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zoom RSS 『近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇』を読んで

<<   作成日時 : 2014/08/03 10:08   >>

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筆者の筒井清忠氏は1948年大分生まれの日本近代史の専門家だ。ひょっとしたら通説とは逆に、近衛文麿は案外すぐれた首相だったのかもしれないという気にさせる書物であった。人のうわさというものはあてにならないものだ。歴史的事象については単純で一方的な決めつけは全くできない。当時のポピュリストというと、乃木希典のことが思い浮かぶ。子供のころ、男子は10数えるのに「インデアンのきんたま」というごろをよく使ったが、女子は大概「ノギさんはえらいひと」という口調を使っていた。近江文麿も性格的には非常に乃木に近い人物であったらしい。しかし文麿は頭が切れただけに、乃木のように単純ではなかった。頭の良い分だけ派手に人殺しを行って最後は服毒自殺というもので死んだが、本人は乃木のように殉職したと思っていたかもしれない。経済発展至上主義などというものではなく、どちらかというと精神至上主義、それもカントなどよりシュティルナーなどの方を好んだらしいから、個人的理念主義といえる。今風にいえば自民党より民主党に近いかもしれない。

近江文麿というと、今ではずいぶんと貶められていわれるが、戦前の首相時代にあっても『近衛は優柔不断だからなあ』と非難する論客が多かったという。戦前は軍事政権時代に突入した1920年代後半であっても、大正デモクラシー時代の自由な気風―生命エネルギーといったものが社会全体に浸透していたような時代だったかと思う―がまだ残っていたように思う。社会を席巻していたのはダーウィニズムであった。生命の躍動感ということが性の解放につながった。性風俗を解放することで自然と人間社会の秩序は保たれるというのが、大体にして社会主義者らの論調であった。社会全般がこのようであったから、大震災ころまでは公園の噴水で乙女が素裸になって水浴びをしていても、警察官がこれを取り締まる風でもなかったという。



東京市麹町の自邸に近衛文麿が生まれたのは1891年(明治24)年の10月12日だった。近衛家は鎌倉時代の五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)の一で、藤原基実を始祖とする一族だ。文麿の父は篤胤といったが、産みの母のさわ子が文麿を生んだ九日後に産褥熱で死亡したので、育ての母はさわ子の妹のもと子であった。文麿は学習院中等科のころようやくもと子が実の母でないということを知って以来、世の中は嘘だと確信したらしい。筆者の筒井氏によれば、このことが社会や人間に対する不信感につながりやすいというが、さて時代背景や暮らし向きの大幅に異なる場所ではどのようなものなのだろうか、私には別段大騒ぎするような問題だとも思えない。

もしかすると文麿の剛毅で軍事好みの気性は、彼のそういった人間嫌いの面が現れたものなのかもしれない。当時の知識人としては珍しいくらいに彼は陸軍大将乃木希典を敬愛し、乃木の方でも彼の勇気を認めたらしい。ところが知識人などは存外乃木が気に食わなかったらしい(*)。武者小路実篤などは乃木本人の前で、「人間の価値をもっとも知らぬものは軍人であります」と堂々言い放ったという。志賀直哉をはじめとした白樺派にしても、下女の無節操な短絡的発想の「馬鹿な奴」というほどの物として、乃木の殉死を受け止めた程度だったらしい。この点、文麿が彼等とは逆に当時の大衆と同じく乃木に親しみを感じていたということは、彼の大衆性を表すものとして興味深い。そうしてこの大衆性を醸し出している正体こそが、彼の反社会的な冷酷さや残忍さであって、その傾向は中等科に進んだ13歳のころに父の篤麿を失ってからからますます激しくなっていったようだ。このころの彼は、カントなどにはあまり興味を示さず、シュティルナーの『唯一者とその所有』には強く惹かれたとある。理解はできなかっただろうが、かなり早熟であった様子がうかがえる。
(*)記憶では、山県有朋は乃木将軍のことを毛嫌いしていたように覚えているのだが、ネットを調べてみてもそのことは出てこない。しかし、203高地陥落にしても、あれは乃木将軍の功績ではなく、乃木では落ちないので司令官を乃木から別の人物に変えた。すると今度は配下の兵士たちが乃木の命令でなければ動かないと言い出したので、やむなく乃木の名で命令文を配布したなどという文書を読んだ。しかしネットに出てこないということは、乃木将軍の功績を貶めようとする向きの嫌がらせの文書であったのかもしれない。それに、乃木将軍が常に猪突猛進型で配下の兵士の命を顧みなかったという話が真実であるならば、そうした人物を更迭しようとしない上層部の不始末ということになる。とすると、乃木が無能だという話は、太平洋戦争後に、旧陸軍全体を貶めようとする動きから生じたとみてもよさそうだ。

