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zoom RSS 似非ニヒリズムについて

<<   作成日時 : 2016/04/10 16:18   >>

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ニヒリズムというのは虚無主義と訳される。おおむねそんな感じでいいだろうと思うが、暗くて悲観的なのがショーペンハウエル流で、明るくて楽観的なのがニーチェ流だなどと解している向きもあるようだ。インドウパニシャドにしても、仏教にしても悲観論だというのが定説らしいが、あくまで表向きの話で、個人的の世界では別にどちらでもありだろうとは思う。どうせ鏡にでも映してひっくり返せば全部逆となるのだから、別段他人を説得するという企てをのけてしまえばどうでもいいことだ。

似非ニヒリズムというのはニヒリズムの偽物という事になるが、どうやらこんなものはないので、単に言葉を作り出して遊んでいるようなところがあるらしい。一般には「偽善者」といった意味合いらしい。大正デモクラシーが大正民主主義を意味するのではないのと似たようなもので、単にゴロがいいからそう言っているのだろう。もっとも、ニヒルの意味にしたって、かつて天地茂が「ニヒルな男優」トップだといわれた。眉間に深い横皺があるのが理由らしかった。どうやらいかにも思慮深そうな身振りをしているものを指してニヒルといったらしいから、本来の意味とは違う意味なのかもしれない。言葉をビジュアル化する風潮というのは人間の特性みたいなもので、映像化を試みるたびに意味があいまいになってゆく。そこから、知恵のないのに知恵があるようにふるまうものを「似非ニヒリスト」から「偽善者」という事になったのだろう。

どちらの言葉にしても、語の頭に「偽物」を表す接頭語が付いているから、とかく否定的な意味合いで使われるはずだが、とかく妬みや羨望の対象となる人物を指して「偽善者」と言われることのほうが一般的になってきたようだ。

たいていの人がそうだと思うが、「今は自由という言葉が氾濫している」などと言われると、うっかり無条件にそうだと思い込んでしまうというのがある。ところがよく考えてみると、反乱などという形容が当てはまるほど、自由などという思いがしょっちゅう脳裏に浮かんでいるものなどあまりいないだろう。大体、自由であることと虚無であることとは果たして異なるものなのであろうか。言葉だけが異なっている程度の違いしかそこには存在しないのではないか。人間というものは、言葉が異なればまるきり別物であると、その瞬間に思ってしまう。そんな生き物である。あれこれ自由だと思い込んで放浪を続けていても、結局は単なる自由分子の一つの運動と同じで、最後には定まった点に落ち着く。これは宇宙の法則であるから、虚無的であるといえる。そうなれば、自由性も虚無性も同じだろう。無限小の世界も、無限大の世界も、畢竟は等しい本質を有している。

一般的には自由の反対は束縛とか拘束であろう。そういうものも含めて、一切の言葉の意味は無意味なのだと思うと、かつてノーム・チョムスキーが、「火星人から見たら、地球人がこの惑星で話している言語など、すべてが同一言語の方言に過ぎないものだ」と述べた意味のうっすらと分かってくるような気になる。

要するに、自由がよいことのように見えるのは心の状態がそれにあこがれているからなのであって、それはバブル崩壊前半世紀ほどの社会が束縛の時代であったからに過ぎない。今の人間は自由に生きることがいかに困難であるかという事を身をもって体験しているものも多そうであるから、逆に束縛に楽しみを見出すものもかなり多いはずである。束縛が自由を上回る時代にあっては、束縛こそ善であるという思想を持つものも増えてくるであろう。かつてローマの平和時代もそうであった。狼の危険な自由よりも、羊の安全で平和な屈従が理想とされた。そうなると、屈従と拘束のほうが自由などよりよほど自由に思えてくるだろう。次第に通念とされる常識があべこべになる。

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