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zoom RSS 『山下奉文正伝』

<<   作成日時 : 2015/11/28 10:23   >>

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やました・ともゆきと読む。たぶん当て字だと思う。どう読んでみても「たいぶん」としかよめない。兄は「奉表」(ともよし)、弟は「奉守」(ともたか)といった。山下泰文の生まれは、高知県の香美郡というところだから(*)、昔であっても東京のほうの人は読めなかったかもしれない。果たして、故郷の土佐を離れて、広島にある幼年学校に入学した際、「ともゆき」と読めたのは国漢の先生ただ一人で、案の定「ほうぶん」と呼ばれるのが日常だったという。
(*)ウィキには長岡郡とあるが、これは後年、本人が裁判の後、フィリッピンニュー・ビリビットの独房で語ったことによるのだろう。「余波1985年11月8日、日本四国の中央部、吉野川の河辺にある小村・大杉村にうまれた」。しかし、長岡郡の大杉村は父佐吉の医学修行中の寄宿先の家があったところで、奉文の生まれたのは実家で、小学校も途中からはここから通っている。
偉人伝の類を調べていると、往々にして幼少期は平凡な人物よりも正義感が強く、活発な性格であったということがわかる。といっても、本人をよく知っている人物の過去の確かな記憶によるものであって、事実ではなく、その何十年後の回想であるから、あくまでも現在までに作られた記憶であって、過去の映像そのものの再現ではない。ただ現在起こっている諸事象を振り返るときと同じ程度あるいはそれ以上には確実性を持っているかもしれないというだけである。過去の事象を見る場合には、現時点の出来事を見る場合のような情動に突き動かされる場合が少ないので、たいていの場合はより確実性を持つものと推測される。5分前に何が起きたかの調査結果は個人個人の気質による印象の影響を強く受けるため、かなりのばらつきを見るはずであるが、5ヶ月前ともなれば、その間の相互情報の修得による修正のために、多数派の占める一連の山に記憶は修練してゆくはずのものだからである。まして50年前の出来事となると、人々の記憶はさらに共通のものへと変化してゆくだろう。確実性が増すといってみたところで、所詮そんなものだ。過去の自閉を残した5分前の記録は個人の見解に大いに作用されていて極めて流動的なものだし、かといって後世の人々が記憶として残している過去は収斂しているというだけで実際の過去ではない。

とはいっても、山下奉文の人生が特別奇異であったことは間違いない。本書の前半は妻のほうの実家で起こったことに費やされているが、仮に彼が軍人として大成しなかったとしても、これだけでも十分物語りになる話である。しかし、本当を言うと、こうした個人的な家庭のよもや場話などより、ざっくりと当時の歴史的社会背景について知りたかったのであるが、まあ、これはこれでそのうち別にわかるだろう。それにしても、こんな家庭内の話など、天下国家の話と比べるとどうでもいいとしか思えない。読むのも面倒くさい。どうでもよいと思って目を通しているので、何がどうなっているのかよくわからなくもなる。

父の佐吉は医師、母の由宇(ゆう)は農家の出。大柄で165センチ以上、80キログラムもあったという。母方の実家の森田家は庄屋を営んでいた豪農だったというが、すでに家を売り払わなければならないほど斜陽していたらしく、分家の由宇の家は行く部屋もないくらいわらぶきの粗末な家で、たいそう貧しかったそうである。従来豪農であるからそこそこ裕福であったに違いないと思われていたが、疑問を持った筆者の安岡正隆氏が、郷里の前田徳雄という明治生まれの老女に聞いてじきじき確かめたのだという。徳雄では男性と間違えられて、今は困るのか、今では徳於と名乗っているそうだ。ここを見ても、昔は男女の区別など案外になく自由であったのかもしれないなどと思う。徳雄の記憶によると、佐吉は医師になる前は教師をしていて、暮らしぶりはなお貧しかったという。
どん底の暮らしを経験しているからか、山下は三井、三菱、住友といった財閥が大嫌いであった。後年、家の者にも、三越では決して物を買ってはいけないと命じたので、これには家人も大いに困り果てたという。また金持ちには決して物を送らず、贈答品は貧しいものだけに与えたという。財閥はぜひともつぶさねばならないという信念を終生持っていたという。こういう思想が、敗戦後のアメリカナイズの影響下にさげすまれることになっていったのかもしれない。仮に現在そういう態度を貫く人物がいたとしたなら、相当の礼儀知らずであるとそしられるだろう。しかも、裕福なものであれば大概身分も地位も高いものだ。彼らだけを選別して疎んじていれば、実にかかる非難の嵐もかなりのものとなるだろう。誹謗中傷の記録がいたるところに残っているだろう。反して貧乏人の残した山下賞賛の記録というのは家自体がつぶれてしまってほとんど残っていないだろう。


