森の散歩

アクセスカウンタ

zoom RSS 「WWU世界のロケット機」

<<   作成日時 : 2017/09/30 08:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

この前朝鮮戦争でヘルキャットがドローンとして用いられたというのを読んで、誘導弾について調べてみる気になった。そういえば、北朝鮮の水爆が日本のおへそに落ちたならちょっと全滅かもしれないなどとも思う。しかし最近のニュースで「我々の気持ちもわかってほしい」などと、訳の問題かもしれないが、やや弱気ともとれる言い回しをしていた。件のパルス攻撃は最悪の場合交通網がマヒする程度で、確かなのは携帯電話やスマホが壊れることくらいだという。1960年前後に米ソがやって以来実験されていないのでよくわからないらしい。その時代は停電もすぐに復旧して生活には影響はあまりなかったそうだ。ソ連にはより詳しいデータがあるかもしれないが公表されていないらしい。しかし米国の調査も、核戦争を起こさないための方便であるかもしれないので、あまりあてにできない。何しろ言い出しっぺのアメリカが真っ先に電子化及びインターネット網を築き始めたのだ。ちょうど60年代である。なぜ自らの社会を危険にさらす必要があるだろうか。携帯やスマホは全部壊れるが、面白いのはwikiに「アルミホイルでパソコンを覆っておけば防止できる場合もある」などとある点である。そのくらいでよいならば、地下鉄などよほど大丈夫だ。どうも周波数が合わなければ大した効果はないらしいというのが本当のところだと思う。ネットを検索すると、悲観的な意見ばかり目につくが、これは「悲観的な見解を述べたほうが賢く見えるから」という理由だろう。「お花畑論者は何も考えていないのでバカ」という決めつけもそこから生まれる。とにかく、憂いさらに憂うものが賢明であるのが世の中の転倒した通念である。

そういうのと比べれば神風特攻などかわいいものだ。ただ、過去は固定されたものではなく解釈次第でいかようにも変容できる想像の産物であるということには留意しておくべきだろう。つまり未来に起きる事象とさして変わりはしないのだが、ほとんどのものは過去は覆らないと信じ込んでいるらしい。例えば先日の日野皓正氏の体罰問題なんかにしても、周りの人間がちっとも騒いでいない、殴られた本人も自分が悪いと認めているのが体罰であるわけがないのであるが、多くのものは過去を想像して固定されたものと解釈している。固定されて覆られないという思い込みから、修正ができない。

今回も飯山幸伸氏のものだが、2015年2月に出たらしいから、比較的最近のものだ。1958年生まれの筆者はもともと血圧が高めで、2013年のはじめに脳出血で現在左側がマヒらしい。右手だけで趣味の描画に励んでいるという。今この時代の政治の話題などのように個人個人それぞれの意見が無尽蔵にあるのとはかなり異なり、集団幻想とはいっても相当に折り重なる部分の多いのが過去の記録である。かなりあてにできるが、過去は統計に過ぎないということをうっかり忘れてしまわないように気を付けるべきだという念を強くした。


ロケット開発の4巨頭として、ロシアのコンスタンチン・エドゥアルドビッチ・ツィオルコフスキー(1857−1935)、アメリカのロバート・ハッチンソン・ゴダード(1882−1945)、ドイツのヘルマン・オーベルト(1894−1989)とウェルナー・フォン・ブラウン(1911−77)をあげている。ともすると、アメリカ独自のロケット開発があったことは忘れられがちだと思う。生没年から見ても、ドイツに先行していたかもしれない。量子力学の誕生でアインシュタインがすっかりふさぎ込んで神経衰弱になっていたころだというのに、宇宙空間では飛行できないというのが一般の通念だったというが、それはどうだったろうか。

大砲と比べればずっと穏やかな燃焼がロケット方式なのだが、それでもジェットエンジンと比べれば有人飛行機にはふさわしくなかったのかもしれない。ロケットエンジンとしては現在普通に見られる「熱型ロケット(二液式ロケット)」のほかに、構造が簡単で燃焼もより穏やかな「冷型ロケット(一液式ロケット)」があった。これは過酸化水素水を酸素と水素に分解するときに発生する水蒸気を推進力として用いるもので、魚雷の動力源として、ドイツのヘルムート・ワルターが研究していた。「冷型ロケット」はまた航空機やグライダーのブースターエンジンとしても実際に用いられた。安全性の面でも熱型ロケットよりも格段に優れていたという。

