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zoom RSS 『湖国に模擬原爆が落ちた日』というのを読んだ。

<<   作成日時 : 2014/12/06 16:30   >>

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2009年に出版された本であるが、2005年あたりになるまで詳しいことは発掘されていなかったらしい。灯台下暗しというか、高度成長期の人間たちは、働くこと以外に何一つ生産することのない動物状態であったのだとつくづくそう思った。完全に日本古来の人情というものを失った人々である。おそらく昭和初期までに高等教育を終えたもの達が風情を解すことのできる最後の世代だったのだ。1900年〜1910年生まれの世代がぎりぎりのところだったのではあるまいか。

滋賀の空襲は、東京大空襲とか横浜大空襲のように大規模(*)のものではなかったにしろ、実際に被害にあったものにしてみればこの世の終わりのような出来事であったはずである。それなのに滋賀県側に空襲の被害程度について記録した書類がほとんど残っていないというのは、遺族でなくとも意外に思うところだ。滋賀の大津空襲の場合、死者は計17名とある。7月24日朝3機のB29の編隊のうちの1機が引き返してきて、1発の爆弾を投下した。長崎に落とされた原爆「ファットマン」と同じ形状と重量(約4.5トン)で、プルトニウムの代わりにTNT火薬約2.5トンを搭載した大型爆弾だ。形がかぼちゃに似ていて黄色く塗装されていたので、「パンプキン」と呼ばれた。この爆弾で東レ工場の屋根には大きな穴が開き、地面には10畳ほどの大きさのクレーターができ、15名の作業員が死亡、105名が負傷したという。パンプキン爆弾は米509混成軍団が、原爆投下の訓練として7月20日から8月14日までに各地で50発投下されたという。ずいぶん念入りに下準備が行われていたものだ。ニューメキシコのアラモゴード空軍基地近くの砂漠で人類初の原爆実験が行われたのが7月の16日の夜明けだったから、広島方式はあまり期待されていなかったのではないかとも思える。広島型原爆では、事前に何度となく検証が行われていて、不完全爆発の起きる確率がかなり大きそうだったのではあるまいか。もし不完全爆発か、最悪の場合不発のため原爆の正体が知られでもしたら、チャーチルがいったような【希望の光】どころの騒ぎではなくなるかもしれない。終戦間近になっても、ロサンゼルスをはじめとしたアメリカ西海岸では日本軍の空襲を恐れて灯火管制を敷いていたという。その動きに原爆投下のうわさが混じったのではおおごとになっただろう。

(*)爆撃機の数からいうと、5月29日の横浜大空襲の方が上回っている。3月10日の東京大空襲の場合は、進路を迷ったため目的地へ到達できなかった爆撃機がかなりあり、これも考慮するとかなりの違いになるようだ。前者の場合は519機の爆撃機が横浜上空を襲ったのに対し、後者の場合は東京上空へたどり着いたのは300機に満たなかった。滋賀県の空襲については県の調査では、全部で19件記録されていて、死者53名、負傷者180名以上とある。1949年の経済安定本部の調査では、滋賀県の空襲の犠牲者数は101名いたと記録されているそうで、かなりの食い違いがある。数字は相当いい加減で、到底信頼できそうにない。被害程度は横浜より少ないらしいが、名古屋の空襲も爆撃機の数は500機を超えていたらしい。名古屋は巨大軍需工場があるので、初期のころから相当爆撃されたらしいが、東京大空襲と比べるとあまり話題になっていない。記録には残っていないが、実際の被害程度は群を抜いて多かったはずだ。工場の被害は軍事機密で公表されなかったからだからである。全国的な傾向らしいが、空襲といっても、戦闘機による機銃掃射や小型爆弾による被害の報告は実際よりも極端に少なく、実際には5倍以上の被害があったらしい。

余談だが、嘘だとしか思えないのが、シベリア抑留での日本兵の扱いであって、あれはドイツ兵に対してではないか。何とも戦後数十年たつというのに嘘はよろしくないと思うのである。ばたばた死んでいったというのもドイツ兵士に対してなら当てはまる。抑留されたドイツ兵250万のうち、本国へ帰ることのできたのは100万人足らずで、残りは全員収容所内で死んでいる。日本軍は65万人中60万ほどが生還(数値は公表さえているものでもあてになりそうにない)。収容所に入れられたものが毎年1割か2割が死んでいったというなら、10年間の間に半数近くが死亡しているはずである。収容所以外のほかの場所にいたものがかなりいたということには思い至らないのだろうか?各種報道にはこうしたことはほとんど触れられていない。ネット記事でたった一件「大半のものは一般工場で働いていた」というのを見ただけである。そうしたものは内地の日本人よりも食生活も豊かであったそうだ。