文麿の少年時代も、今に劣らぬ激しい学歴社会だったらしい。学歴社会といっても、職を得るためというより社会から賞賛を売る目的だったのかもしれない。文麿のころは、まだ就職は身売りであって恥ずべきこととする風潮が多少残っていたものと思う。現在とどう違うのかよくわからないが、とにかく戦争前の日本は意外なほど豊かで物があふれていたことは確かだ。1906年(明治39)から1913年(大正2)までの新渡戸稲造の一高校長時代こそが日本において教養主義が成立した時代であって、近江文麿の少年時代はそのただ中にあった。文麿も新渡戸にあこがれて一高へ進んだ面もあるという。このころすでに日本は世界有数の大国だったのだから当たり前で、国民総生産などにしても欧州の大国を凌駕するくらいであったらしいから相当なものだ。軍事政権下に置けるような軍部の吸収といったものがほとんどなかったのだから、国民全般への富の分配というものもかなり行われていただろう。今と大幅に異なるのは、おそらく、都会を離れて田舎に出ると信じられないほど札漠とした風景が広がっていたことくらいかと思う。以前述べた鈴木商店の金子直吉だとか、船成金の内田信也などといったものが実業の方面でも大活躍した実力主義の自由な時代であったらしいが、なぜかあまり語られることがない。当時の世相をあまねく一般に知らせてしまえば、大概の人間は今人はバカに違いないと思うからだろうか。古参の人物では渋沢栄一だとか安田善次郎などがいたが、渋沢が献金を求められた際に要求を聞いたために命拾いをしたのに、安田のほうは「怠け者!」とののしったために暗殺されたという話の方は世に広まっている。バカばかり作った最大の原因は、戦後に始まった詰め込み教育にあるものと思っているわけであるが、軍事教育などよりひどく人間の思考力を奪い取るものであるとしか言えないものであったというのが驚きだ。大体年代的に、今50歳から75歳くらいの者達が受けた教育が最低最悪であるから、この年代のものが社会を牛耳っている現在が最低最悪なのである。若者はこいつらバカボンの説教をまともに聞いてはいけない。

文麿は一高から一時東大へ進んだが、結局学習院の高等科卒たちが辿る通常のコースとして京都大学へ進むことになった。西田幾太郎の社会主義哲学との関係が深かったらしいが、本人の述懐では河上肇に強く惹かれたとなっている。自分自身でも、「人間としての最高生活は矢張り宗教、哲学、芸術の精神界にあり、物質手段はその手段と心得居り、経済学もまた精神生活を助くる一方便として、その腫瘍の目的は貧困という現象の研究にあるを確信致し居り候」などという手紙をこのころ残している。そうしてその勢いのまま国家学を専攻し、哲学者か大学教授への道を進んでもおかしくなかったのに、実際は内務省へと就職した。これには実践的な教養主義者の新渡戸稲造の影響が強く表れているのではないかというのが筆者の筒井氏の意見だ。

こうした折、1918年12月に論文「英米本位の平和主義を排す」を『日本及日本人』に掲載。英米は自国の生存に必要な資源をすでに確保しておきながら移民制限などで各国の発展を妨害している。こうした不平等な現状維持のために唱えられる平和主義は利己主義の隠蔽に過ぎない。日本は英米に盲従することなく人種差別撤廃などを要求すべきである。というほどの内容らしい。先年細川護熙元首相が「これからは大人と大人の付き合いを望みたい」と米国に要求したのも、祖父のこうした勇ましい話に影響を受けたものなのかもしれない。筒井氏も語っているが、若干27歳でこのような視野の広い論文が掛けたというのは、やはりかなり思索範囲の幅広いものを持っていたのだろう。とすると、世に優柔不断というのは矢張りまやかしで、凡人には理解できないゆえの嫉妬がこのような噂話を生んだのだといえそうだ。勇ましいといえば、身長の方も180センチと少しあり、体格もかなりがっちりとしていたから、文官としては相当大柄だ。ただし海軍将校の中に入ってみると、それほど目立って見えない。ということは当時の軍人将校は巨漢だったということになりそうだ。

