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zoom RSS 過去と未来とはどう違うか

<<   作成日時 : 2015/05/23 11:40   >>

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似たようなことを以前からぐるぐる考えてはいるが、これといった名案が思いつくわけでもない。

過去とは過ぎ去ったことであって、未来とはこれから起こることだ。それらは時の流れということと密接に関係している。どちらも頭の中の思考の産物であって存在しないものなのだが、それでは現在は存在しているかというと、時の経過のない状態では物質は存在できないようである。そうすると、やはり現在もないというべきなのだろうか。

大森荘蔵の『時は流れず』の最初の方に「非時間的な固定的世界列車が時間レールの上を走るという安直な比喩は、毒性の強い麻薬中毒だ」ということが書かれている。普段はそのように考えた方が便利だし、そうした概念により世界は動いてきた。だから別段大変な誤謬などとは思わない。そのような概念、時間と経過の中を世界列車が通り過ぎてゆくというイメージは、人類が農耕生活のための集住を始める以前にすでに出来上がっていたものであろう。

私は、過去世界が実在しているなどと考えるような人を恐ろしい間抜けであると信ずるが、タイムマシンで過去世界に戻れるなどと考えているものはどうやら子供だけではなく成人にも少なからず存在しているような感じである。どう考えても、われわれは一個一個く新たな社会へと飛び回っているのではなくて、ただ静止しているこの一つの世界だけが時々刻々変化しているのみであるとしか考えられない。すなわち過去の世界など全くないのだ。つまりそれは未来と同じである。ビッグバンなど、完全物語に過ぎないのだろう。

だから、過去は変えられないというものがいるが、想念さえ変えれば任意に過去は変えられるというのが本当のところなのだ。ちょうど未来は変えられるという人がいるのと同じだ。過去と未来は全く対照的で等しいものなのかもしれない。ただ人間の記憶というものが常に過去を想起するという仕組みになっているだけだ。未来予想しかできないのが人の性だとしたら、立場は一転するだろう。人々は今現在触れている諸事物に対する記憶を持たないので、それらが突如わいてきたものなのか、昔からあるものかということがわからない。実際に、ただのアイドリングだとも考えられるものの、近い将来を予想しているかのような動きをしている脳細胞の一群もあるようなことも言われている。思うのだが、例えば信号機は赤くなった後で止まるようなことがいわれているが、別段赤くなることを予期して止まってもいいわけである。拳闘技などでは反応していては間に合わないから、終始予測らしい。予知能力の高いものがチャンピオンなのだろう。こうした能力は本来各種動物に備わっているものであるはずだと思うのだ。

 
『告白』の中でアウグスティヌスは、今は存在しない、瞬間は存在しないからだ、と述べているそうである。もしも「今」に長さがあるとすれば、その今は未来と過去を含む。世ってその時の今は前の今よりもさらに短くなるからである。という論理を展開しているが、要するに数学的な「点」を求める作業と同じものだ。時点というのはゼロだから存在しないという理屈である。アキレスが亀に追いつく点は存在しないから、彼は亀を追い越せないといっている間抜けと同じで、現実に時は流れるし、いつでも亀を追い抜くことができるのだから、屁理屈としか言いようがない。

前にも書いたことだが、ゼノンはギリシャ思想家連中の共通している通念がいかに愚かしいことであるかを暴露する目的で、あの有名なゼノンのパラドックスを発表したのだろう。要するの『ものが変化しないなどという概念は人間の妄想だ』と主張したのだ。それを真逆の意味にとり、如何にもゼノンの本意だと受け取るのが現代の象徴なのであるから、人々がどれほど錯乱しているかがよくわかる。プラトンなどにもいえることだが、「真にあるものは不変であり、現実の世界はまやかしだ」。少なくともそうした思想を持っていたのが当時の正当な考え方である。ゼノンはそれを主張しただけであって、別段彼が現実世界の運動を否定したわけでも何でもない。

思うに、いつごろからか知らないが、こうした世迷いごとは、人間が時間と空間というものを分別するようになってから生まれたものなのだろう。空間にべったり張り付いた静止した世界を想像した時、そこに時間を止める必要性が生まれた。そうした概念の生まれないうちは世迷いごとなど生じる余地はなかったのである。遠い昔の人類が洞窟や岩に壁画を描いたことがすなわち世迷いごとの始まりだったのかもしれない。それは動物の運動を記述する抽象的で非現実的な創作だった。火の発明などよりもずっと後のことだ。ネアンデルタール人でも火は起こせただろうが、絵画を描くためにはその後何十万年もの間サピエンスの登場を待たなければならなかっただろう。絵画とは空間の固定技術のことだ。空間を固定するためには現実世界からまず時間を奪い取らなくてはならない。そんな器用なことはネアンデルタール人たちには無理だったろう。実際最古の竈は40万年ほど前の住居址から発見されているらしいが、絵画の発見はどんなに古くてもせいぜい数万年前までである。以前は自然の山火事を火種にしていたと考えられていたが、最近はどうも100万年近く以前にはすでに発火法を見出していたとする説が有力らしい。天然の火の運動は模倣が容易だが、運動から3次元的な物体の断片像を抽出するためには、高度な分析処理能力が要求される。我々の錯視はそれが生得的に行われていることを示している。我々には正しい物体の姿は認識できないのだ。科学的な分析法で、自然界の上中下は確定されているような心持になるかもしれないが、こんな分析法が最初から世界は3次元だという仮定を用いたものだということをつい忘れがちなだけであるにすぎない。実際地球は等速直線運動を続けていて、太陽からもそのほかの天体からも一切の力は受けていないとするのが相対論の立場なのだが、地球がまっすぐ進んでいるといっても、やはり太陽の周りをまわっている。まっすぐだといっても、曲がっていないわけではない。

