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zoom RSS 『努力不要論』という本があった。

<<   作成日時 : 2015/09/05 08:19   >>

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題名が面白いので注文してみた。たぶん題名からして大方の人間には理解できないだろう。大体、努力とは何かということも知らないのが愚物の愚物たるゆえんだ。うまい説明がつけられるのなら努力してもかまわないが、理由がわからないのに努力などするやつは天下の馬鹿である。大体いまどきサラリーマンなんかやってるやつらというのは、気違いにしか見えない。

努力とは何かということになると、私は天井を見てボーッとしているのも努力だと考えるほうである。まあ、そういうのも人生の試練であって訓練の一種だ。眠っているときと比べたらかなりハードであることは間違いない。人類が戦闘を始めたのも、ボーッとしているくらいなら戦争で死んだほうがましだと考えたからなのだろう。これはパスカルもいっていることらしいが、人生の最大の不幸は閑暇の状態に身を置くことである。バートランド・ラッセルなどは「自分で考えるくらいなら、戦争をしたほうがましだ」と多くのものが期待したので戦争が始まったとしている。無思考を嗜好するものたちへの怒りが垣間見られる。


それで届いたものを見ると、努力しても半分以上は確実に失敗するというようなことが書かれている。まあ、貯蓄残高を例にとって、一応5千万円くらいの金融資産を保持できればまず合格とすると、6人のうち5人くらいは失敗してもらわなければ、残った1人は金持ちにはにはなれないということになる。何をやっても失敗する人のほうが多いのに努力をするのはそいつが馬鹿で野蛮だからである。よって「努力する人間は野蛮だ」ということに、本書ではなっている。野蛮であるとは、要するに役に立つことであるとか、金儲けにつながることだそうで、これは私と同じ考えである。といっても、まったく同じであっては面白くないから、細かいところはどうせ違うはずである。将棋の増田幸三氏なども昔同じようなことを言っていた。「無駄が文明だ」とあちこちで後援して回っていたそうだ。頭の回りなども、速ければよいというのでもなく、コンピュータと同じでIQの高すぎるのはよく他人に利用されたり、金儲けの道具として扱われる。だからベーコンなども、裁判官にふさわしいのは鋭い人物ではなく、むしろ鈍重な人間だと述べている。

東大に入る学生なんていうのも、何もIQが特別高いわけでもなく、平均すると125ほどしかないようなことをテレビでやっていた。頭の回転が東大に入る必須用件だとすると、170だとか180なければ入れないはずなのだが、そんな頭は関係なさそうだ。でも110くらいで東大に入ってしまったら、授業についていけないのではなかろうか。いわゆる「バカの壁」などということにしても、元来メモリーに余裕のない奴は人の話など聴こうとしないところから起こるものだと思う。逆に言えば、160以上の頭の人間はほとんど東大には入らないで、SM的性格のもの以外は、我慢してサラリーマンをやっているとも思えないから、たぶん水商売のようなことをやっているのかもしれない。大体100を平均として160ちょっと上あたりまでは左右対称のきれいな釣鐘上の曲線分布を描くそうである。なにあともあれ、有名大学に進学することと頭の回転との間にはさしたる相関関係もなさそうである。こういうのが学歴社会の弊害なのだろう。メモリー不足なのに、東大に合格してしまって「ラッキー!」と喜んでいるバカな親子のあまた存在する世の中のことだ。そんなのはぜんぜんラッキーではなくて、悲劇の始まりに過ぎない。

筆者の中野氏は、知能というのは大体へ金してそれぞれの要素がお互いに絡み合っているから、ある得意分野の才能だけが突出しているようなことは極めて少ないとしているが、きわめて右脳的、きわめて左脳的という傾向は大概の人にあるのではなかろうか。大脳半球が明白に2つに分かれているのであるから、意識も2つあるはずで、それらどちらかの意識を優先して人は使っているものと思う。どちらの意識を使うかによって、大脳局部の使用頻度というものがことなって来るはずである。意識の反対側にある大脳機能を使って情報を受け渡しするのは面倒なので、めったに使用しないし、また使用を無意識から拒否される場合もあると思う。

私が学生のころから3回も読み直したのが、アーサー・クラークの『都市と星』というSF小説だ。中央コンピューターの管理下に何十億年も存続を続ける都市の話だ。そのために必要としたのが1000人に1人ほどの割合で生まれる『文明の破壊者』であった。クラークが秩序の維持のために、秩序の破壊者を想定したというのが面白い。わずかな不純物のために全体の健全化がよりいっそう増加する。こういう動きこそ知性の象徴のように思われる。高尚で繊細な機能には総じてあそびが必要だ。ホイジンガだとかカイヨワだとか言った人がずっと昔に分析したものがある。これについては「遊びと仕事、大事なのはどっちだ」という項で述べた。2008年の2月だから、もう7年半もたっている。岡潔の言葉を信じれば、戦後日本人が腑抜けになって以降、日本にもようやく余暇の意味を理解しようという人が復活し始めてきたようである。尤も昔から異色の人は多いので、偶々発見しただけともいえるが。戦時中に日本は軍事色一食だったかというと、どうも今よりも社会主義者、共産主義者の数が多く、結束力も強かったらしいということを思い出した。戦後、政府は社会を平穏化しようとうそばかりついてきたようである。国民にしてもその方がよかった。真相を知るより死んだほうがましだと考え、行動するような人は百人に一人くらいのものだったろう。頭の悪い人はそんな人はいなかっただろうというはずだが、統計的には脳に障害をわずらったほどの狂人の数だけでも全人口の1〜2%は存在しているそうである。まあ、もともと東洋には古くから無用の用といった考え方がある。無とか空といったものが主役である世界だ。書道などはその典型だろう。余白にこそ隠された美というものがある。



