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zoom RSS 『ウィトゲンシュタインの誤診―青色本を掘り崩す』を読む

<<   作成日時 : 2014/11/23 10:54   >>

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ネットで「独我論」を調べていて見つけた本だ。独我論、独我論といっても、果たして独我とは現在地上に生きている人間60億人中の1人をさすのだろうかというと、大いに疑問なのである。第一大悟した智者は異口同音に「梵我一如」などといっているのである。ということは独我論者も聖域へ向かって昇華してゆくたびに自己を巨大化してゆくのだろうか、と思ったりもする。
さて、シュティルナーが出てくるかと思っていたら、意外なことに出てこない。かえってデカルトなんていう人が独我論者などに思われているのを不思議に思ったりもした。デカルトの思索なんていうのは宇宙永劫のシステムに思いをはせめぐらせたりしていて、とても独我論などととは無縁だと思っていた。ガリレイやニュートンにつながるということを考えれば、逆に実体論ともいえるのではなかろうか。まあ、遠い昔の人間の哲学であるからして、どのように解釈しても、理由さえ付けられるなら、いずれも正解だ。○○の父とか母なんていうのはプラスもマイナスもすべて合わせ持っているのが普通である。カントなんていうのもやはり、時間と空間の枠を固定してラプラスの宇宙論を展開したという方面からは、全くの客観主義者だ。しかし、あれこれひねくり回せば、「彼は独我論だった」ともいえるのではないか。そもそも、多少物思いの傾向のあるものは、だれでも、時々により二律背反的な思考を使い分けているのではないか。自分の外側で行動する場合にいちいち自他の異なりを分別していては面倒で仕方がないから、主に外部で行動するものには独我論的傾向は見られず、反対に内部に沈潜するものにその傾向を見るというのが世間一般の反応だ。

さて、表題の本の目次を見たところ、「身体は痛みを感じ得るか」という箇所があって、これは私もかつて大いに疑問に思っていたことであったように思い、さっそく注文してみた。『ウィトゲンシュタインの誤診』といっても、そもそもこの本を書いていた時の彼は病気ではなかったのだから、誤診などということは元来ありえない。ではどこが誤診なのだろうか。届くまでの間、ウィトゲンシュタインについてちょっと調べてみると、なんとオーストリア生まれで、リンツの高等学校ではヒトラーと同学年だったらしい。1889年生まれだからたぶんそうだ。高校時代には航空力学に興味があって、そちらの方面に進むつもりでいたらしい。哲学書はショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を気晴らしに一冊読んでいた程度だったが、ふとしたことでバートランド・ラッセルと話をした。するとラッセルは彼の才能をたちまち見抜き、すぐに自分のもとで勉学させることにしたらしい。ウィトゲンシュタインは、どのサイトをみても、IQが190あったとされているから、さぞ聡明だったのかというと,後年ラッセルは「深さと賢明さは相いれないもの」と、自分の邂逅したものの中で最も聡明だったものは経済学者のケインズだというようなことを言っている。とするとウィトゲンシュタインには深さというものをあまり感じなかったのかもしれない。ウィトゲンシュタインのIQが高かったのは彼が内向的な性格で、知能検査をまじめにコツコツ受けるタイプだったからだろう。本人が真面目に知能検査をやらなければ頭の良さなど計れるはずがないからだ。例えば、理論物理学者のファインマンなどはIQ123しかないということになっているが、これは頬杖をついて鉛筆をゆっくり動かしていた結果に過ぎないものであろう。ファインマンなどは外の世界のリズムに乗らなければやる気が出ないタイプだったのに違いない。

おもな著作はすべてノルウェーの山小屋で書き上げたが、第一次大戦がはじまると従軍を余儀なくされた。兵役拒否のため、ラッセルは投獄されていた。そういう時代だったのだろう。(後の2次大戦中の話であるが、数学者のアンドレ・ヴェイユも兵役怠慢を理由に裁判にかけられ、銃殺寸前まで行ったという)。兵役が嫌で嫌でたまらず、家病である自殺を考えていたところ、「トルストイによる福音書」というのに触れて、信仰心を復活させたという。戦後は小学校の教師などをしていたというが、どうもよくわからない人である。そんなことをせずともひとりで生きていける才覚は十分あったはずである。

