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zoom RSS 『ドイツ高射砲塔』

<<   作成日時 : 2016/06/18 09:23   >>

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久しぶりに軍記ものだ。といっても防衛の方だが。ベルリン、ハンブルグ、ウィーンの三都市に、それぞれ3,3,2か所に設けられた。ベルリンの3か所とハンブルグの1か所のものがもっとも古く巨大なものであった。厚さ2.5メートルのコンクリートの壁で、いざとなれば3万人収容の防空壕になるものでもあった。このような施設をもし日本で作ったと仮定しても、相応の期間内に地震で破壊してしまっていただろう。コンクリートは振動にはめっぽうもろい構築物だ。2012年に出版されたもので、ずいぶん戦後長いこと経っているような気もするが、まだまだ真相は埋もれ残っているのかもしれない。ちょうど東京の真ん中で毎年のように不発弾が見つかるのと似ている。

ちょっとわかりにくいのが、高射砲塔は2塔で一組構成であったという点だ。戦車だとか戦闘機のように動いて行動する動物的なものなら2機でペアを組むというのもありそうに思うが、植物のように固定した構築物でペアを組んで、何か意味があるのだろうか。ペアの@は「重高射砲を装備する高射砲塔」(G戦闘塔)で、Aは「警戒指揮を行う指揮塔」(L指揮塔)だ。ひっきりなしに射撃しない限り、衝撃波で正確な位置が測定できないというようなこともないと思う。大体当たりっこない。1000メートルか2000メートルの低空飛行なら当たるかもしれない。そう考えると、どうもヒトラーやナチス幹部らの古典的対称性を重んずる懐古趣味のようなものが案外起因しているのではあるまいか。性能自体よりも見た目の華やかさを重視する傾向は、戦車の角を直線的にわざわざ作ることや、衝撃に弱い戦艦の飾り穴を残しておくことなどにも表れている。こうした傾向はナチスに限られたことでもなく、今日でもドイツの町は比較的鋭角的であるのはどういう意味だかよくわからない。大衆に人気のあるデザインを用いることで、予算を多く取り入れる作戦なのだろうか。ナチスの場合はおそらく軍事予算を多く計上せしめるためにデザイン性を重視したのだろう。丸っこさがなくて日本とは対照的であるように感じる。四角四面とは勤勉性を物語るのだろうか。日本人の遺伝的怠惰な気質とは相いれない。我が国の勤勉性は明治維新以降強制的に作られてきたものに過ぎない。丸い相撲取りと四角いプロレスラーの違いというものだろうか。多分丸いほうが格闘技戦には強いのだろう。

一応侃々諤々の議論の末に、高射砲塔上に設置された重砲の衝撃を受けずに、侵入機の監視と有効な砲撃指揮を行う指揮塔を別に設けて迎撃することが効果的であるという事になった。どうも弾丸が無尽蔵であったようで、ひっきりなしに撃ったのではないか。日本軍ならまず撃たなかったであろう上空1万メートルの爆撃機に対しても砲撃したらしい。1万メートルも上では10万発撃っても1発も当たるわけなさそうで、完全に球の無駄遣いだ。それどころか、上空で炸裂した128ミリ高射砲の弾丸の破片は無数に地上に落下してくるのだから、屋根に落ちればたいてい屋根が壊れるし、道に落ちれば邪魔になるうえに、せっかくできた高速道路も下手をすれば穴ぼこだらけで、とんでもない交通の妨げだ。破片といっても、機関砲の玉より大きいくらいだから人に当たれば一巻の終わりで、自分で自分を爆撃しているようなものだ。真上にクシャミをしている人のようで、なんともナチスも案外とんまだと思う。ドイツの家は比較的頑丈だから屋根を突き抜けるようなことはめったになかったらしいが、日本だとそんなことは日常的だったようだ。いかにもナチスドイツと感じるのは、高射砲塔なるものが空軍の管轄に属するという事だ。日本流なら当然陸軍という感じなのだが、どういう思考のもとにこの要塞が空軍であったのかよくわからない。

そもそもロンドンへの誤爆に起こったチャーチルの復讐によるベルリン空爆は、1940年の8月25日に開始された。ヒトラーが禁止したロンドン空爆から三日後のことだ。それからわずか26日後に高射砲塔の建設が稼働したのだから、かなりいい加減なところもあったに違いない。早ければいいというものでもない。