石原莞爾のところでも述べたが、山下の幼年学校においても、連日日露戦争での大敗北の報に接したそうだ。ロシア軍が強かったとも言えるだろうが、結果だけ見て今では逆のことがしきりに云々されるのはなんともいえない浅ましさを感じた。大勝利疑いなしのほうは太平洋戦争だ。結果すべてが逆となっただけだ。

なんともまたしても意外だったが、山下奉文も石原莞爾と同じく中国にたいする親愛感が強かった。「俺は支那は大好きだ。仲良くしないといかん。隣国だからな」と口癖のように語っていたそうだ。一体どうなっているのかよくわからない。仲良くしようとしたのだが、けんかになったということだろうか。山下は「悲劇の将軍」といわれる。石原と違って、先般に問われ絞首刑になった。そうすると、満州事変にある背景も、アヘン戦争にあるものと似通ったものがあるのではないか。アヘン戦争にしろ、今では中国嫌いのものまでが「鬼畜英米」の根拠とするほどだが、歴史を振り返れば先に手を出したのはイギリスではなく清国官僚だ。

山下が入学したころの大正初期は、日本史上教育制度が最も充実していたときで、その少し前に来日していたロシアのクロポトキン配下の陸軍将校は「このような将校教育を行っている日本とは、絶対に戦うべきではない」といったそうだ。当時の陸軍大学校では、外国語だけでも、英語、ドイツ語、シナ語、フランス語のほかにロシア語までやらねばならなかったらしい。大抵の大学に、エスペラント語学科などのマイナーな学科が常設されていた自由な雰囲気を聞くと一種のうらやましさを感じる。多様性を重んじる風潮だったはずである。後年になって、山下の細君が子宮後屈の手術をうけたさい、慶応病院の医師たちは立会人にはわからないだろうとドイツ語で会話していたが、山下には妻の病状がすべてわかってがっかりしたということが書かれている。

昭和2年2月から、同4年の9月までオーストリア駐在公使館付武官役を終えて帰国した山下は、長髪ででっぷりと肥えていた。それで妻の久子もわからず、「あの人、外人かしら?」などといっていたそうである。久子の妹の勝子の写真をひねもす軍服のポケットに入れていたので、安心して太ったらしい。細君の写真だったら細い状態のままだったのかもしれない。度胸が据わっているようでいて、案外潔癖症で、ばい菌を恐れた。イチゴなども摘んだままの状態では決してくいにせず、カルキで消毒するのが常であったが、そのくせ自分の水虫は治そうとはしなかったらしい。どうせ戦地ではばい菌も食べただろうと思うが、軍人仲間も刺身を火にかけて食べるのを見て不思議がっていたそうだ。散発をするのも、下手な店ではばい菌が入るというので、バリカン類は自分用のを持ち歩いていたらしい。本に線引きも、まっすぐでなければ気がすまなかったという。ジャイアン風の風貌で、いじめっ子をいじめるところだとか、どうしようもない音痴なところは、いかにも大柄なジャイアンであったが、頭の切れるところは大いに異なっていた。

山下の帰国後、昭和6年(1931)3月に起きたクーデター計画を軍内部で隠匿処理し、首謀者も処分しなかったことが、「失敗してもこんなものか!」の風潮を生み、後々の暴走につながったというのが筆者の見解のようだ。1931年のことを「戦始まる」と読む人もいるらしいが、運の悪いときに出世したものだ。よく昭和7年1月には「上海事変」、2月には井上準之助蔵相が暗殺され、3月には満州国が建設された。そして5月には「5.15事件」だ。この年の前半が一番騒がしかったかもしれない。

