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zoom RSS アメリカのデフォルト問題について

<<   作成日時 : 2013/10/05 15:03   >>

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日本などでは問題にもならないことである。アメリカ合衆国では、平時においては国家の借款上限が制定されているからという理由で生ずる問題だ。だから、もし大統領が非常事態宣言でもすれば、たちどころに雲散霧消するような表面的な問題であるともいえる。月を見て風流を愛でるといったたぐいの物語と同じだ。人間社会の運行など、しょせんはこの程度のものでしかない。

日本政府のマナーはなっていないとさんざん揶揄されることが多いが、米議会もこの程度でしかない。ちょうど日本において、民主党と自民党の折り合いが悪く、内政をおろそかに両党が内輪もめをしていたころと同じ背景だ。このばかばかしい茶番劇が、世界の実体経済に影響を与えるのだから、人間社会など空中の楼閣みたいなものだとしきりに思う次第である。

これは民主主義の非効率性を表す象徴的な出来事であるように思える。独裁国家ならこんな無駄なことはまず起こらないだろう。独裁国家では官僚の数が少ないので経費を削減できるというのも大きいだろうが、おそらくそれ以上に効率をもたらす要因となっているものは、経済発展というものがほとんどないからだろうと思う。経済発展のためには古いものをどんどん破棄して新しいものを取り入れることを繰り返さなければならない。ただ古くなったものを処分するための労働を繰り返さなければ、経済発展というものは物質が飽和状態になった先進国家では望めなくなってきている。これがどんなにばかばかしいことであるかは誰しもが直感的に納得するところだろう。絶え間なくものを生産していく一方で、人々が古い商品を使い続けようと励むたびに激しい不況が発生する。それで失業者が増えて、中には自殺するものまで出てくるのだから哀れなものだ。ところが、イエスキリストの言うように『古い皮衣には新しい葡萄酒は入れられない』。旧習を打破するには賢明なる独裁者が必要だが、それほど賢くなくても独裁者は務まる。明らかな愚物でなければよいだけだ。

貨幣というものは、為政者が巨大システムを統治するにあたって便利なように存在しているにすぎない。人の心というものが生来善良なものであれば、全く不要なものである。というのは、そうした場合、すべての物性の価値はゼロだからである。したがって物量の多少にかかわらず、すべての物性は同等の価値を持つ。10倍の嵩を有する品物は、一つの品物と同価値である。例えば、百人の者の命と一人の者の命とではどちらが重いかといったような問題と同様だ。政府国家の統計的処理では明らかに前者のものの方が重い。それはかつてアイヒマンが「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない」と語ったことを彷彿とさせる。物量で数えられない精神にあっては、一人も百万人も大きな違いはない。こうしたことから、一方では交通事故の被害者は加害者を強く憎むのが常であるし、また同じ感情から爆撃機の基調は敵の軍事基地よりも民間の施設を爆撃するという傾向が生まれる。


まことに世の中というものは、平時においても戦時においてもくだらないことで動くもので、人間は万物の長などという謂いはどこから生じたものなのだろうか、全く持ってミミズやモグラをあざ笑う資格などありはしない。

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