なんだかよくわからないが、努力することで快感を得るようなタイプの人間は、倫理的に悪事を働く傾向が高いという研究報告があるという。ランナーズハイみたいなものだろうか。あれも体細胞への思いやりが不可避とならできないだろう。自分の体は自分のものだなどというひねくれた妄想がいけない。そういうやつは他人も粗末に扱うものだ。典型的なものとして脳裏に浮かぶのはキリスト教のことだ。今となっては、どうしてあれほど声高に他民族の抹殺を叫び続けてきた宗教が公認されるような恐ろしいことになったのか、一見想像もできないが、有史時代を通じて、つい最近まで国家の形成とは他民族の制圧にあったことを考えれば頷けることだ。絶対王政であれ、共産社会であれ、常に皆殺しの憂き目を見るのは頂点に立つ王侯貴族たちであった。まあ、それを何とか正当化するにはこうしたテクニックが入用だったわけなのだが、いまだに生き残って英雄視されているのが気に入らないといえば気に入らないところだ。勘違いの核疑惑で、数十万人のイラク兵の命を奪って、まったく罰せられることのない人もいる現代社会とはなんぞやと思う人も多かろうと思う。リビアのカダフィー大佐の自演にしろ、単なる公認の殺人にしか見えないし、ビンラディン事件は、赤穂浪士の討ち入りの話と同じで単なるあだ討ちだ。60万人と3000人では釈然としない。向こうにしてみればまったく浮かばれないだろう。人間とは、頭の最も回る時分に数学をやって、少し鈍くなってきたころに哲学をやり、最後にどうしようもなくなってきたら歴史を学ぶものらしい。そこから推すと、歴史などボケ老人でも理解できそうなものだが、そうもなかなかかないようで、「人類は歴史からは学ばない」という言葉が跋扈するのは、世の中に如何に馬鹿が多いかを物語っている。



行動的に筆者の中野信子氏と異なる点は、日常経済面でのものの買い方だと思う。氏は現金を使うみたいだが、私は面倒なのでたいていカードで用を済ませる。何ヶ月構えに、「今でしょ!」の林修氏がやはりつり銭の話をしていたが、『いまどき現金なんか使うのかな?』という気もした。金の概念はぼけても忘れないなどとはるか昔にある医者が話していたが、私はしばらく現金に触れていないと1万円札と千円札の区別がうまくできなくなる。どっちがどっちだかわからなくなるので、数字のゼロを指折り数えるような場合がしばしばあるので、財布には千円札一種類しか入れないようにしてある。だから本文に256円のものを買おうとして、小銭が足りないときは311円出すなどと書かれている場面があったけれども、普段そんなことをやっていないので実感がわかなかった。大体千円札を15枚か20枚入れておくと、一ヶ月たつころには10枚か15枚に減っている。小銭は別の財布にしまうが、時々通路にこぼしてしまったような場合でも、『誰か拾うから自分で拾う必要もないや』などと思ってそのまま帰ってしまい、後で損したと思うことが時々ある。しかし金は天下の回り物なのか、そういう時はどこかでお金を拾うものである。20円落とすと200円くらい拾うものである。「損して得とる」とはこういうことを言うのか、違うのか、それは知らない。

近頃、消費は貯蓄に勝るなどという意見が目に付くようになったが、貯蓄を熱心に行えば、信用創造性により通貨供給量は現時点でその4倍に達する。金融機関のほうで金を余計に回すことが可能になるわけだ。消費が景気を押し上げるという理屈で言うと、消費性向の高いアメリカで格差ばかりが目に付くという現実に疑問がわく。政府の言葉尻に乗ってむやみと物を消費するものは、実は無定見なのではなかろうか。かつては日本の高度成長は貯蓄率の高さに由来するものといわれていたものだ。用は何事も程々が肝要で、極端に走るものはその反動に会うという教訓だ。アナーキズムなんていうのも極端に走りすぎてあまりに貧乏くさかったんで弾圧されることになったのだろう。常勝将軍などというのも、2割は負けている。それ以上買ったのでは結局歴史には残らない凡将で終わってしまうようだ。ジンギスカンなどはなんと負けたほうが多かったという。勝ち負けにはとらわれず、損失が多ければとにかく敗走するという性格だったかららしい。逃げるが勝ちとはこのことだ。とりあえず逆向きに負けておけば、明日か明後日には勝ちが転がり込んでくる。


読み終わって、努力とは、青信号だと確認した道をさっさと進んで行くことに違いないものと感じた。たいていバカは青信号でも一人では渡らないものだ。一人でわが道を継続して進んで行くのは骨の折れるものである。しかも、自分自身のオリジナルな努力というのは非常に低次元のタレントしか必要としないため、バカはとりわけ、既成の荘厳な努力を模倣しようとする。そうでないと秩序が乱れて暮らしにくくなるから、バカはバカのまま生きるのが好ましいわけだ。バカとは回転の鈍いものすべてと、適当に高速回転のもののうちの90%ほどを占める者たちのことである。私は人間の三分の一くらいは適当な高速回転だとしている。「適当に高速回転」というのは「非常な高速回転」も含むものであって、IQ200でもバカはバカである。思い込みの激しい連中にはこうした観念もないから無駄な断り書きを添えておいた。

前にも書いたことだが、日本人の激しい思い込みといえば、Rが子音だと思っていることがある。これは学校の教師なども何のためらいもなくローマ字を教えるときの注意事項にはしていないのでなかなか気がつかないだろうと思う。対外の人間はRが長母音だと認識しているはずだから、日本人のこの思い込みにはしばしば閉口しているかもしれない。これは人によっては非常な不快感を呼び起こすもののようだ。



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