戦後の日本は日本人はアメリカ軍の空襲を受けてアメリカを憎んだなどというが、果たしてアメリカを憎んだだろうか。憎んだのは旧日本軍と日本政府ではなかろうか。日本政府は、空襲被害者に対する補償など一切認めなかったという。そうした国にはたして心底から愛着を感じるものであろうか。戦死したアメリカ兵の遺体なども日本兵士の遺体と同様に丁寧に墓地に埋葬していたというから、特に米兵に恨みのようなものはなかったと思う。聞けわだつみの声などにも、すでに日中戦争当時の従軍兵士の日誌に「間違っているのは日本の方ではないか」という記述がみられるそうである。日誌とはいえ、発見されたならどんな目に合うかわからない。実際にはこういう気持ちを持つものはかなり多かったと思われる。あるいは「日本人の敵は日本軍」ということがむしろ一般の常識だったのではあるまいか。事実日本政府の中には、ソ連侵攻や原爆投下を、「天の助け」とむしろ僥倖に感じていた向きがあったことは確かなようである。実施は原爆投下後の時点でも、日本軍はかなりの余力を持っていて、あわやクーデターで降伏失敗寸前であったらしい。
―米内海軍大臣の「原爆は天佑」発言

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」  (読売新聞 2006年8月15日 12版)―

私の父なども、終戦時21か22歳で海軍の召集を受けて半年ほどだったらしいが、玉音放送で終戦の報を聞いた時、うれしくてたまらなかったそうで、子供のころたびたびその話を聞かされた。急いで自分の部屋に駆け戻ると、カーテンを全部占めて、小声で万歳を三唱したそうだ。多分みなうれしかったと思うと語っていたが、たまたまこんな話を聞いていた母の方はオヤジのようなのは非国民だといっていた。母のほうは空襲で家を焼かれ機銃掃射にもあって怖い思いをしたらしいが、父の方も2,3回空襲にあったものの、米軍が爆弾を落としていったのは決まって町を通り越した山奥の方で、「あんなところに爆弾落として何やってるんだろう?」というほどの物であったというのも影響していると思う。しかし、案外父の気持ちのほうがフランクでより実際に近かったのではあるまいかと思う。もっとも、親父の話もすこし眉唾で、全員が海軍の訓練作業などマイペースでやっていても2時ころには終わるほど楽なものだったのかどうかはわからない。軍隊に入れば食べ物には不自由しなかったというのは事実だろう。昭和1955年の戦後生まれの本署の筆者も、愛知の豊川海軍工廠に学徒動員された人物が当時を回想して「私のアウシュビッツ」と呼んでいたことを記している。しかし、進駐軍が入ってくるようになると、すぐに食料事情は改善され、暴力や暴行による強制労働もなくなったそうだ。

そうした傾向は戦後になっても続いているのであって、例えば戦後GHQによって廃止された軍人恩給は1953年に復活しているのに、同時に廃止されていた、一般市民に対する戦時災害保護法はいまだに復活されていない。旧軍人の補償には、「叙勲」と「靖国合祀」とが連動しているからだという。国のために戦ったものはたたえられてしかるべきで、ただ生きているだけの市民は耐え忍ぶのが当たり前だという考えだ。2009年の朝日新聞にはこうした「受任論」が現憲法の精神と相いれないということがいまだに論究されていたという。そうして驚くべきことに、戦時中の空襲被害程度は年々減少しているのだ。空襲犠牲者の数などというものは過去において固定されたものであって変わるはずのないものなのだが、それがどんどん少なく書き換えられているのだ。滋賀県における犠牲者総数など、もはや半数までに減少しているという。

ネットで、「戦前、兵役は納税と教育とともに、臣民の三大義務の一つだった。ただし、兵役は名誉ある義務とされていたので、6年以上の懲役または禁錮の刑に処せられた者は兵役に服することを得ないと定められていた。」という記事を見つけた。どこそこの弁護士会というサイトだったと思う。兵役が義務としてではなく臣民の権利であったという昔の名残だ。いつごろから主客が転倒したのだろうか。ナポレオン戦争のころなのか、もっと以前か、あるいはもっと最近のことなのか。最近では、ニートのような国政に無関心なものを戦場に送るべきでなどという無定見としか思えない意見も多い。以前とは真逆に、兵役は罰則であるというような風潮が色濃くなってきた。そよ風ひとつで子犬のワルツのようにくるくると見境もなく回る。だから風来坊などというのか。世間の風向きの変わるのは存外ゆっくりだから気が付かないだけだ。