入省した文麿は早速渡欧のメンバーに選ばれるが、わずか4名の渡欧グループの中に新人が選ばれたということにも、彼に才能があったことを物語っているものだろう。若くして「有望な改革派」として世間を賑わわせていたらしく、すでに世間は彼に耳目を合わせていた。小泉元総理みたいなものだろうか。異なるのは小泉氏が当時60ほどだったのに対し、文麿のほうは若干27歳だ。しかし欧州を見聞した文麿のほうは「あらゆる事物が因襲と不完全と不自然とに束縛されていて、事々物々根本的改善を要するものばかりである」といって、すっかり日本が嫌になり、しばらく妻子とともに向こうで暮らそうとする。しかしそうしようとすると、さっそく暴漢に襲われたり脅迫状が届いたりした。おまけに祖母の死去で親戚にも反対されたため、アメリカに移住したのは長男の文隆だけとなった。

やがて、「人格及び其の性向の崇高なるをもって」という理由で研究会に招待されると、大方の逆手をとって、これに入会する。「文学などに熱中していたころは、それだけが精神的なものと考え、人生がどうとか、芸術がどうとかいっていたが、要するにそういう言葉の中に棲んで色々と弄んでいるのだね。しかし実際は政治でも実業でも、その中に深く精神的なものを含んでいる」というほどの気持だ。乃木院長に勇猛果敢といわれた性が垣間見えている。「今までは、人が泥棒をしてのだから自分も泥棒をしてよいという桃太郎的な侵略主義だったが、今後は深くこれを反省して決然と平和路線に邁進してゆきた」いという姿勢であったが、その後の結果を見ればその逆であった。このころの近江は第一次大戦時のイギリス外相エドワード・グレーの政治家としての生き方にひどく感銘している。グレーは、「政治家に最も必要なものは創造力」であり、それを身につけるには、「乱読はだめで、最もよい書物を傾倒正しく、熟読吟味すべきである」とした。政治について考えている時間よりも、自然に耳を澄ませているほうがむしろ大切だというほどの意気込みで、ポアンカレなどの大学者と似たような性向だったのだろう。王政ローマの伝説の国王ヌマ・ポンぺリウス(在位717−693BC)が毎日長時間を自然の中で過ごしたという話を思い出す。

1933年の6月に41歳で第5代貴族議員議長に選ばれるころからいろいろと事件が起き始める。1929年の世界恐慌に発する不況の深刻化と、ロンドン海軍軍縮問題の紛糾に見られるワシントン軍縮条約以来蓄積した軍人の不満が重なり、中国の「排日活動」に不満を抱いた軍部の越境だ。1931年の9月に満洲への独断越境が始まる以前から、日本政府としては排日行為(*)に対する自衛権の行使について論議しているらしいから、越境が寝耳に水というほどのことでもなかったのだろう。しかし、翌32年(昭和7)1月27日に上海事変が勃発するころには、「もはや陸軍出兵の中止は困難といって具合になってきた。このころが近衛が最も熱心に和平工作を進めた時期だという。2月9日には蔵相井上準之助が小沼正によって、3月9日には三井合名理事長の団琢磨が菱沼五郎に狙撃され死亡。両名とも血盟団員であった。暗雲垂れ込めるという表現がぴったり当てはまる世相だ。まるで急変する夏の雷雨みたいだ。日本史の参考書か何かを引っ張り出して、この辺のことをざっと復讐しておこうと思ったが、世界史の方しか見つからない。日本史はどうも処分してしまったようだ。受験参考書は廉価な割に良くまとまっているので調べ物の際に重宝なのだが、いつ読んでみても日本史は面白くないので捨ててしまったのだろう。しかし一度まとめておかないとどうにも流れがつかめそうにない。
(*)中国側の反日行為は、「桃太郎的な侵略」行為のためだから、今なら『自衛権』などとはとんでもないということで話にもならないはずである。しかし、満州越境に関しては、どうやら中国蒋介石軍の方の先制攻撃が発端とみる方が史実にあっているように思う。先制攻撃といっても、中国側の先制攻撃はすなわち自衛のための過剰防衛と呼べるものに相当する。ここが日米戦などのように、互いに自国外で戦ったものとは異なるところだ。そもそも中国軍などといっても、自国内で防衛活動をしているだけなので、これを正式な軍隊と呼ぶことにも無理がある。だから軍人が守るべき国際法にしても、日本軍側はこれを順守する必要があるが、中国側にとってはこんなものを守る必要はない。後講釈をする分には中国側が被害者であって、圧倒的に有利なのである。