少々妙に感じたのは、この本でも、永田鉄山は斬殺されたとしている点だ。斬殺といってもうそにはならないと思うが、実際は斬殺を三度試みたが、いずれも失敗したので、やむを得ずつきで殺害したそうである。剣道の名手であった相沢三郎陸軍中佐としては不本意だったろう。相撲で言ったなら張り手をやるような実力の持ち主はいささか横綱とは呼べない。竹刀剣道の腕では、刃筋を立てて相手を斬ることなど出来ないらしい。昭和10年8月12日の事件であった。山下自身も、このとき陸軍省内で相沢と廊下ですれ違い、現場も目撃している。勝子の記憶では、「相沢は剣道においては腕の立つやつだったかからな。切口は見事というほかはなかった」と、山下は語ったという。相沢ら皇道派に属した将校はどちらかというと政治性に乏しかったらしいが、山下は皇道派に同情的であったという。2.26事件の前夜、青年将校たちをけしかけたのも山下だったとも言われているそうだ。しかしこれも、2.26事件などを企てる青年将校は簡単に人の言葉を誤解するような筋肉バカだという思い込みが元になっているといえば言える。戦後の日本に流行したこれといった根拠のない概念だ。ともかく山下は石原莞爾のような考え方の持ち主であったかもわからない。実行がもっとも大事であるという思想だ。どんなに意見をことにする上司の下でも成果を上げることが出来るというのが山下の特徴であって、それはたぶん近衛文麿などの特徴でもあっただろう。単純なやからは往々にしてこのような人物を揶揄しがちだ。人気作家などというものも、世間のこの流れを利用しているようなところがあるようだ。偽物の夢物語にこそ人は蝿集する。それにしても、こんな無用心な陸軍省なんていうのはなんとも嘆かわしいではないか、相当の間取っ組み合いを許していたわけだ。軍人のアジトが隙だらけである。

昭和11年2月26日の早朝、2.26事件の報を自宅の電話で聞きつけたとき、山下の階級はまだ少将であった。これぐらいの大事件になってしまっては少将程度ではどうしようもなかったらしい。しかし、青年将校たちにはかなり同情していたようだし、彼らのほうも山下を特別に慕っていたようだ。2.26事件とは、天皇の統帥権を奪うような行為なのだが、かねてから財閥を憎む山下としては、天皇の強権、財閥的な振る舞いも少々癪に障るところだったのではなかろうか。しかし、天皇制をあからさまに非難してしまっては出世など到底出来はしない。そこまで考えずに軍人になってしまったのだろうからいたし方がない。この辺は私の考えだから本当かどうかわからないが、今の皇室文化を見ても、なお無駄な贅沢さを感じるほどであるから、戦争前の贅沢三昧さは相当なもので、山下がこうしたことに怒りを覚えていたとしてもおかしいとは思えない。それがためか、彼の家に九谷焼の湯のみがあったが、ある日細君がうっかりその湯飲みを出したところ、急に腹を立てて庭に投げ捨てて粉々にしてしまったという。

2.26事件鎮圧のための陸軍の告示文を持って山下少将が、反乱将校たちの下へ訪れ、それを読み上げると、反乱将校たちの顔には安堵の色がうかがわれたという。読みようによっては、告示文は天皇が反乱軍の行為を義軍として認めるように書かれていたからである。青年将校らと同調していた山下もつらかっただろう。山下にはこの時点での天皇の怒りが収まらないものであることは伝わっていたが、軍人は天皇の待命で動くものである以上は仕方がない。それでも何とか反乱将校たちに花を添えてやろうとして、本庄を介して天皇に勅旨を派遣してもらえるよう懇願したというが、これが天皇の山下に対する怒りを爆発させたらしい。まあ、当然そうなるだろう。この時点での天皇の言は、「朕が股肱の老臣を殺戮す、この如き凶暴の将校・」であって、視察するなら勝手に自殺するが言いというものであった。昭和天皇の戦争責任の話もここから出てくるのかもしれない。天皇の命令がなければ絶対に軍隊は動かない。単に軍部が暴走したので日本が戦争に陥ったのではないとするのである。まあ、何年か前に、明治天皇の玄孫と言う人がしきりにテレビに出ていたが、いまだに天皇のために特別列車をあつらえるなど、イギリスを始めとした世界各国王室の庶民的な質素さと比較すると、まだまだ日本は贅沢三昧にしか見えない。

もしも、2.26事件の起こった昭和11年の時点において、天皇の軍隊統帥権がこれほど堅固とした物であれば、それ以前の軍部の暴走は天皇か天皇側近の命令で惹起したものとも思える。2.26事件を起こした青年将校たちのうち、真っ先に刑死を執行された安東体調だけは、まだ天皇も政治的思惑で動く人であることに気づかず、しに望んで「天皇陛下万歳」「秩父宮万歳」といいのこしたが、遅れて刑死した者達は天皇の真意を知り、落胆したのか、「天皇万歳」とは言わなかったそうだ。まあ、本当に軍部の暴走が早くから起きるようなもろい体制であったなら、日本の皇室天皇一族の運命も、ロシアロマノフ朝がたどった悲惨な道と似たような道を歩んだかもしれないとは思う。

