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zoom RSS 『貧乏入門』を読む

<<   作成日時 : 2015/10/31 10:54   >>

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題名は貧乏となっているが、こうしたことを実践している人々は大抵リッチな気分を味わいたくてそうしているのだろう。先日テレビで、通行人にミニマムライフについてどう思うかを聞く番組というのをやっていたが、意外に多くの人が、彼らはリッチだ、と思っているらしいのがちょっと意外だった。女性のほうがそのように感じている向きが多いといった風だったが、全体の数が少なすぎるのでなんともいえない。女性の場合、何かというと玉の輿を口にするが、いざとなると金とか収入などはどうでもよいとなるのは昔からであって、不思議なものだ。反対に男性のほうが一見精神的に見えて、実際は物から逃れられそうにないのが目に付く。言うこととやることはまったく別物だ。

小池龍之介という、1978年生まれの、まだ40歳にもならないような僧侶が書いている。まあ、成人を過ぎればおおよそのことは想像がつくだろうが、余り人生経験自体はないと思うので、多少違っているところがもしかしたらあるかもしれない。人格が完成するのは35歳くらいだそうだが、その年齢は過ぎている。もちろんお坊さんの千里眼というのがあって、想像通りの世の中なのかもしれない。今は定職がなくても月12万稼げるなどと言っているが、本当だろうか?それぐらい稼げたら、大抵の者は定職になどつかないだろう。

仏道の真理からいうと、人間の感じる感覚は唯一「苦」だけだそうである。そういえば釈尊の哲学は何かと厭世論だそうだが、「喜怒哀楽 生老病死」であるから、何も苦に限ったわけでもないように思えるのだが、違うのであろうか。「苦・集・滅・道」のことであろうか。

そこでいつものようにウィキペディアで調べると、四諦のアイデアは釈尊の根本だそうだ。
  苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
  集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
  滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
  道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理
 とある。

どうやらこのことらしい。それはそうであって、そのとおりだとしか思えない。しかしまたそういうことを考えるというのも人間の煩悩なのではあるまいか。人間の自我意志は錯覚の類であると思えなくもない。

喜びや楽だといった感情は、「苦」の反作用によって一時的に起こるものだから、人生には「苦」の基盤のほうがずっと厚みを持って言う、という図式を見ると、なるほどと思うところもある。引力の法則だとか、電気の法則を見ているかのような錯覚にとらわれる。中島義道氏の『人生に生きる価値はない』などという書物を思い起こした。普通に考えれば、どうしてもそうなるはずだ。いわゆる成功の法則だとかハウツー物は、金銭などの物を獲得する方法を書いているのかもしれないが、幸福になる方法についてはまったくかかれていないだろうと思う。ただし、そういう本の中にも、『いくら資産を設けても幸福にならなければたいした意味はない』と但し書きをつけているものは多い。最近悪口されたものはほとんどそういうことが書かれているのではないだろうか。昔、高度成長時代のハウツー物にも、2割ほどの書物にはそういう但し書きが書かれていた。嫌、2割よりもっと多かったかもしれない。この種の本を書く者達は、人生の最終目標が幸福にあることくらい、あらかじめ知っているはずだからである。まず、読むものの解釈次第で、金持ちには不幸者が多いから金儲けはよそうなどと考えるのかもしれない。しかし世の中の金持ちを見ていると、貧乏人より幸福であるとしか思えないものも多い。健康長寿に関しても、小食は体によいなどととくものが多い反面、極端な小食者は概して短命で、還暦を待たずして死んでしまうものもかなりいる。

多くの人が夢を追い続けるのも、それが絶対に実現不可能だとわかっているからだそうである。不可能だとわかったときの落胆の反発から、つかの間の高揚感を味わうためなのだという。これはかなり面白い理屈だ。もっとも、わかっているといっても、はっきり意識して不可能だと思っているわけではなく、ほとんど無意識にだと思う。ただし無意識の領域にまで論理を推し進めて行くと、「誰でも死を欲して生きている」という言い回しもできるわけである。ここまで行くと相当の違和感があるが、破滅を目指して一目散に突進してゆくタイプの人が少なからず存在しているのは確かである。ひたすら宝くじを買い続ける人などというのも、案外当たらないことを望んでそうしているのかもしれない。その証拠に、実際宝くじに当選した人は、一時期の幸福感を維持できずに、大概『以前のほうがよかった!』などと思うようだ。

そこで思うのが、難行苦行で一生を送る人たちのことだ。インド亜大陸には昔からそういう人が多くすんでいて、仏陀もあきれて『そんなことをしてもただ死ぬだけで何の役にも立たない』といったらしい。苦行をする人間というのは、一種宝くじを買い続ける人の心理と似ているのかもしれない。

