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zoom RSS ヒトラーのやったこと

<<   作成日時 : 2014/04/30 14:16   >>

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前回、ゲームと人生との間にさしたる違いなどないということを述べたが、その代表としてまず思い至るのがヒトラーのことである。アレクサンドロス大王にしてもチンギスハーンにしても、似たり寄ったりだ。世の中というものも、割と簡単に天地がひっくり返って、ゲーム化するものである。多くの庶民はせいぜいゲームの中の主人公を操ることしかできはしないが、たまさかに多くのしもべを意のままに操れる逸材というのが出現する。

恐らくいわゆる社交性のある善人であればあるほど、人生というものは真摯なものだと信じて豪も疑いは抱かないものなのだろうが、実のところ人生などというものは宇宙の広大な遊びごとに過ぎない。どんなに息巻いたところで、人類が抱いている夢想のすべては人類の消滅とともに夢幻に終わる。それは一個の人生においても同じことだ。一個の個人の人生が幕を閉じるのと同時に世界の一切は消え去る。その後も客観的な世界は存在し続けるかのように思えるかもしれないが、それは錯覚で、残された客観の世界は多数派の合意によって存在しているにすぎない。すでに生を終えたものにとっての客観の世界ではない。それはいわば思考実験によって宇宙の端から端までを同時に見渡すことのできる全能の神の存在を仮定するなどということと等しい大きな誤謬だ。最近になってますます私にとって外界の客観世界はその正体が夢幻に見え出して来た。もっと若いころは、生計を得るという目的がかなり最優先であったので、いちいち主観の世界の言葉で外界の現象を解釈しなおすという作業が面倒でならなかったのである。それで、名詞一般で代表された外界の事物など実際にはどこにもないものですべてそういった固定された概念は自分の思考の中にあるものなのである。例えば、リンゴやカバンという言葉によって表されるものにはそれらが運動している様子は含まれてはいない。しかし、われわれの認識するリンゴやカバンは常にそれらの運動の軌跡である。それらの軌跡の実在性を見て、リンゴやカバンといったものの実在を想定しているのはわれわれの思考である。すなわち、外部世界のものにはすべて実在性があるともないとも断言はできず、ただ内部世界にのみその実在性がある。このように考えてみると、内部世界のほうがはるかに意味があるように思える。昔から智慧は富に勝るというが、精神が物質を凌駕することはもはや確実なことである。だから、神学を科学よりも下位に置こうとする現代の風潮にはどうも共感できない。国家権力こそ低俗なものなのだ。商業生産などに従事している社会資本などは大変に下賤なもので、人間の使命であるべきは、これら低俗な事柄より離れて余暇をたしなむことにある。

ふと気が付いてみれば、自分の死後にも世の中があるというのはわれわれがあくまで経験上身につけた知識をもとにしての信念に過ぎないものだ。救いがたいウスノロを除けば、閑暇の十分にある未開社会の住人などはまずこのことに気づくだろうが、文明社会の住人はこうしたことを見出さないようにうまく教育を授けられている。文明社会の正体は何かというと、どんなによく言ったところで、せいぜいのところ、必要悪ということでしかない。本質的に邪悪なものなのだ。こういった社会に住んでいると、ひとりの人間の思考空間の広さは、全人類の思考空間の総計と同じであるということにさえ気が付かない。まあ、こんなことに気が付かないから、無限を何倍にしても元の大きさと等しいという理屈に気がつかないのだろう。


いましがた、マックス・シュティルナー(1806−56)の項目を見ていてふと思ったのだが、こういった思考のバラエティーは古今東西を問わず、意外と多々存在しているように思われる。それにもかかわらず、そうした数少ないタイプの人間について我々が耳目を止める機会はきわめてまれなのだ。例えば、世に2%近くの率で存在するということになっている精神異常者についても、日常われわれは全くそういったたぐいのものを見ることはない。それにもかかわらず、例えば健康診断の結果が平均値の範囲にあるということで喜んでいるバカを見るにつけても、『人と同じで何が楽しいのか、ボケ!』という殴りつけたくなるような間抜けがあふれているというのも事実である。しかし、どうもシュティルナーは時間と空間が互いに独立した要素にはなりえないとは思っていなかったようだ。この辺は時代の勢いというものなのだろうか、それともシュティルナー像もニュートン像と同じように歪曲されて伝えられているのだろうか。というのはニュートンは物理学者とか自然科学者などという前に、根本的に神学者なのであって、光などは神と人との間にあって伝令の役割を担うものであって、粒子でも波でもどちらの性質も示すという考えであったろう。だから運動の第二法則などにしても、本来は質量が変化するものとして扱っている。今でもそうだが、霊性の強い人は物事を一面的に見ることはきわめて少ない。この点が常時科学的である人物とは対比的であるが、ニュートンの時代は霊的な感性を有するのがいわば常識であった。物質というものは老いて輝きを失った分だけ重みを増すものと考えられていた。そうしてニュートン自身大変常識を重んじる人物であった。どこから見ても聖職者の雰囲気だったはずだが、それが後世の歴史の過程で変容された。だから彼が科学者の代表だというのは、後世の作り話のように思えるのである。

シュティルナーは「個人としての人間は屑だが、普遍的人間は尊い」といったそうだ。大変面白い言葉である。彼の思想を推し進めると、独我論に至る分岐を見出すが、それは単に独我論の主張が理論的に整合性を得ているからなのだろう。といっても、私にはシュティルナーが自己の体系を完成させたようには思えないのだが。完成させたのなら、思想だけで生きてゆけるだろう。その点はイエスのほうが偉大だ。堅固な信仰心さえあれば、パンについて悩むことはない筈なのである。ということは、シュティルナーの神は、イエスの神よりもはるかに非力だったことになる。ヒトラーなどにしても、彼が文化人中最も尊敬していたのがイエスだったという。それでキリスト教の観衆以上に、イエスの復讐という意味を込めてユダヤ人を執拗に迫害したのかもしれない。・・・一見、客観世界が実在することは確実なように思えるかもしれないが、それは時代背景と教育による大衆操作がそうさせているにすぎず、物体の実在はわれわれの思考の内部にしか求められない。外部世界に物体は実在しない。いかなる物理的測定も、物体そのものを見出すまでには至っていないし、それが不可能だとするのが不確定性理論だ。


思考のうちにこそ世界があるという見解に立つと、バブルのころは贅沢だったというものの思いもある程度理解できる。本当は今のほうが贅沢をしている。贅沢をしているから貧乏なのだ。それにもかかわらず、昔は贅沢だったという思いが生まれるのは、世界が内側にあるからだろう。外側をいくら飾っても、それは虚構に過ぎないのだから、全く幸福感は味わえないのだ。




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