山下少将も、2.26事件で天皇の本意を知って、自分の考えが甘かったことを大いに悟り、家の2階に引きこもって長いこと考え抜いた挙句、もう軍人としての出世など到底かなわぬことに気がついたらしい。そうして何を思ったのか、妻久子の妹の勝子を呼び寄せ、「今度、青年将校たちが起こした事件で、どうせ俺は首になると思う。」と述べた後で、「自由な意思で行動できるようになったら久子と離婚して、勝子、お前と結婚するぞ」といったらしい。高名な軍人にしてはやや間抜けそうなところもありそうだ。天皇陛下の不興を買って、免職されることは100%確実だと思い込んでいたらしい。鎌倉みたいな海に近い田舎に住んでつりでもしてのんびり暮らそうと思っていたようだ。

馘首されるくらいなら自分で辞任しようなどと思っていたが、実際は陸軍省の調査部長から、朝鮮・龍山への左遷命令だけだった。龍山へは久子夫人とともに行くことになったが、久子の強い要望で勝子もともに行くことになった。このあたりが山下の賢そうなところで、ごちゃごちゃの三角関係しか作れなかった人とは大違いだ。人心をつかむことに関する実力の違いだろう。とにかくユーモアの耐えない明るい性格の持ち主であることが多かったそうだ。

首にはならなかったものの天皇陛下には案の定嫌われ、その関係で東條英機に中央から追い出されて欧州の視察に赴いたが、その地でヒトラーやムッソリーニと面談したという。ヒトラーには三国同盟による英米への参戦を促されたが、「今後速やかにシナ事変を集結し、ソ連に備える」と露骨に拒否したので不興を買ったらしい。帰国につく際、ソ連国境に近づくと、ドイツ軍の進行部隊がかなり目についたが、ソ連のほうは独ソ不可侵条約があるので安心しているのか、なんの備えもしていない。急いでモスクワでソ連の軍首脳と会談を済ませると、その数日後に果たしてドイツが不可侵条約を一方的に破ってソ連に進行を始めた。しかしドイツ軍の驀進が、日本軍の予定を180度変えることになってしまった。はっきりしたことはわからないが、山下が危ないと思っていたのは海軍の山本五十六で、もっとも対英米戦に走りそうなのはあの男だと思っていたようだ。三軍の統合など、彼が海軍にいる限り到底出来ないことだと語っていたという。三運の言うのは陸軍、海軍、空軍のことで、この時代日本には空軍というのはなかったが、どうも名目上のものに近かったのかもしれない。それにいつも折りに触れ言っていることだが、人気のあるものほど偽物に近いというのがある。山下奉文と山本五十六とでは、山本五十六のほうが圧倒的に人気だろう。だから胡散臭いのだ。

日本軍が三国同盟を理由似たい英米船に動き出したことは、どうもアメリカに筒抜けだったようで、11月の26日にはスチムソン陸軍長官が、「ジャップには覚書を送ってやった。後は陸軍と海軍の問題だ」と、ハル国務長官に言われていたそうだ。山下が「ヒノデハヤマガタ」の電報を受け取ったのは、ようやく12月の2日だった。作戦開始は12月8日と決まった。この時点ですでに米国はヨーロッパとアジアでの全面戦争計画をもくろんでいて、山下の目指すマレー半島も日本軍の振興計画をすでに察知し、準備万端の様相であったという。12月6か頃にはすでに発見されていたが、運がよかったのだという。運が悪ければコタバル上陸部隊は全滅の危機もあった。あんまり奇襲という感覚もわかない。むしろまぐれで、桶狭間の奇襲のような形になったらしい。それでなぜ英軍があっけなく敗走したかが疑問であるが、まあそれはおっつけ調べるとしよう。運悪く日本軍が勝ったとも言える。この辺で負けておけば被害も少なかっただろう。ただし、太平洋戦争後半とは違って、このころは飛行基地など一日で建設したとかかれている。

あけてみれば、シンガポール英軍守備隊の総数は、山下中将が2〜3万と読んでいたものとは大幅に異なり、10万名近く存在していた。そこをわずか3万の軍勢で急襲していったのだ。目暗、蛇に怖じずの状態であって、日本軍は弾薬の消耗に悩んだ。山下軍は自軍に弾薬がが尽きてきたところで、祈るように英国軍に降伏文書を突きつけてみたが、まるで無駄であった。203高知で起こった戦闘の様子が再開されていたのだ。戦闘とは、たとえ勝ち戦であっても、そういうものなのであったのだということをしみじみと思う。3倍の敵に勝利した山下の指揮ぶりは、ナチスの士官学校戦史教科書にも取り入れられたという。



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