人間や恐らく猿や猫といった動物は鏡を見て自分の顔が左右逆だということを認識するらしいが、あれは顔に奥行きがある動物であるとそういう錯覚は生じないだろうという話である。奥行きのある生物が見れば、鏡に映った自分の顔は全く別の生物にしか見えないらしい。事実まったく別の生物の姿であって、正体がわかれば鏡を見て我が姿だなどと思う方が奇異だ。平たい顔だと別世界が同じ世界のように見えてしまう。犬と猫とでは、わずかに犬のほうが知能は上回るはずなのに、鏡を見て我が姿だとする犬はまず存在しない。猫の方は一瞬で自分だと思うだろうが、元来彼らには吾輩の観念が希薄なところが人と異なる。

時間というレールを進む世界列車のイメージができたというのも、静止しているものは運動はしていないだろうという思い込みから生じてきたものに違いない。『この家やこの庭は動いていないから、未来へ進むためには時の流れが必要だ』といった考えもここから生じる。ところが実際は止まっているように見えるものも変化してやむことはない。変化するためには時間は必要ではない。無生物が変化するためには時間の流れというものが必要であると考えているグループもあまた存在しているのだと思う。彼らにとっては生きてゆくことは時が流れることと同義なのだろう。

例えば地球儀などというものがこの典型だ。こんな世界が今この瞬間に存在しているなどということが現実にありうるだろうか。我々が実際に知りうるのは、かなりの時間間隔をへたのちの物質の変化だけだ。各人各人の位置関係により、ごくわずかずつ異なる変化なのであるが、われわれは便宜上『静止した地球世界』は一意に決定して存在できるものとしている。そうしてそうしたものの数々を、地球科学とか宇宙科学といった言葉で呼び習わしている。そうしたものはゲームの仮想世界と大差ないどころか、実際のところ全く区別はつかないはずのものであるのだが、多くの者は自分の歩いている世界こそが存在していると思い込んでいるようである。

そんなバカげた3次元世界というのはない。世界というのはただ4次元時空の中の存在だ。アインシュタインはただ当たり前のことを主張したにすぎないのであって、それを奇妙だと感じる我々の社会の通念こそがひどくゆがめられたものなのだ。さらに突き詰めれば、時空という表現自体もおそらくはゆがんだものなのであって、真相は時間も空間も等しいものなのだろう。10次元ひも理論だかM理論だか知らないが、空間座標だけ細分して時間軸は1次元として残すなどという身勝手な理屈が通るとは思えない。それは人間の思い込みで、かつてのギリシャ人たちのイデー論を論駁したかに見えるゼノンの逆理を再現させることになるだけであろう。

われわれの感覚がいかに現実をゆがめて認識しているかということは、錯視という現象一つをとってみてもよくわかるだろう。これらの錯覚といった炎症は、自我の妄想などよりもずっと古くから人類に憑依しているものだ。自我の妄想といったものは、ヴィトゲンシュタインのところでも述べたと思うが、それほど根深く人類に巣食っているわけではない。集住生活を営む慣習を持たない狩猟民族では、身近な者達を自分自身であると認識しているようだからである。自己の外側の者達も自己であると認識できたところで、精神の高みに達したなどと得意になってはいけないということをその箇所では強調した。先ほど挙げた大森氏にしても、自意識の毒性の強さについて言及している箇所がある。「意識という意味は自分で裁縫した自閉的拘束服ではあるまいか」というのである。ほどほどのつもりでいないと滅びに至る道ともつながっているからせいぜい気を付けなければいけないものなのだろう。


こんなことを取り留めもなく考えてゆくにつけても、社会が当然として受け入れている義務教育制度というものがいかに歪んでいるかを思う。子供のころは学校の教師というものは一応の智慧を持った君子だと思っていたが、今思うと彼らは全くの犬に過ぎなかった。大間違いの観念を嫌というほど叩き込んでいる張本人である。いまだにロボット人間を大量生産している破廉恥な奴らだ。つまるところ集団迎合的人間というのはただ社会維持のためにのみ存在しているのである。



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