仏教は独我論的妄想を否定する。大体において共同社会礼賛で、共産主義思想に近いと思う。だから私の考えとはだいぶ距離がある。そこで思ったのだが、宇宙人のような外的生物の存在を肯定するグループというのは、外部社会の影響で生きる人々で、本質的に大衆なのだということだ。これはお坊さんとして修行しているものであっても、大衆的な人は結局宇宙人がいると思っているのではないだろうか。正統仏教やキリスト教のように、私から見れば客観主義論としか思えない協議を唱えるものに、外部世界の異邦人が存在すると主張する基盤は十分に論理性を持っているだろうが、独我論のような主観世界に異邦人がいると考えるようなものは、論理性を書いているただのバーチャルオタクなんだろうと思う。オタク文化とかアニメ文化などというものは、案の定筆者の世代のものの目から見ても現実逃避の生んだ妄想にしか見えないらしい。アニメの主人公に恋をしたりするので、二次元コンプレックスの持ち主たちが作った文化だそうだ。妄想というか、引きこもりの生活ばかり習慣的に行っていると、何度も夜中に同じような夢を見たりしたら、すっかり記憶に定着して、現実に起こったことと思い込むのだと思う。子供のころの思い出などというものも、いかにも事実であったと本人は疑いもしていないのが、実は単なる夢だったりする。子供はまだ脳が発達していないからそういうことが頻繁に起こってもおかしくはない。似たような現象は老人の痴呆症でもたいてい見られるそうだ。コンピュータ文化のつまらなさというのも、それが2次元的で奥行きを欠いている事にあるのかもしれない。現代文明が殺伐としていて非人間的で冷淡な印象を与えるというのも、IT技術を開発するものたちの適正がどちらかというとオタク的で偏っているからではないだろうか。コンピュータ産業界が抜擢するIT技術者というものは、ほとんどが非社交的で引きこもりがちの生活を送っていたものたちばかりだそうだ。彼らにはいささかアスペルガー気質みたいなところがあって、『2次コンプレックス』という言葉が示すとおり、3次元の現実社会がよく見えない。文字通り見えない。認識できないのだ。たとえば他人の顔などがなかなかわからない。これは私の場合にもおおむね当てはまることで、この間も見知らぬ人とすれ違った際「何でわからないのかな?」などと相手の人が言うので、どうも近所の人らしいということに気がついたくらいだ。社会の多数派には人の顔を覚えるというのは当たり前の作業であるらしい。アニメと違って動きがあるからだろうが、そういうものたちに社会の最前線が構築されている。彼らが健全で善しと思うものは、一般人にとって不健全でいかにも不適切なものであることが多いはずなのだ。しかし、これもちょっと過去の振る舞いが悪すぎたので、しっぺ返しをかまされているのかもしれない。


ウィトゲンシュタインが映画に夢中になった理由も、仏教の心理学理論で説明できるらしい。ウィトゲンシュタインの思想は、どちらかというと私のものと近いように感じるから、仏教とはやはりかなりの距離があると思う。彼の気持ちには怒りがt期まとったというのも、仏教者から見ると不完全の現われだ。三毒のひとつが怒りである。残りは、欲望と無知。現代人は欲望を怒りのふたで押さえつけている。それらが外れないように押さえつけているのがプライドである。プライドのまたの名を慢、あるいは『承認欲求』であるという。自分がひとかどの人物であると認められたいという自他共にある気持ちだ。「我勝慢」とか「我劣慢」と呼ばれる。心臓にべったりついた油みたいなものだと思う。短気な人間が心筋梗塞を起こしやすいというのは慢心のせいであるのではなかろうか。よくプライドはやたらと美徳のように賞賛されるが、そういえばプライドの高いものというのは短気で怒りっぽいものばかりだ。「男の誇り」などとは体のいい言い訳だったか。

プライドで汚れた心を軽やかにするのが「集中」という方法らしい。心の動きは絶え間なく放縦で、あらぬことばかり考えているのでもつれ合って油汚れのような黄ばんだプライドが生じるのだろう。

欲望を抑えれば、怒りの心も生じず、したがってプライドの膠作用も必要ないのだろうが、それだと、芸術とか文化は花開かないのではなかろうかという気もする。岡本太郎が「芸術は爆発だ」といっていたのは、人間にはそこそこの怒りの心も必要だと受け取れなくもない。無駄でどうでもいいようなものが文明の証で、生きている証拠のようなものでもあると思う。悟りの世界もよいが、やっぱ一生坊主ではつまらないのではなかろうか。

昔、二宮金次郎は坊さんが大嫌いだったそうだ。何不自由ない裕福な暮らしを自分の意思で捨て去ったところで、生まれながらにして貧しい人間の気持ちなどわかるはずもないとしたらしい。たぶん、そうだろうな等と思いながら、本書を閉じた。


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