さて、原爆投下チームの第509混成軍団のことであるが、正式に発足くしたのは44年の12月17日、指揮官はポール・ティベッツ中佐、将校が225人、兵士が1542名もあったそうである。腹部を改造したB29「シルバープレート」は、全部で15基あったという。これらが3回ずつ投下訓練を実行するとして、45発のファットマン型の大型爆弾が必要だ。当初、投下目的地として「東京〉を考えていたものが多かったらしいが、すでに空襲された後で被害程度がわからないというので、すぐに「京都」、「広島」、「横浜」、「小倉」に変更され、これら4都市への通常空襲が禁止された。それが45年の5月上旬だったが、3週間もたたないうちに、「京都」、「広島」、「新潟」となった。それからしばらくすると、また「小倉」が復活した。ところが、「広島」、「新潟」。「小倉」への原爆投下は確定されていたが、京都への投下は日本人の反感を買い爾後の占領政策に差支えがあるとして意見がまとまらず、7月22日になって急きょ「長崎」への投下が決定した。原爆投下は2発だが、各々について一つの予備都市が必要だということで、仮に日本だったらばこうしたことは落とした後で考えるのではなかろうか。もっとも、アメリカ側がこれほど用意周到なのも、これが最後の詰めという気持ちだからなのだろう。ただし長崎への2発目の原爆投下が澄んだ後に、「シルバープレート」が一機、三発目の原爆準備のために米本土へに帰還していたそうだ。「小倉」投下が失敗したので、もし日本が降伏していなければ、まず3発目は小倉に投下されていたと思う。

滋賀にパンプキン爆弾を投下したB29「ストレートフラッシュ」の機長クロード・イーザリー(1918−78)は、広島原爆投下の「エノラ・ゲイ」に投下指令を出したことでも知られている。45分間広島上空を旋回して気象観測を行い、「準備OK、問題なし、投下」を知らせた。7月20日のパンプキン爆弾の演習で、命令を無視し、東京に向かい「皇居」を狙ったことでも有名だそうだ。爆弾は目標を大きく外れ、東京駅東側に落下し、死者1名、負傷者62名を出したそうだが、2.5トンのTNT爆弾にしては被害が少ない。ゼロ戦の250キロ爆弾でも、半径35メートル以内の人は死亡するといわれる。第三帝国風の重層な鉄筋コンクリートの建物であれば、大体500キロ爆弾が直撃しても耐えられたそうであるが、今のビルなら100キロ爆弾でも倒壊すると思う。大体投下速度が最大になるときの破壊力をもとに防御力を決めるのだろうが、どれくらいの高度から投下すると爆弾の落下速度が頭打ちになるのだろうか。落下速度が一定になる速度のことを終端速度などという。スカイダイビングの猫で時速100キロ、人で時速200キロという所だ。爆弾だと空気抵抗の少ない形状も影響して、軽いものでも音速を超えるらしい。

今までアメリカ側の圧力で知れ渡っていなかったのか、本書で初めて見聞したことなのだが、イーザリーは原爆投下の罪悪感に際悩まされ、何度も日本人に向けて謝罪の手紙を書き送ったという。自分は広島を破壊するための“ゴー・アヘッド”の命令を下した当の少佐であること、自分にはこの行為を忘れることができないこと。この行為は一つの罪悪であり、そのために自分は非常な苦しみを感じなければならないことなどを切々と訴えていたそうである。1960年の朝日新聞にはこうした彼の思いについて触れた記事が載っていたそうだ。当然のこと、アメリカ側は彼の証言を誤謬であると断じ、うそつきの非国民であるとして一切をもみ消そうとした。原爆投下に直接かかわったアメリカ軍人の中で罪悪意識や核兵器反対を公的に表明した人物はイーザリーただ一人だけであったそうだ。

しかし、原爆投下の時点に戻って見れば、被害の方は広島、長崎を合わせても、多くて2〜3万人の被害と見積もられていたのだし、それだから日本政府も「原爆投下は天佑だ」などといったわけで、投下後何年も何十年も被害が及ぶなどとは思ってもいなかったわけである。新型爆弾の被害は、東京大空襲の五分の一ほどしかないと思われていた。広島原爆を投下したエノラゲイの機長ポール・ティベッツは、「なぜ原爆を投下したわけでもない爆撃機の機長がこれほどの罪悪感を持つのかが不思議でならない」と語ったそうだが、おそらく彼の罪悪感というものも戦後数年間のうちに徐々に肥大していったものなのだろう。連合国の軍人としては、例外的に奇妙な人物であったようだ。原爆を投下しなければ100万人の犠牲者が出たというのはオーバーな話だとしても、通常の戦いを行っていれば5万人は死んだかもしれないのだ。それが原爆のおかげでわずか10人足らずの犠牲で済んだ。そこから見ても謝罪などするいわれはないと考えるのが軍人の常識だとは思う。命令違反で、個人的判断で皇居めがけて爆弾を投下したという記録も、彼が情緒不安定な人物であったことを証拠づけるものといえる。それほど悩んでいるなら軍人などさっさとやめればよいのにやめはしなかったというのもおかしな話だ。ただし軍人であっても米海軍の連中は概ね原爆の使用には反対だったというし、原爆投下反対を訴える議員のほうが多いくらいだったうえに、トルーマン大統領自身がどちらかといえば反対だったようだが、マンハッタン計画を阻止するには権力がなさ過ぎた。つい10年か20年ほど前までは、トルーマンさえいなければ原爆など落ちはしなかったなどという出鱈目が世間を闊歩していた。気の毒な大統領である。戦後ずっと悪漢にされてきたに違いない。