それでさっそく届いた本を見てみると、どうやらウィトゲンシュタインの書いた本の中に「青色本」というのがあるらしい。「ちくま学芸文庫」に大森荘蔵の翻訳版があるようだが、その青色本の後半部分を哲学者の永井均氏の解説付きで訳したものだ。ウィトゲンシュタイン的独我論とか、デカルト的独我論などというくだりに眼を通してみたが、いわゆる科学の進歩というやつと同じやり方としか思えず、なぜこれが独我論と呼ばれる所以のものなのかがよくわからない。仮に世界中の人間すべてに独我論を適用した場合、最終的に構築される世界は結局実在論と同じものになってしまいそうだ。しかし、実際に中身に目を通して見ると、なるほどと納得する部分はあまりなくて、解釈の問題により人間の数だけ分岐がありうるのではないかと思うような部分が多かった。どうにも理解できない言い回しの箇所が多すぎて、何回か読んでみなければならないのではないかと思ったくらいで、あまり面白くなかった。永井氏の本では、「これがニーチェだ」というのを全部ではないが多分半分ほど読んだことがある。ニーチェは徹底的に全然社会の役に立たない思想家であったとか、善とは究極的には反社会的なものだとか、いじめられる子供には共通の欠陥=悪が存在すると問うことは単に非道徳であるにすぎないということが書かれていた。殺人は悪であるかと問うこと自体が悪であるという朝日新聞に載った大江健三郎氏の論評に対して大いなる不快感を呈していたが、私が思うに、大江氏の偽善は、真理を探究しようなどという使命感を抱いている人間などほんのわずかでほとんどはただの愚物に過ぎないのだから、嘘偽りを語っても一向に構わないという所からきているのだろう。こういうことは例えば村上春樹氏のような人も語っている。真理など知りたくもないという者の多さについてである。

筆者永井均氏によると、独我論と観念論とは全く異なるもので、前者が他者の心の実在を認めないのに対し、後者は心の実在を認める代わりに客観的世界の実在を認めないのだとある。観念論は実在論に対するものであるから、多分ふつうに考えてみてもその通りであるはずだ。独我論というのは、必ずしも客観的事物の実在を否定するものではないそうで、いうなれば心があるかなしかである。しばしば、自分がコンタクトを取った時のみ事物は実在するというのが独我論だという意見に触れるが、『それはちょっとおかしいではないか』と思っていたところ、「見ていない時でも客観的事物が実在していても独我論だ」という永井氏の意見に触れて、『なるほどやはりそういうものだろう』と安堵した次第である。いくら哲学上の専門用語にしても、一般的な意味から必要以上に乖離して独り歩きを始めるというのでは世の中の秩序というものが保てない。独我論とは「この世の中には一人自分だけが実在する」というほどの意であって、仔細は別にどうでもいいのだろう。なお、ウィトゲンシュタインの論理で行くと、デカルト的独我論は、常識哲学者のうちの観念論者ということになるらしい。どうも永井氏の思想的背景とウィトゲンシュタインのそれとは非常に異なっているようである。よくわからないが、永井氏がどこかで「こうした議論によって浮き彫りにしようとしている事態そのものは、ウィトゲンシュタインがどういおうと、実は単純にそうであって、そうでしかありえないことにすぎない」と語っていることから推して、人類が遠い過去の出発点においてどういう独我論を展開していったかということも、けだしごく単純で平凡な分岐に終わったのだろうということは大いに推測できる。

私自身は子供のころは自分の心も実在しないものと思っていた。中学生のころは、コンピューターというものを拡張すればそれだけで心を持つようになるものと思い込んでいた。多分そのころはIBMの研究者でも、メモリーを拡張するだけで心を持つロボットという物が作れるものと信じているものが多かったはずである。時代意識というのは知らず知らずのうちに脳裏に形成されるものであるかもしれない。それでいてしばしば自分と他者の間には数億光年の距離があるものとしか思えなかったものだから、かなり矛盾した部分が多かったはずだが、あまり深くは考えなかったようだ。

ウィトゲンシュタインは「他人にも私的体験があることは必然性のない仮説である」という意見を受け入れなかった。こういう仮説に意味を見出すことができなかったからだ。これとは反対に、しかるべき時が来れば、この仮説は十分に意味のあるものとなるであろうとしたのがデカルトで、だから彼の独我論的方法論はガリレイやニュートンを通して近代科学へと進歩した。進歩しなかったのがウィトゲンシュタインの独我論で、後にレヴィ=ストロースがそのような社会の構成員が現実に存在していることを見出したのは興味深い。彼ら未開人はウィトゲンシュタインの論理の展開通りに、『他者に私的体験があるならば、その人はすなわち自分だ』という通念を抱いていたのである(どうも彼自身は自分の論理を否定したようだ)。彼らにとっては、自分自身の目に内側の自分の姿が見えず思惟のみが把握されるのと同じく、自分の外側にある自分の思惟は把握できず姿だけが認識できるのである。また、現代社会における他者に相当するもののすべてが自己である社会を想定するならば、いわゆる他者の諸感覚にしても自分と同様であることが容易に推測される。