南北の空域からベルリンへ侵入してくる爆撃機から中心部を効果的に防衛するには、官庁街を囲む三角形の頂点にそれぞれ高射砲塔を配置することが必要だった。デザイン重視型のヒトラーの最初の計画では、三角形も2つだったらしいが、予算の都合でカットされたらしい。計画というよりはローマ帝国復興の夢だ。第三帝国というのは。チャーチルが経済の天才と絶賛したムッソリーニから引き継いだものだろう。

第一の高射砲塔はベルリン中央部のブランデンブルグ門西側にあるティアガルテン後縁西端部に、第二の塔はそこから東へ7キロのフリードリヒスハイン高射砲塔、第3はティアガルテン高射砲塔から6.5キロ東北のフンボルトハイン高射砲塔だ。G戦闘砲は、基礎部70.5メートルの四辺形で、高さは39メートルの地上5階地下1階で、総重量は15万トンから20万トンあったそうである。各片1mのキューブの水の重さ1トンと比較すると、横が70トンだから、底辺で約5千トン。高さ39mで、約20万トンとなる。鉄筋コンクリートの一般的比重が2.4だというが、軍事用だからもう少し重いとすると、空間もかなりありそうだ。もう一つのL指揮塔は400から500メートル離れた位置に建てられ、こちらは50×23メートルの底辺とやや小ぶりだが、高さは同じ39メートルあった。G塔には500名、L塔には200名の要因が常駐していた。L指揮塔にはレーダーのほかに武器としては37ミリ砲数門と4連装20ミリ砲4基が設置されていたという。ティアガルテン高射砲建設にあたって、1884年開園のベルリン動物園の諸動物に与える重砲射撃の衝撃波が懸念されたが、最終的には動物たちを疎開させることで決着を見たそうである。1941年の4月に高射砲塔は完成した。これほどの巨大建造物なのに、半年しかかかっていない。現在ののろのろ建築とは比較にならない。

完成したはいいが、防空目的にはほとんどといってよいほど役立たなかったそうだ(*)。反対に進行してくるソ連軍の新鋭スターリン戦車を多数、ヒトラー地下基地の近くのティアガルテン高射砲塔が撃破したというが、39メートルの塔の頂上からどうやって高射砲塔で下にあるものに照準が合わせられるのだろうか。写真が残っているが、高射砲塔付近の戦車などを破壊したのはどうも高射砲ではなさそうだ。ベルリン東方14キロにあるマルツァーンに陣取ったソビエト赤軍との攻防戦らしい。500発以上の重砲弾をソ連側から受けたが、破壊されることはなかった。連装128ミリ重高射砲のほうはソ連赤軍に大きな被害を与えて敵の進撃を数日間遅らせた。「1945年4月23日からティアガルテン高射砲塔から視認できる場所に現れた赤軍のスターリン戦車とT34戦車を狙って、高射砲塔の重砲が火を噴き次々と撃破したが、このような目標は高射砲塔にとっては爆撃機の迎撃よりもはるかに容易なことだった」と本書に記載されているのは全く奇妙である。いったい高射砲塔のどの位置から敵戦車に照準を合わせたのだろうか。本来固定されている位置からでは全く不可能だとしか思えない。備え付けの128ミリ重高射砲の発射核はマイナス3度からプラス88度までとある。高射砲の周囲の囲いをすべて取り払ったとしても、1キロ以上遠方でなければ照準が合わない。大体銃座からでも目視不可能だろう。ソ連軍の記録にも、地上の歩兵、戦車、先頭車両が重砲の攻撃を受けたとあるが、要塞の高さは36メートルとあるようだ。かなりの遠方からの観測だろう。高射砲塔からの重砲の近距離攻撃は無理ではなかったかと思う。128ミリ重高射砲の弾丸一個の重さは26キロ。発射速度は砲員の熟練度にもよるが毎分12発から14発だ。2連装だからこの2倍だ。水平射程は約22キロ。欧州は都市建造物などを見ると圧倒的に登用を凌駕していたかのような気がするが、例えば戦艦大和の46センチ砲などと比較すると、あまり大したものは作っていない。ローマ建築と中国建築とを比べてみても、ローマのほうが技術力は上だったかと言えば、科学技術の進んでいたのは古代中国の方だった。
(*)しかし、連合軍の記録によれば、大戦終了までに高射砲塔によって撃墜された爆撃機は12697機に上る。1944年半ばには高射砲による損害がピークに達して、7,8の2か月間の損失700機のうち460機までが高射砲によったものだという。役に立たなかったとは言っても、物は見方により豹変する場合がほとんどだ。戦争の歴史といっても、その歴史を解釈しているのは今なのであるから、過去が固定しているとは到底言えるものではない。

