みが現在の瞬間が存在しているというような妄念を生んだのであろう。それは便利ではあるが、けだし誤っていたとみるべきだろう。静止した四次元時空世界などというものなどどこにもない。そのことを示唆する簡単な思考実験が、例えばアキレスと亀の比喩だ。アキレスと亀は決して同地点で交わることはないが、アキレスはカメを追い抜くという話だ。この話で二つの者の接点がないということは、物体が静止することは決してないということの証左ではないか。つまり、現在など存在しないのだ(*)。存在しない今を生きるよりは、過去の記録の積み重ねによって生きるということのほうがはるかに重要であるということを、世俗の考え方で教えるのが複式簿記というものなのだ。

(*)ゼノンの行った手品師のようなペテンとも詐欺ともとれるような方法を思い出してみるとよい(「ゼノンの逆理」参照)。きっとゼノンにはこんなばかばかしい空想の物語の誤りを見抜けない当時のギリシャ思想家たちの頭でっかちの妄想を非難する気持ちが大いにあったので、こんなパラドックスを思いついたのだろうが。無限分割など、この世には決して存在しないのだ。アキレスもカメも、常に前進しているわけではない。ある時は静止し、またある時は回転運動のような前進を続けている。そのサイクルは2足動物の場合、半歩進むごとに交替するのが常だ。半歩1mとして、分割の距離が1m以内になった時には注意が必要だ。車にしてもこうした不規則な運動を伴う。真ん丸のタイヤなどこの世に存在しないからだ。航空機やロケットなどの前進運動はかなり滑らかだが、分子の大きさくらいにまで進むと、もう不規則な運動になり、理想の追跡者から見れば、とまったり動いたりを繰り返し始める。このように考えてみると、古くから多くの人々が無限という空想概念に取りつかれてきたのが不思議なくらいに思えてくる。運動を除外した場合に物体が存在するという妄念が拭い去りえなかったこととそれは結びついている。時間の経過がなければ、ものなど決して存在しないのだ。アインシュタインが思考したように、宇宙のあらゆる物体は時空の中を光速度で飛翔しているのだ。時間と空間は全く同質なものだ。空間を持たない物体が存在しないように、時間経過ゼロの物体も存在しないのである。

こうした客観的に歴史的自閉を現在の出来事と切り離して考える訓練を積んでいないから、多くの大衆は戦争を起こした時の一時的な熱狂を再び繰り返すことになる。保安官としての合衆国のやり方は、保安官ワイアット・アープ(1848−1929)(写真上)の卑劣な冒険譚と同じく、当時も力づくの残忍さを帯びていただろう。それは少なくとも合衆国上層部の連中にとっては、アメリカ合衆国はまだ新興国であったからだ。まだ彼らの育ちざかりのころには、あちこちでインディアンとの争いが残っていたのだから、そのころの刷り込みが根付いていて、それなりに暴力思考であったに決まっている。原爆投下を決定づけたヘンリー・スティムソン陸軍長官(1867−1950)(写真下)などは1867年の生まれであった。科学史家のクーン(1922−96)のパラダイムの概念にあるように、世の中の体制が改まるためには、「古い人が死んでいなくなる」以外に道はないのである。保安官の犯した残忍さと、犯人の犯した残忍さとを比べると、同じ残忍さであれば保安官の犯した残忍さのほうが理不尽なものに思えるのが普通だろうから、「今」という存在しないような感情的世界で両者を比較するならば、あたかもアメリカにも落ち度があったのだろうと考えるのが大衆的発想だ。だから、近年は「もしかしたら先の大戦では日本の言い分も正当なものがあったのかもしれない」と考えるアメリカ人も増加傾向にあるに違いない。しかしそんなことを思う人間は過去の積み重ねというものを知らないのだ。

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