ここでウィトゲンシュタインが、観念論者や自我論者の他者に対する同情心は、実在論者の者よりも強力だという暗示を与える表現形式をとっていることにも注目してみたい。なるほど実在論者ほど残虐なものはなかったといってもよいのではないか。ウィトゲンシュタインにとってデカルトは観念論者であった。永井氏によれば、独我論は観念論とは全く相いれないもので、そうするとむしろ実在論に近い物といえるのかもしれない。両者の定義を無理やり融合させると、独我論とは、実在論と観念論の間を自在に往復するものとなる。ここで、マックス・シュタイナーの話を思い出してみると、両者を結び付けるというのは、そう牽強付会な話ではないということに思い至る。というのは、こと心の問題に関しては、客観的世界に当てはまるような唯一絶対の法則などというもの、ニュートンの万有引力の法則のようなものは存在しないわけだからである。特にウィトゲンシュタインにとって、世界は全く実在論的であったというのが興味深い。もちろん彼はもろもろの他者の実在も認めていただろう。もし彼が地上に生きている唯一の人間であったとするならば、彼は実在論者であると同時に観念論者でもあり、同時にまた独我論者でもあったかもしれないことになる。ただ問題は果たして実在論者というものは心というものの実在を一切認めないものなのだろうかという点だ。紛らわしいのは中世に現れた「神は実在する」という実在論だ。現在から見るとまるで唯心論のようだが、よく考えてみると唯物論に近い考え方だといえる。そもそも哲学をやっていないので詳しいことは知らない。今後折に触れぼちぼちやって行こうとぼんやり思っているにすぎないが、どうせやってみても心の問題だから解釈は自在なものに決まっているということもある。

思うに、ウィトゲンシュタイン的自我論というものこそ人間本来が自然に持つものなのではあるまいか。われわれ自身も幼児期に母親や父親の姿を目にした際、これこそが自分の姿だと思ったのではあるまいか。しかしながら後年社会学習の洗礼を受けるにつれ、これらの記憶は不便で忌まわしいものとして忘却の彼方へと追い払われたのである。ネアンデルタール人たちはこうした通念を当然のこととして抱いていたから文明を発展させることができずに、サピエンスに追われたのだということもできよう。なぜサピエンスの文明では自己を肉体の内側と想定するものが主流であるのかがむしろ問題だ。そもそも哲学が誕生して以来、哲学の常識という者は自己を内側のみに規定してきた。オルテガなどに「私は私の環境だ」などという言葉だけはあるが、どうも意識が及ばない範囲のものは自分だとは思わない社会常識が思想家たちにまで蔓延しているといった感じがする。自分が自分に見えないことは全く不思議なことではない。生物の誕生と進化の歴史を見ても、そうしたことは言えると思う。植物とは異なり、動物には遺伝子にプログラムされた細胞分裂数の限界というのがある。それにより誕生の瞬間から死が決定されているわけだ。動き回るためには死が必要なのかもしれない。植物が動き回れないのは、彼らの身体の細胞の大部分は死亡した細胞であるためだ。動き回って活動するために個体が死ぬだけであるのに、自我まで死ぬ必要があるというのは全くの錯覚ではないか。自我は種の存続とともに生存し続けると考えても少しもおかしくないとする所以である。先進文明国では、自我の範囲を拡張することを、何か高次なものへの接触あるいは飛翔のようにとらえている向きがあるらしいが、未開社会ではごく一般的に同族はすべて自分自身である。だから、精神の高みなどという問題とは全く関係のないものだろう。自分の概念とは単なる社会学習によって獲得されたものに過ぎないということをわきまえればそれでいいようなものなのだろう。

哲学の途には有名な話らしいが、ネーゲルの蝙蝠(74年)という話があるらしい。「コウモリであるとはどういうことか」としてウィキペディアにも載っている。トマス・ネーゲルというのは1937年ユーゴスラビア生まれのアメリカの哲学者。何か生物であれば感情移入のようなことも比較的容易だが、人造物のようなものであるとなかなか難しい。どこかの軌道に置き去りにしたハル型ロボットの思考に涙を浮かべた科学者というのはどういう思考回路を持っているのだろうか。ロボットに同調したのか。まず同調できることから同情が生まれるのか。しかし、痛みを感じないことがわかりきっているロボットに対して人は何故同情するのであろうか。それどころか、人間並みの思考を全く持たないただの遠隔操作の小惑星探査機はやぶさの帰還に対しても、まるで外部にある愛玩動物に対するもののように同情の涙を流したものさえ現実に存在している。実際には自分たち人間の、いわば内部にある意識に同情したにすぎない。自分自身の操作技術に感銘して、それを外部の出来事であるかのように錯覚する。

