東京近辺では、「気取る」と書いたら「きどる」と読むのが主流派だと思う。しかし、反射的に「けどる」と読む地方もあるらしい。「気配」の「気」だ。 大体において「き」が自己の内側を、「け」が外側をあらわすもののように思われる。泰この時代には、自己の外側にも自意識は存在するものと思われていたのかもしれないが、時代が進むにつれてそれはなくなって行った様だ。典型的なのは、西洋に生まれたデカルト哲学だ。「われ思う、ゆえに我あり」などというものだ。どんなに疑っても、自己の存在は疑いえないなどという、とんでもない錯覚なのだが、今日ますますその傾向が激しい。まあ、哲学者でも、大森荘蔵などは「意識とは自分で裁縫した自閉的拘束服」だといってはいる。しかし、ほとんどの哲学者にとって自我は自明な用である。そんなことは最初から大間違いだとわかりきったことなので、たいていの哲学は学問としては未完成だ。 ユーチューブに面白い動画があった。「意識は幻想か」という題目だ。私の言っていることとは違うが、多少参考にはなる。私としては宇宙全般を通して意識があるという立場だ。だからカブトムシはもちろん、原子にも意識がある。 https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac ここで論じているのは、意識といっても、大衆の意識かも知れない。超人は異なるように思う。 意識と並んで話題になるのが魂のことだが、意識自体が大錯覚の産物であるとすると、魂などというものもその類で、まして魂の輪廻転生などあるわけがない。逆にそんな余計な付加物がないほうが、肉体と全宇宙との不可分一体感が明らかになろうというものである。 前にも書いた事があるかもしれないが、戯画にとらわれた文明について思い浮かべるのが、「2001年宇宙のたび」というSFだ。もう2001年などとっくに過ぎているのに、世の中の本質というのは余り変わっていない。未来物語と比べると、今の暮らしはどちらかというと原始時代に近いような気もする。より土に近いところで生を送っているからだ。そうした土壌で人類のエゴが発明したのがオペラという芸術だった。宇宙空間に向けての静謐なたびの途中で、主人公は人工のオペラの肉声の醜さに気がつく。作者のアーサー・ミラーの思い入れも疎言うものだったのかと思う。世界を人類の支配下に置こうとする人間の醜いエゴが肉声に現れているのだ。それで主人公は純粋な無機音しか好まなくなった。戯画によって穢れていない音声ということで、バイオリンやピアノの音声のことだ。有機音でも、すずめや鶯の鳴き声、あるいは鈴虫の音が澄んでいるのは、心がエゴで穢れていないということもあるかと思う。 昔小泉首相が、オペラ鑑賞が趣味だときいたとき、「やはり政治家だな」と感じたものだ。社会は自我の世界であるとも言える。 |
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