続いて2か月後には5.15事件が起きる。これは軍が起こした事件だからより深刻だ。近衛の考えでは政党政治を費やすくらいなら、いっそ軍部内閣に万端任せよう。それで失敗したら責任を取らせてまたもとの政党内閣に戻れるというものであったが、西園寺公望が反対したため、結局中間内閣制をとった。この時に近衛の用いた論理はのちに東条内閣を呼び起こした時の論理と同じで、大変危険なものだ。失敗したものの善意を期待するという論法だからである。結果として登場内閣は責任などとることはせずに戦争へと突っ走ったのだが、だからといって近衛文麿を戦犯扱いするのは行き過ぎではなかったかと思う。まあ、今の法律で裁けばきっと無罪だろう。言葉じりをとればその勇ましいのは陸軍や強硬派の人の言っていることとあまり変わらないように見えるが、それはかつて乃木希典に「君は勇猛だ」といわれたようなもので、もって生まれた生来の気質というものだろう。ただ表向きにはどう見ても自分の発言が自分を動かしているようにしか見えないのが彼の難点だ。いったん戦争犯罪人として悪意をもって受け止めてしまうと、彼の語ることはすべて屁理屈だとしか思えなくなるようなものかもしれない。

ただし筒井氏の意見では、近衛は心からの民主主義者であったので、常に多数派の意志を第一に採用するという一貫した理念を持っていた。それゆえ自分の言動をできるだけ多数派と調和させるべくふるまったという。これはどうだかわからないが、確かにそう見ることもできるだろう。国民を尊重する政治家ほど民主主義の逆説からは逃れられないという。多数派が間違っていた場合には民主主義はどうしようもないのだ。ナチスドイツが戦争の道を進んだのも、おそらくは大衆側の意見なのだろう。しかし、すべての諸国が現在はそれを隠蔽して、「ナチスは独裁制だった」などといっている。ずっと将来になったら、全く別の評価がなされていそうな気がする。

3年ほど休火山のように静かな時期が続いていたらしいが、1936(昭和11)年になると2.26事件が起こった。このクーデターは4日も続いた。戒厳令下、世相はかなり重苦しい雰囲気であったらしい。

こういう事態なのに、政府内閣はふがいない連中ばかりが続いて、気骨のありそうな人物は近衛くらいしかいないという風になってきた。当時は熱心な日中不戦論者で近衛と親しかった石原莞爾(1889−1949)は、「動乱でも起こって国が乱れなければ人物が出ないんじゃあないか」と語っていたという。筒井氏の意見では、近衛は首相就任を辞退ばかりしていないで、さっさと近衛首相=石原参謀本部作戦部長という強力な体制を築いていれば、あるいは日中戦争拡大は防げたのではないかという。何度も事態を重ねた末に、林内閣の後任に陸軍大臣を総理にするという話が持ち上がってきて、「軍人を総理にするのはだめだ」と諭されついに重い腰を上げたのが、ようやく1937年の5月30日であった。そうして第一次近衛内閣が成立したのが6月4日のことだが、その一か月後の7月7日には日中両軍が北京郊外の盧溝橋で衝突している。その後10月末ころまで戦線は膠着していたというから、日本軍が特にべらぼうに強かったというわけでもなさそうだ。しかし11月5日に、日本軍が杭州湾上陸作戦に成功すると、中国軍はとたんに撤退を開始した。関東軍というイメージから陸路で進軍したと思いがちだったが、陸路で杭州まで来たわけではなく、日本軍は本土から船で進軍したようだ。北から南下したのではなく、揚子江下流から北上したことになる。勝ち続けながら撤退するということもあるが、どうやら撤退する間も負け続けていたような感じだ。それで日本軍の中には、首都南京を攻略することにより事変を解決する声が強まり、11月15日には南京に向けての進撃が決定した。南京攻略命令が下ったのが12月1日で、実際に南京が占領されたのが12月13日だ。命令のあった当日に進軍を開始したとしても2週間もたっていない。

