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zoom RSS 『人生に生きる価値はない』

<<   作成日時 : 2015/03/15 17:05   >>

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表題と同じ面白そうなエッセイ集があったので、試しに注文してみた。もっともこの表題は編集者が勝手にこしらえて面白がっていたらしいが、それを見聞した筆者自身もたいそう気に入ったらしい。ビッグバン命名のエピソードと似たようなところがある。このエッセイ集によって大いに啓発されたのは、時間の間隔という辞書的な言葉などというものは他人の考えた客観的なことであるということだ。すなわち、時間や空間といった概念は言葉という客観的な外部からの流入によって組み立てられてきたものだ。ラカンの洞察に、言葉を語るとは他者の欲望を語ることであるというものがあるそうだ。つまり、何事をも他者の観点から語っているということであり、言葉による思想には真の自主性はないともいえる。思考作用が言葉というものを媒介して組み立てられている間は常にそうである(*)。言葉を必要としない思考の核というものを考えてみた場合、主観作用の構築にははたして時間の経過というものが必要なのかはわからないのである。そこは心の動きというものは存在するにしろ、時の流れというものがあるかどうかはわからない。もっと突き詰めていくと、運動といったものがあるから時の概念が我々の思考の中で生まれただけなのか、それともビッグバン宇宙開闢学者が信奉しているようにかつて時間というものが存在していたのかは知る由もない。ただどのように考えてみても、運動自体は明白に存在している。

(*)回復の見込みのないほどに進行した重度の痴呆であっても、言葉遣いだけは非常に文法的に正しく、しかも流暢でよどみのないものであるという例はいくらでもあるらしい。それだから家のものは親が痴呆だとは全く気がつかない例が多いそうだ。徘徊して警察に補導されて初めてそれを知るというケースが増えているという。多分思考なしでも会話は十分に可能なのだ。

時折「人生に意味はない」などという人がいて、ちょっと考える限りでは単なる事実を述べただけだという気もするのだが、「意味」という言葉の由来を考えてみると、日本語としておかしな感じになる。「意味」とは「思い考えることによって生じる味わい」のことに違いないなどと考えると、確かに無意味だと考えているのだが、それについて考えをめぐらしていること自体が「意味」だからである。そうすると『人生は無意味だ』という表現からは意味が生じるので、無意味だと思っている人は意味のある人生を送っていることになる。その辺の紛らわしさを取り除く表現としては、冒頭の表現のほうがより勝っている。

上にビッグバンを引き合いに出したのも、「人生に意義ありや」という問題は「宇宙開闢に意味があるのか」というそれに結局帰結するだろうからである。後者の場合には、開闢したことに意味があるのかを意識するのは現時点であって、150億年も昔の宇宙幼年期が意識した場合とはもちろん異なる。開闢した結果、ずっとのちに誕生した知的生命の意識の中で空想した開闢であるにすぎない。だから開闢というのは単なる幻想であるのかもしれないのだが、ともかく人間の理解では宇宙が開けたことで人間の意識が誕生したとするのが精いっぱいだ。

このエッセイ集によりはっきりとわかったのは、常識の誤謬というやつだ。昔、秋山真之だったか、誰だったかよく覚えていないが、たばこを銜えて火をつけようとした時、配下がさっと手を差し出して火をつけようとした。その時、真之がは「お前のようなやつがいるから日本はだめになるのだ」といったそうである。こうしたおべっかで喜ぶのは相手が小物だからだ。大物にはおべっかは通じない。かえって不愉快なもので、欠点をつかれたり悪口を言われたりするとひどく耳触りが良いということだ。世間の常識では「バカと言ってはいけない」などというばかばかしいものがあるが、これも相手が小物である場合だ。ひところ、「先にバカといったほうがばかだ」などという概念が流行した時があったが、大学教授をはじめとした知識人たちが頻繁に口にするのを見て「自分たちの教わったことが間違っているのでは?」という疑念を抱いたものもちらほらしだしたようなのが30年ほど前になるのだが、頭が鈍く観察力に乏しいものはいまだに気づいていない。その昔、「いつまでも白目の部分が青みを帯びていたらおかしいだろ!」と、わけのわからない常識論を説いて得意になっている間抜けがいたもので、果たしてこんなものが毎日勤勉に働いていてよいものなのだろうかと、プラトン流に考え込んだものである。


