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zoom RSS 「赤紙と徴兵」を読む

<<   作成日時 : 2015/02/28 11:49   >>

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徴兵というのは、1872年以降大日本帝国が定めたシステムのことだ。当初は徴兵令といったが、1927年4月になって兵役法に改められた。しかし、国民感情からしての大きな変化は、1939年の兵役法改正で抽籤制度が廃止されたことではないかと思う。抽籤制度がある間は、仮に徴兵検査で甲種合格となっても、現役兵士として軍隊に採用されるとは限らないことになっていたらしいからである。建前としては、兵隊に採用される事は国民の名誉なのであって、一昔以前の近代ヨーロッパ世界では国民感情の面から見ても喜ばしいことだったかもしれない事であったが、日本においては明治政府の交付以来国民全般の間には不平の多いものであって、しばしば一揆の原因となったりもしていた。甲種合格でも、籤運が悪ければ採用されるといった程度ではなかったかとも思われる。くじ引きというのは徴兵検査に合格したもの自身が行うものであって、場所場所で異なっていたが、今でいう「赤玉黒玉」の宝くじ感覚ではなかったかと思う。そうした感覚だから、兵士の特権として「税金免除」というのはあったが、「税金払えばいいんだろ!」とばかりに、金銭を支払って徴兵拒否を行うものもかなりいたらしい。おまけに明治政府の方でも、国民の反乱を恐れて、既定の免除額に満たない額でも国民感情を受け入れざるを得ないという事由もあったらしい。抽籤制度というのはだいぶ好評であったらしく、兵役法が改正されたのちになっても、各地の市町村ではまだ多く採用されていたらしい。

1945年8月14日、日本政府がポツダム宣言の受諾をした直後に、陸軍の参謀本部総務課長と陸軍省高級副官から全陸軍部隊に機密書類の焼却命令が出されていたが、そんな命令には従わなかった町村役場や兵事係も数名は存在していたことがわかっている。そのうちの、年齢から考えて恐らく最後の兵事係と思われる人物の証言をまとめたもので、1904年、日露戦争勃発の年に滋賀県大郷村に生まれた西邑仁平(にしむらにへい)氏の残した機密文書を記したものである。

冒頭すぐ疑問に思ったのは、海軍はどうだったのだろうかということだが、本書には海軍は主に志願兵から構成されていたが、徴収人員が必要な場合は海軍大臣から陸軍大臣に通知され、徴兵事務は陸軍に依存していたとある。終戦間際になると、あまり能力のないものも無理やり採用されたらしく、終戦半年前に海軍に配属された親父の話によると、普通の者ならまだ陽の高いうちに終わるはずの訓練作業でさえ、夜の7時過ぎになってもまだ作業に追われているものが半分ほどもいたという。海軍なのに泳げないものさえ何人かいたそうだ。

徴兵検査というのは、身長・胸囲・体重の測定から、目・耳・鼻・咽喉・視力・聴力・関節運動など、今も通常に保健所などで行われているものに加えて、性病と痔の有無を調べる陰部と肛門の検査があった。よい方から、甲・乙・丙・丁・戊の5段階に分けられた。戊種というのは、現在具合が悪いので翌年再検査であって、実質は丁種が不合格の最低ランクだ。開戦以降半年ぐらいの期間の「大勝利疑いなし」のころは、召集される方でも甲種に合格して現役兵として軍隊に採用されることをうれしく感じるものも多かったようだし、そういう時は各家庭でもテレビでおなじみの出征祝いなどは必ずしも行うとは限らなかったらしい。太平洋戦争勃発の方を耳にした当時の投資家連中は、『日本がアメリカに勝てるわけがない。一週間もすれば降参するに違いない』と空売りに空売りを重ねたので、大部分すっかり破産したらしい。

