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zoom RSS 『紫電改入門』をよんで。

<<   作成日時 : 2015/06/14 10:04   >>

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筆者の碇義郎(いかりよしろう)氏が30年ほど前からせっせと書き続けた戦闘機の中で一番人気のあるのが『紫電改』だったという。零戦で有名な中島飛行機ではなく、大型飛行艇や水上偵察機専門の川西航空機が製作した。戦闘機設計は初めてだったという。細かな重量削減にこだわって機体のあちこちを削る零戦の製作工程は時間の無駄であるといって、彼らは零戦の重量削減孔のことを「バカ孔」と呼んでいた。「バカ孔はバカのやること」が川西航空機設計陣の標語だった。零戦では、軽量思想が行き過ぎて、強度不足から試作段階で2名も空中分解で失っていたからかもしれない。零戦といえば今でこそ名機ということになっている。仮に飛行中エンジンが停止したとしても、滑空で着陸できる航空機というのはあまりないことは確かなようだ(*)。その他の飛行能力も乗り心地も抜群だったというが、当時の技術者の一部からはあまり評価されていなかったのではなかったかと思わせる一面である。第一ゼロ戦の設計者の堀越氏にしても「私が設計した中で一番いい飛行機」は「雷電」だといっているそうだ。
(*)空を飛ぶには慣れがいるようだ。ベテランパイロットが何事もなく着陸できるような場面でも、いざ着陸してみたら片方の車輪が十分に出ていなかったりしていたらしい。かなり驚いたのが、上空で単発機のプロペラが破損して脱落するような事故はたびたび起こったらしく、その際テストパイロットが無事滑空着陸していたということを筆者が記していることだ。機種を問わずグライダーのように滑空着陸できるものだということは初めて聞いた。飛行機というのはもっと簡単に落ちるものだとばかり思っていた。大気圧の力というものは想像以上のようだ。

こうして川西航空機は初めて戦闘機を設計したが、結果として戦時中日本が製作した戦闘機の中の多分一番名機といわれるほどの出来栄えだったらしい。水上戦闘機の「強風」をモデルにして製作された。戦闘機をモデルに設計された水上機はあまた存在するが、水上機をモデルに作られたものはただの一つしか例がないそうである。

驚いたのは、強風の最大速度だ。高度4000メートルで時速492キロメートルもある。ウィキには何と最高時速574キロとある。水上飛行機だから胴体と翼の下に大きなフロートをつけている。プロペラ機でこれだけ速度を出すことなど、現在の技術では不可能なのではないか。戦後長い間ジェットでごり押しだったから、流体力学の方は戦前と比べて進んでいないどころか、忘れ去られてきた分だけ今のほうが後ろに位置しているのではあるまいかという気さえする。紫電改の話とは違うが、よくわからないのが、戦争末期に設計された震電という戦闘機だ。二宮忠八が1890年代に考案した模型飛行機みたいにプロペラが後ろについている。先祖返りといった感じの飛行機だ。飛行機のプロペラは前方に配置しなければ弊害が多いはずなのに、後方にプロペラがついている。それで最高時速750キロを出す予定だったという。重心の関係でまずそんなのは現在作れそうにない。機首を重くしなければすぐ失速する。だから主翼はできるだけ後方に配置しなければならない。すぐ上向きにひっくりかえるから、上昇速度は鈍いのしか作れそうにない。

*プロペラ機の最高速度は、ソ連時代に作られたツポレフ95戦略爆撃機の時速950キロだそうである。それ以上になると、プロペラの先端の速度が音速を超えてしまうのでだめだという。強風と同じく、2重反転プロペラを使用している。

本章で新たに知ったことは「自動空戦フラップ」を第2次大戦中に使っていたのは日本の戦闘機だけであったということだ。中島飛行機の糸川英夫技師が考案したもので、このため、日本の戦闘機は空戦の最中でも落下することはなかった。空中戦なしで、ただの宙返りなどであるだけなら操縦技術でカバーできるが、空中戦になると、自動操縦以外の操作を行うのは至難の業で、連合軍の戦闘機は落ちるに任せていたそうであるから、日本軍が背後に回るのは容易だったという。どうも海外のパイロットは格闘戦を好まなかったのでそういうことは考えなかったという感じだ。しかし、もしかしたらソ連の戦闘機にもそういうものはあったかもしれない。何しろ体当たり攻撃がむやみとうまかったらしい。体当たりなど行ったら、そのまま墜落してしまいそうなものだが、攻撃後無事に帰還着陸した例も多いそうである。終戦間近、ドイツ軍もこれを行ったそうだが、こちらは大失敗だったという。

川西航空機のモットーは出来るだけ構造を簡単にして部品の数を減らすことだった。紫電では6万6千点もあった部品が、紫電改になると4万3千点ほどしかないという。基準がよくわからないが、非常にに少ない数だとおもう。例えば現在のエアバスなどだと300万点はあるという。普通の自家用車で2万から3万だそうである。

こうして完成した紫電改は、背面急降下テストで、時速800キロメートルの日本最高速度にも十分耐えることができたそうである。紫電に頻発していた足の引き込み誤作動による死亡事故はなくなったが、正体不明の空中分解というのが偶に起こった。戦後になって、時折機体の一部で音速を超えてしまうための衝撃波が出ていたということが判明したそうで、それだけ動作が機敏であったということを示している。訓練中にこのような事故で殉職するものも多かったようだが、当時の世相は意外とこのような事故死者を「犬死」とはみなしていなかったらしい。かのロンメル将軍にも「訓練死のない訓練など訓練ではない」という言葉がある。大衆など、いかにも雰囲気で動く生き物である。

時勢がこのような荒れた雰囲気であると、「事実は小説より奇なり」ということがよく起こる。推測とか憶測などではなくて、人間の心理上どうしてもそうなってくるのだ。今のような平和な時代であると、思い切って危ない橋を渡ろう、冒険しようなどというものはきわめて少なくなる。だからたいてい当たり前のことしか起こらない。戦時中であれば、7が7回並ぶような偶然はかなりたびたび起こっただろう。ところが今では、株式相場のように生命の安全が保障されている場においてさえ、7回続けて株価がわずか3割程度上昇したというものさえめったに表れない。単に確率の問題ならばそうしたものも毎月何人か輩出していなければおかしいだろう。そうしてみてゆくと、昨今「世の中は便利になりはしたが…」などという無条件の接頭辞にしても、大分怪しいものだ。あれも一種の洗脳策か、洗脳という言葉が嫌なら思い込みバイアスなどともいうらしい。要するにこんなことを何のわだかまりもなく口にできる人間というのは、元来観察眼に乏しいか、言葉の意味も考えずにただ暇つぶしに会話しているだけの空疎な連中なのだろう。


戦後になって、進駐軍のジープの運転をマッカーサーがやっているのを見て『アメリカでは一番偉い奴が自分で運転するのか』といった話が載っていた。鬼畜米英などという言葉は戦後になって流行りだしたのだろうと思ったくだりである。そういえば、外来語が禁止されていたにしては、終戦当時の世相を語る老人は「皆‘ゼロ戦’といって‘れい戦’などとは言わなかった」と言っていた。「ゼロ」なんていう言葉はもう完全日本語だろう。第一「れいせん」では「ご霊前」みたいで気持ち悪い。

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