このエッセイ集で多分改めて知ったのだが、三島由紀夫によれば、女性は一般的に色恋と自分の幸せしか視野にない愚か者の代名詞であったそうである。まあ、こういうのを差別的とか何とかいうのだろうが、それは大衆というものが男女ともに愚か者で満ち満ちているだけであって、そうした中で男性が女性の1000倍程度賢明なものにあふれていたとしても、総数には影響がないわけなのである。男性であればたぶん真理を実生活よりも事大に見るものが100人に1人はいるだろうが、女性でそうしたものは10万人に1人しかいそうにない。結局統計的には愚か者が99%いるのと99.999%いる社会となるから、両者に表面的な違いはない。ただショーペンハウアーなどは、この1千分の1の確率をもって女嫌いの正当な理由としていた気配がある。彼は哲学者には珍しく感情丸出しで、短足で醜い女性という種族をののしっている。財産は今の金額にして何億円か所有していたらしいが(*)、安アパートに暮らし、隣の部屋の夫人と口論して足を蹴飛ばして訴えられ、高額の慰謝料を支払う羽目になったという。そのことがあって以来、愛犬とともに一軒家を構えることにしたようだ。ひょっとしたら幽霊が怖くて一人ではなかなか住めなかったのだとも考えられる。
(*)相続遺産というものなど特にないとした場合でも、哲学者というものは清貧を好むのが常であるから金は貯まるのが普通だろう。哲学者であれ思想家であれ、貧乏であったなら即軽蔑に値する。彼は恐ろしく無能な狂気の愚物であるに違いない。
筆者の中島義道氏の学生連中もやはりバカばっかりで、これは「バカの壁」の養老孟司のいいと同様だ。ネットで検索する限りではそれほどバカというのも見当たらないが、たまさかに興味本位であちこちのブログを逍遥したりすると、なんと真正のスノッブばかりだから、世の中どうやらバカばっかりというのは間違いなさそうだ。最初の方のどこかに、生活水準を今の半分程度に抑えれば、つまり国民一人一人が適当に我慢しさえすれば、環境問題も何もかもたちどころに解消するだろうというのがあったが、バブルのころの2倍も電力を消費して、この先なおも贅沢三昧に暮らそうという料簡を持つ連中というのは全く持ってバカに違いない。生産活動に従事しなくても富は築けるというものが少しばかり増えたために、経済が低迷しているかのような錯覚に陥ってはいるが、相変わらず日本の国富は膨れ上がっている。大衆にはそれがわからない。中島氏の考えも私と同様、バカのかしらである日本国家には消滅してもらいたいというものらしい。聖徳太子以来「和」を重んじる狂気の伝統が連綿と続いてきたために、この国はいよいよおかしくなってきた。「和」の精神が「勤勉」に置き換わってからはますます加速的におかしくなってきた。だから責任を取ってもらわなければならない。未来の社会で大衆が安穏とのどかに暮らすにはぜひとも国家の消滅が急務なのだ。愚物には愚物にふさわしい生き方というものがある。愚かな大衆をコンクリートジャングルなどに置いておくから、彼らは必ず病気になるのである。

特に同調したのが『人間嫌い』という章で書かれている「常識という暴力」についてである。丸きりの赤の他人であればまだしも、日常顔を突き合わせているものに対して一方的に決まりきった価値尺度を押し付けるのは、まさに思いやりの欠如というものである。こうした行為を国家レベルで平然と行っている大間抜けも往々にして存在する。バカの協調性とはこのことだ。だらだらと金魚の糞のような追従を防ぐために、おそらく何より大切なことは、言葉によって相手を痛めつける訓練をすることであるようだ。それで昔のギリシャには修辞学というものがあって、ソクラテスを罵倒したものは大概あべこべに自害することになった。筆者は「コミュニケーションスキルに関する考察」というのをまとめているが、その中でもとりわけ難しいのが「無理にでも自分が正しくないと思ってみる能力」だという結果を得たそうだ。学生を相手にした結果だ。学生の多くにはまだ主体性が残っている。これが社会人になると、「自分」が「自分たち」に置き換わる。弱者というものは徒党を組むものだ。それで「狼に率いられた羊の群れは、羊に率いられた狼の群れより強い」という格言が生まれる。羊は命名の頭というものがない。せいぜいめいめいなくだけである。それで棟梁から命じられたおきてが唯一正しいものと信じ切って行動するのだ。国というものが決めたルール規約が唯一絶対のものと頭から決めつけてかかる能無しの大衆というものもすなわち羊である。冒頭に、「無礼な社会的礼儀を押し付ける朴念仁に丁寧なメールを送り付けるが、予期していた通り返事はなかった」というくだりがあるが、こういう所などは私もよく経験するところである。思うに、手紙やメールの返答が書けない人間というのは自分自身の意見に自信がないからではないだろうか。いわゆる覇気のない人物なのだろう。自分自身の意見は持っていないが、だれかを相手にしていないと不安で仕方がないので、用もないのに人に近づいてくるのかもしれない。メールの返答が速やかに書ける人というのは信頼できる人物だという風に私自身は考えている。


中島氏も、独我論的思考の持ち主であるようだ。永井氏などもそうであった。してみると、人間自己流に考えれば行きつくところは大体似てくるのであろうか。ロボットみたいなやつらが全体社会に迎合するのだろう。社会的に生きるとは、大いなる人類の恥だ。




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