半藤一利氏の「昭和史」などを読むと、停戦の機会は何度かあったのに、近衛文麿の声明はいずれの愚の骨董で、参謀本部が和平に乗り気なのに政府が火に油を注いだなどと書かれていたが、どうも実際はもう少し込み入っていたようだ。1938年1月15日の「国民政府を相手とせず」声明の後の、2月16日の大本営御前会議でも、戦面不拡大の方針がいったん決定されたりしていたらしい。それに加えて「近衛文書」として現存しているものでも、これ見よがしに世界を欺く偽装工作かもしれない。

現在の悪評化とは正反対に、日中戦争突入時においても、近衛文麿人気は相当なもので、大概の書生連中は「歴代にない名総理だ」という所感であったし、老政治家の古島一雄にしても「この内閣は総理以外に政治家というものがほとんどいない」と語っている。今に伝わる評価に疑問を感じるのはこうした点だ。

誤解されやすいのが「東亜新秩序」という構想で、これは1940年の「大東亜協栄圏」と内容としてはよく似ていた。近衛としたら、これで紛争は収束するかもしれないという期待を出したものかもしれなかったのだが、あいにく軍人に対しては損なものは全く効き目がないという代物であった。つまり中国と戦っているのは、英米の歪んだ秩序に対抗するためのものだが、中国がいうことを聞かないのでやむなく戦っているとするものだったらしい。

さらに1938年になると、ドイツが日独防共協定の同名の対象国としてソ連以外の国にまで拡大しようなどと提案してきた。内閣としては英米まで敵国にしたくはないから相当紛糾したらしいが、ドイツ大使がドイツ寄りでなかなか思うように動いてくれない。近衛としてはすっかり辞職する気になっていたところに、古老の西園寺公望が「やめたいだろう。気の毒がっている。」というのでいよいよやめることにしたらしい。左腕の風見も「もうとても望みがないからやめたい」と言い出した。それで1939年1月に平沼内閣が成立するが、7月には天皇自身が怒り出し、板垣陸相に向かって、「お前ぐらい頭の悪い者はいない」と言い出した。8月に独ソ不可侵条約が発表されたのを機に、平沼内閣は解散するが、筒井氏の見方によれば、不可侵条約は平沼内閣にとって『渡りに船』だったのではないかということ委である。どの首相も即やめたかったという気持ちは同じだったのだろう。次の阿部内閣も半年で終わって、1940年の1月に米内内閣が誕生。けれどまた半年たって近衛第2次内閣に決定した。1940年7月のことだ。近衛はラジオで所感を述べたが、聞いた西園寺は、「いうことは大体判るが、なんだか自分にはちっとも判らなかった」といっていたそうだ。「うまくやってくれればいいけれども…」とは、もう誰がやっても期待はできそうにないということだろうか。