さて日本軍の規律はよかったなどといまだに信じ込んでいるもの達もいるようだが、中国に終戦まで3年間現役兵士として参加していたという男性の話によると、現地調達などと言っても、結局はただの略奪のことで、軍隊が進行してくると、たいてい十人は逃げるので、空き巣に入って食料をあさり、煮炊きには壁板や土間の板をはがして使い、それで家が全焼したというケースも多かったということが書かれている。逃げ遅れたものは拘束して荷物運びに使用し、逃亡するものは射殺したというから、ドイツ兵たちよりひどい。婦女子はたいてい強姦されたという。これも、日本軍は規律正しかったので強姦は少なかったという噂とはだいぶ矛盾している。強姦を好むような兵士は感情的なので多くは戦死してしまい、生存者には律儀なものが多く残っていたことからくる誤解だろう。なお、規則では陸軍の現役は2年までとなっていたらしいが、とくに守られなかったようだ。

本書には滋賀県大郷村で徴兵され、1932(昭和7)年に上海事変調停のために広島県呉港から出立した日本軍部隊の戦線の様子なども書かれているが、日本軍がそれほど眼鏡というほどでもなかったということが述べられている。中国軍との戦いで混乱して同士討ちまで多く生じたことなどが書かれている。

またまた意外だったことは、1937年の南京大虐殺を目撃したという日本人兵士の証言があったことだ。目撃したのは、5000人強の老若男女の一般市民の虐殺だという。ちらほら耳にするのは、中国の便衣兵は一般市民と紛らわしかったというものだが、老人や子供を兵隊と呼べるはずもないから、こんなへ理屈が通用するとも思えない。それに、前にも述べたが、そもそも中国兵士は自国内の防衛のために戦っていたので、国際規約を守らねばならないのは、侵略側の日本軍だけである。この日本兵は、瀬戸内海から朝鮮の釜山駅を北向して中国へ出兵したということであるが、途中朝鮮の女学生から、懸命に日の丸の小旗を振りながら、「兵隊さん、頑張ってください」と叫ばれたそうである。昔、ケ小平だか毛沢東だかが、「われわれも日本に侵略されて閉口していたことは同じだ」と韓国に言われた時に、「あんた等とは違う!」とまゆをひそめたという話を思い出した。どうも韓国や北朝鮮の戦争史観には史実とは相当の乖離があるようである。まあ、大衆とはどこの国でも根無し草のような挙動を繰り返すものなのだろう。

それから、戦時中一般には知らされず、平時関係者以外には極秘にされていたものとして、召集猶予者(戦時召集延期者)の制度というものがあるそうである。意外と多く、アジア・太平洋戦争の始まる以前は10万人以下だったものが、昭和18年になると38万人、19年には70万人、20年には85万人の概数を数えたという。

全体を通して、以前読んだ『湖国に模擬原爆が落ちた日』のような興味深さはあまり感じられなかったのは、この本が厳密な資料に基づいた史実だけを述べているからなのだろうと思った。先に挙げた本は、当時の人々の記憶に基づいた証言が中心だから、半分は都合よく捻じ曲げられたフィクションである。現代人が見て、『嘘だろう?』などと思うに違いないところは、証言の当人自身も気がつかないうちに現代風に記憶がアレンジされてしまっている。その分面白いのだ。『記憶はウソをつく』という本のことを思い出す。人々の心理というものは虚偽の方へ惹かれることになっている。真実は往々にして無味乾燥であり、特にこれといった理由もなくランダムに揺れ動いているだけという場合がほとんどだ。

太平洋戦争の開戦についても、よく聞かれるのは「アメリカと戦って勝てると思っていたのか」という声だ。しかし、仮にこちらが3倍強くても、物量で負けるのは誰が見ても明らかである。だから、日本軍はせいぜい半年分か、用心深くても一年分の物資しか集めていない状態で開戦した。その間湯水のように弾丸を敵に浴びせれば、いい加減いい条件で講和条約を結ぶだろうと考えていたはずである。半年たっても敵が降伏してこない状態では、もう敗色濃厚であった。甲種合格者以外のものを招集するようになっては、濃厚どころか完全に負けが決定していた。ドイツにしてもそれは言えると思うが、日本と比べれば随分と現地での物資調達が上手くいっていたようである。

多分世界中で広く普及している通念というものは、いずれをとってみても、ひどい誤謬だらけのようだ。



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105歳、最後の兵事係の証言から 吉田敏浩 彩流社発行年月:2011年08月 ページ数:318p サ


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