2011年の正月に書いた『毒ガスの島はウサギの楽園』lという記事で、大久野島のことを述べたが、その島に学徒動員され、毒ガス兵器の扱いを命じられた学生も1000人ほどいたそうだ。すでに1973年の時点で旧日本軍の毒ガス製造は調査の結果疑いのないものとなっており、実際の毒ガス弾もいくつか発見されていたにもかかわらず、つい10年ほど前の段階でも「旧日本軍は毒ガスなど作っていなかった」という者がいたのには驚くばかりである。これも日本政府の隠蔽体質が国民自治に感染しているからなのであって、こうした旧弊はもはや現行政府を刷新するという手段では直しようがない。もはやクーデターによるしかないと思う次第である。

日本国内の毒出す断保有箇所は記録されているものだけでも18カ所あるそうで、爆弾形式のもののほかに、ビール瓶に詰められて封をしただけという簡単な構造のものが多く、工事人などが誤って毒素に触れるという恐れが相当にあるらしい。2003年の3月には神奈川県平塚市の建設現場で液体や結晶入りのガラス容器が発見され、においをかいだ作業員が頭痛などの症状を訴えたという。同年4月には茨城県神栖町で井戸水からくしゃみガス成分の有機ヒ素化合物が検出されている。また、戦後毒ガス爆弾が大量に琵琶湖に投棄された可能性があるそうで、もしヒ素の成分が漏れ出しでもすると、かなり厄介なことになるかと思う。日本国内で近年になって、おそらく容器の劣化から被害が続出していることを考えると、日本以上に大量に投棄しているはずの中国大陸の汚染は相当のものに上るだろうと思われる。しかも日本国内のそれのように厳重に密閉されたものではないであろう。

「疎開」という言葉にしても、最近大いに誤解されているような被害者を守るような意味の言葉ではなくて、単に防衛のために足手まといである子供は過疎地へ追い払うように国防省から通達されたもので、疎開のための費用もおおむね国民側の負担であったので、貧しいものは疎開できないものもいたし、疎開先が空襲の目的地であることがわかっていても、子供は当面邪魔であったので避難の対象とされるようなこともなかったらしい。そうした環境で育ってきたものが将来どのような荒んだ大人になるかは、現在の児童教育の立場からは想像されるのだが、当時の引率者や教員は存外人格者が多かったのか、当時の者たちが例えば団塊の世代の大人たちよりもむしろしっかりしているのはやや意外なことである。教育者は聖職であるという信念を持つものなどよりも、単なるサラリーマン教師のほうが高給取りとしては出世できるという戦後の社会政策により強い問題があったのかと思う。

「人間は公共性を持ち、他人と和するのが何よりの徳」だなどというバカげた教えをうのみにしているから、こういうバカなことになったのだ。他人の模倣ばかりしている習性の濃い遺伝子を持った者には子孫を残さないように努めることが必要だ。周りのものと容易に付和雷同するような人間は責任感もないであろうから、親の残した借金は子供が返済すべきだというようなことがわからない。祖先の行いは子孫代々償うべしなどということは当然脳裏にない。よからぬ遺伝子のせいだ。悪貨は良貨を駆逐するの類であろう。大衆がよからぬ遺伝子を持っていたがゆえに、軍事国家を生んだのであったが、いざそれが現実化すると途端に否定したのだから頭の悪い遺伝子が最大の原因だ。

国民のほうが無気力で何も言わないことを幸いに、戦後日本国は日本国民に何の謝罪も行ってこなかった。そういうことをしみじみと思わせる本であった。ただ戦時中は東日本の方が西日本よりも暮らし向きがややましだったのではないかと思ったところはある。まあ、人によりいろいろと体験の度合いがひどく異なっていたのは確からしい。いずれにせよ、上述したような「日本人の敵は日本軍」と日本政府といった視点で戦争というものを見てみるのもまた一考だ。こうした見方が現代人には大いにかけている。


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原爆の被害などよりも、空襲による被害のほうがずっと多かったのだということを再認識した。空襲については、爆撃の被害者数はおそらく記録に残るものの2倍、機銃掃射によるものはさらに多く3倍以上に上るかもしれない。

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