陸軍の出してきた陸相の東条英機を抑えるために近衛の選んだ外相は松岡洋右であった。しかし第二の危険人物と目されていた松岡外相は簡単にドイツとの三国同盟を正式に締結してしまう。政府としては欧州が敵国に回ることはやむを得ないにしろ、米国が敵国になるようなことだけは避けたかったようであるが、これではもしドイツとアメリカが交戦したならば、日本は自動的にアメリカの敵国になってしまう。近衛は松岡外相を更迭するため、1941年7月16日総辞職し、18日の第3次近衛内閣を組閣。7月28日に南部仏印進駐が行われ、戦争が避けられそうにないということがわかると、8月に入って米大統領ルーズベルトとの会見を画策する。ルーズベルトはどう7日アラスカで会見することを指定してくるが、ハル国務長官が否定的であり、予備交渉を経てからと引き延ばしを図るうちに、8月にはこの話も立ち消えになっていった。陸海軍の中ではアメリカと戦うべきだという主戦論が急速に台頭していった。「もう少し早く覚悟を決めていれば…」という所だったらしい。この時点で交渉していたら、間違いなく暗殺されていただろうという。陸軍としては日米首脳会談が行われた場合は、もはや将来的には彼我の戦力差はとてつもないものになっているはずだから、ハルの態度はありがたかったわけである。

結局、陸軍の力が強大に過ぎて1941年の10月16日には内閣総辞職し、東条内閣の成立となる。日米開戦となると、大方は日本の敗北を予想して、株などはカラ売りをしたが、これが大失敗で、有名どころは皆破産したという。意外なことに、軍需株などは敗戦決定の見通しになっても、終戦まで上昇し続けたそうだ。戦局が有利に展開すると、近衛は開戦に踏み切れなかった優柔不断な首相として非難されることになる。「近衛という人も不運な人だねえ。あのまま軍の要求したとおりに戦争をやっていたら、今頃は神様のようにいわれているんだが、決断が出来ぬばかりに、せっかく苦労しながら莫迦な眼を見たものさ。いったいあの人の悪いところは本を読むことだよ。本を読むと右顧左眄して決断が出来なくなるんだねえ」などといわれたらしい。「反知性主義」側の持ち出す武器は、「不決断」=インテリ原因説だ。

半年もたつと前線が膠着してきた。米軍の力が増してきたからだとするのが従来の説だが、日本軍のほうが進撃をやめたという感じもする。戦局が一転してこちらの不利になると、途端に東条下しのようなものが始まる。それが1942年の秋ごろらしい。近衛は特に東条内閣打倒に熱心だったが、なかなか思うように運ばず、東条内閣の倒れたのはようやく1944年7月のサイパン失陥からとなった。かつて東条内閣を推進した木戸幸一(1889−1977)の力が強かったためらしい。

近衛の基本的な政治観は、ソビエト共産の赤い思想が蔓延れば天皇を中心とした国体が崩壊するというものであったようだ。だから戦後になってマッカーサーらと会談した際、彼らに好感を持たれたというのもうなずける。しかし、上層部は比較的一貫した主張を繰り返していたのに、手のひらを返すように冷淡になったのはマスメディアであり、それにあおられた大衆であった。近衛は政治犯として呼び出されることになり、尋問を受けるということになると、話が日中紛争のことにまで及ぶ。そうなれば天皇にまで戦争責任が及ぶことになるといって、連行される前日に服毒自殺した。「考えが甘かった。自分も戦犯ということになるのだろう」といっていたころから周囲のだれもが自決するだろうと思っていたという。それで次男の道隆は自殺できるような危険なものを探そうとしたが、妻の千代子は「お考えの通りなさるのがいいと思うから、探しません」といったそうである。

最後の晩に、道隆が、「これが永久乃至半永久的な決別だ」と感極まって、「これといって親孝行をすることもできず…」というと、非常な不快感を催したらしい。感傷的なその場限りの言動をこよなく嫌った人物であったことがうかがわれる。

杜甫の「貧交行」という詩を思い浮かべる。
「手を翻せば雲と作なり、手を覆えば雨
紛々たる軽薄、何ぞ数うるを須いん
君見ずや管鮑貧時の交り
此の道、今人棄てて土の如し」


散々近衛に世話になったものが、戦後になったらとたんに態度を変えた。近衛文麿は唐詩選は全部暗記していたというから、自然とこうした感慨に打たれただろう。それは父篤麿の時もそうであった。もっとも、大衆が自らの心変わりを自覚しているのかどうかは定かではない。自分自身の心情が180度変化すれば、固定したものは180度変化したように見えるが、大衆は常に「変化したのは自分ではなく物の方である」と断定する。


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