それに、2.5メートルもの厚みがあるにしては、意外なほど破壊されまくった姿がやや意外である。本文には頑丈でなかなか壊れなかったなどとあるが、写真を見ると、南側は完全に破壊されたとか、ぱっくり横腹を開けた痛々しい姿だとか、「こんなにもろかったのか」と逆にびっくりした。もっとも戦車の砲撃などではびくともしなかったそうだ。鉄の塊のように完全に無敵というわけではなく、機関銃みたいなものでも根気よく何年も争っていればそのうち破片が飛び散って穴が開いたであろう。そんなことをしなくても、錐で穴をあけてハンマーでひっぱたけば振動に弱いコンクリートはそのうちこわれそうだ。たいてい世の中は判官びいきで負けたものには何か不思議な力でもあったかのような物語を後付けでこしらえ挙げるものであって、ドイツの科学技術力が他国を圧倒的に凌駕していたなどというのもその伝で、実際はそう大して変わるところはなかったのだろう。

さて連合国アメリカはユタ州ソルトレークの南西100キロに、秘密の『ドイツ村』をこしらえた。ベルリン市そっくりの再現都市だそうだ。ここでスタンダート石油の技術陣の知恵を借りて効果的な焼夷弾の開発に没頭していた。1943年の半ばだったという。ドイツの住宅事情に詳しいユダヤ人の建築家メンデルゾーン(1887−1953)もこの計画に左袒していた。陸軍タグウェー実験場に設けられたドイツ村は繰り返し爆撃実験を繰り返した。原爆実験でもそうだが、アメリカはしつこいくらい実験を行っている。ちなみに「日本村」というのも、このダグウェー実験場にはあって、1943年5月から9月にかけての爆撃実験で、畳の家には焼夷弾が最も効果的であることが見いだされ、M69焼夷弾の開発に結び付いたのだという。


ところで時折写真で見て何だろうといぶかしんでいたのだが、戦場写真でよく見かける望遠鏡みたいな細長い筒の説明が本書を見てようやくはっきりした。いつも望遠鏡を横にして真ん中をのぞき込んで何をしているのだろうと思っていたのだが、あれは「測距儀」といって、一人でできる三角測量みたいなものだった。戦艦大和にもてっぺんに長い横棒がある。両側に望遠レンズが付いているものだそうだ。それをミラーで反射して、片方のミラーを回転させながら左右の像を合わせる。そうすると三角測量の原理で距離がわかるものだった。高射砲塔に備え付けられているのは、長さ4mで倍率32倍のもので、10万メートルまで測定可能なのだという。戦艦大和のものだと、ちょうど46センチ主砲の届く限界40キロまで測れるように、長さ15mもあるそうだ。

あらためて驚いたのはドイツ諸都市の爆撃機による空爆被害は日本が被ったものよりも大きかったという事だ。ただ死者数は少ない。高射砲塔が備え付けられた3つの都市でも、最も被害の少なかったウィーンで20%が灰燼に帰した。ベルリンは40%、ハンブルクは75%がやられた。ハンブルクがやられた計画はゴモラ計画と呼ばれたそうだ。原爆でも落ちたのかと思うくらいひどい。しかもアメリカ人民の日本に対する憎しみはルーズベルト大統領の社会的洗脳操作といってよい程度のものであったのに対し、イギリス人民のドイツに対する憎しみは自発的なものといってよかったらしいから、連合国が不利なときでもドイツは爆撃された。


おおむねすべての高射砲塔は戦後2〜3年後に爆破解体されたが、がれきの山の撤去作業が始まったのはかなり遅くなってからであって、すっかり更地になるまでに30年以上も要したという。もともと都市の外観を損なわないように中世の古城を模したデザイン設計がなされていたので、一部のものは現在も利用されている。ヒトラーは1000年後も第三帝国の記念碑として威容を誇れるようにとの願いを持っていたというが、耐久力1000年というと、スペインのサグラダファミリアの塔を思い浮かべる。コンクリート製でもそれほどの耐久力を持たせる手があるのだろうか?


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