ウィトゲンシュタインが痛みの感覚になぜこれほど拘泥するのか私にはよくわからない。それはあまりに単純な感覚であって、およそどのような他者にそれが存在していても同じ感覚であることはまず間違いがないと思われるからである。もちろん伝道神経の太さと細さによる閾値の異なりのようなものはあるだろう。一般に細い神経のほうが飽和状態に達しやすい。つまりある一定の痛みに達したら、それ以降の痛みはほとんど強くはならない。はた目にはこれらの人は強烈な痛みに対し鈍感である。太い伝道神経を持つ者の痛みは際限がなく高まる。これらの人は自分で自分の腕を手術することなどできそうにない。そうした異なりはあるものの、この間隔は、例えば色彩を区別する際のもののように複雑ではない。ただの電気信号で、脳の中に化学伝達物質を放出させるという点で、痛みの感覚も色彩の感覚も、思考作用と変わらないものであるのに、なぜ不必要に拡大し、意識の作用で抑えられないほどの大きさにまで発展するのかは、全く見当もつかないところのある感覚であるとはいえる。

永井氏もウィトゲンシュタインと似たような思いを痛みの感覚に対して抱いているらしい。これに対して、大森荘蔵氏のほうがむしろ私に近いと思われたのはついの原文の同じ個所の和訳からである。「一方に麻酔をかけたり殺したりしても、他方はなお痛みを感じ続け得るのだから、この二人が同じ痛みを感じていることはありえない、と言っても、それは論拠にはならない。」という永井氏の訳を、大森氏は「一人がなお痛みを感じているとき、も一人のほうが痛みを麻酔したり鎮めたりすることは可能なのだからこの二人が同じ一つの痛みを共有することはありえない、といっても反論にならない。」としている。同じ原文なのであるから、どちらかがよりひどい意訳であるはずだ。鎮めるという所には気絶するという意味もあるということを考えると、どうも永井氏のほうが原文をより意訳しているのではなかろうかと思った。しかし、大森氏はこの箇所について、「何故ありえないのか、私にはわからない」という注を振っているという。ここだけを見る限り、大森氏のほうが性格的に私に近そうだ。

最後の方で永井氏がこうつぶやいているのが目に留まった。「ある時われわれは、自分を特権的で例外的な存在者とみなし、かつみなさせようとする、『王様路線』を貫いて共倒れに終わるよりも、全員がそれを捨てた方が他の点でいろいろとうまくいく、という洞察に達したのである」。ここにやや人間中心的な思考というものを見ることができるように感じた。現実はそうではないのではなかろうか。進化の過程で動植物の一切は、独我論などとは正反対にすべてを自己ととらえて生きてきた。ホモ・サピエンスだけが例外的に勘違いという現象を生じたために、独我論などという妄想を生み出したのだ。そうでなければ、文明の進歩などというものもなかったとは思いはするのだが、アリなどの社会的昆虫の暮らしを思うと、また、自己というものはなくとも文明は進化するのではなかろうかという気もする。「集団的知性」などという概念としても研究対象となっているものである。まあ、自己の概念にとらわれるあまりに、生老病死の悩みなどというものが生まれるのだろう。

社会通念の枠からはみ出すことがいかに困難であることかをしめす例として、ふと35年ほど前に駅前でとんちクイズを出していた青年のことを思い出した。その当時は、群衆の中で話すことで度胸がつくとでもいうのか、そうした青年の姿をあちこちで見かけたものだ。彼らの中でも、最も離れしているという感じの青年であった。正方形を形作った9つの当分割の点を4本の直線だけで一筆書きで描くにはどうするかという問題だ。子供なら固定観念がないのですぐできるという。35年ほど前はだれもかもが機械のようにワンパターンな生活を繰り返していた。枠からはみ出すことなど一切欲しないというものがほとんどであった。こうしたとんちクイズで正解を出しても、何一つ罰則はないのに、こんな場合でさえ枠から抜け出すことを拒むものがほとんどだった。それが社会通念というものだ。そうした枠組みの中でもとりわけ強力なのが自我というやつである。自我の桎梏を外そうとするような人間はまず存在しない。


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意外に思ったのだが、日本人にとってウィトゲンシュタインは最も親しみやすい哲学者の一人であるかもしれない。彼に関する書物の数の多さからそれは類推できる。丁度ドイツ人にとって、ショーペンハウアーが市井の哲学者として最も身近であったようなものかもしれない。仏教の概念と通じるものがあるのだと思う。自我にこだわるとこうなるという悪い例として見られているのかもわからないが。禅病というものかもしれない。



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