ソ連が大戦当初からロケット弾を多用していたことは知っていたが、連合軍では1930年代からイギリスが実戦配備し、バトルオブブリテンの蔡には3インチUロケット弾を防空兵器として使用していたという。イギリスは固体燃料ロケットしか使用しなかったが、その技術はアメリカを上回るほどだったそうだ。しかし、迎撃用としてそれほど有効であれば、なぜ命中精度の極端に低い高射砲をあれほど多用したのかという疑問が生じる。固体燃料に関しては、日本やドイツで開発されたものは、ソ連軍や連合軍のような完成度はなかったそうだ。日本はともかくドイツにこのような遅れた面があるとは意外であった。びっくりするほど技術力に優れていたわけでもなさそうだ。

国土が連合軍の戦略爆撃の目標となると、ドイツ、日本とも高射砲を上回る能力の地対空ミサイル開発に注力していた、というのも初めて聞いたことのように思う。特にドイツのバッサーファールはV2号を小型にして翼をつけたようで、無線誘導で敵爆撃機を追尾するものだったという。そうした迎撃システムが大戦末期に存在していたという報道はあまりなされない。日本では「奮龍」という地対空ミサイルを試作したが、実験段階で終わっていたらしい。ドイツにおいてはすでに空対空ミサイルも製造していたそうである。


さて、フォン・ブラウンがハインケル社社長のエルンスト・ハインケル博士に最初に出会ったのは1935年のことだったという。フォン・ブラウンが先駆者3人と異なる点は、ただの理論家や技術者というよりも、世俗の問題で抜け目がなかったことらしい。フォンブラウンの夢は有人宇宙飛行だったが、ハインケルのほうは飛行機を早く飛ばしたかっただけだった。だから彼はゴダードのように、宇宙へ行きたいなどという突拍子のないことを口走って、ロケット開発自体をあらかたご破算にしてしまうような真似は決してやらないで、うまくハインケルをたぶらかすことに成功した。

最初のロケット実験機は、液体酸素を操縦席の前方に、燃料のエチルアルコールのタンクは後ろに置かれた。実験は何度も行わ会たが、爆発事故の多い危険な作業だった。死ななかっただけでも運がよかったのだろう。名を残す人間というものは大概そうしたものだ。それに失敗が嵩む度にたいへんな損害が積もるから、相当の楽天家でないと実験費用の無心もできない。どうしても爆発するからか、空中でロケットを添加することにしたらしい。それで試作機には機首にプロペラが付いている。離陸するときは普通のピストンエンジンを使う。これで最大の危険は回避できたらしい。テストパイロットの身の危険を思っての配慮でもあった。1937年末にテストパイロットのバルジッツはHe112実験機のロケット飛行に成功したという。まだ時速400キロどまりだったそうだ。この成功で次に夢の高速化を目指そうと試作されたのがHe176であったが、研究班とは反対に空軍の評価はさっぱりで、結局頓挫したそうだ。どう見たってロケットは宇宙で飛ばすものであって地面のそばを飛ぶものではないのだから致し方ない。

資料により年代がはっきりしないが、小型無尾翼機のDFS194というのも開発されていた。こちらはメッサーシュミット社が主体らしい。ロケット迎撃機Me163の開発につながった。ジェット機などでは得られない上昇力がロケットにはあったからだろう。もともとはリピッシュ博士のロケット・グライダーの成功(1928年)をもとに研究が続けられていたという。飛行のための補助エンジンという考え方のほうが時代の雰囲気には合っていたのだろう。今はロケットといえばフォン。ブラウンの方で、リピッシュ博士の名のほうはほとんど顧みられないが、当時は全く逆だったようだ。資料がまちまちだというのも、軍部の偽情報のためかもしれない。俄然有望視されていたようだ。

1941年夏までにはMe163Aも何機か出来上がり、ペーネミュンデで陸軍のV2号(A4)や空軍のV1号の飛行実験とともに行われることになった。テストパイロットは古くからのディトマーが務めた。速度は時速880キロに達した。ここでふと思うのだが、あのノルマンディー上陸が1944年6月6日だから、ずいぶん前に出来上がっていたことになる。3年もの間何をしていたのだろうか。時期的にはバルバロッサ作戦の発動でソ連進撃が順調に推移していたころのことだ。それはそうと、10月2日の実験ではついに時速1000キロを突破したが、激しい揺れのため減速した。しかし12月からは武器を取り付けたMe163Bの製造に入っていた。しかしAタイプと異なり燃料を2液式とパワーアップしたので、ここから事故が続出したという。

2液式にこだわったのは、1液式では推力調整ができなかったためだという。推力調整になどこだわらずに、そのまま体当たりでぶつけてしまうことにしていれば、案外早く地対空ミサイルの製造にたどり着いたかもしれない。とにかく2液式は危険な爆発事故が相次ぎ、整備員まで犠牲になるに及んで、メッサーシュミット博士と、元来招かれたはずのリピッシュ技師の間が険悪なものになっていったという。リピッシュは1942年5月にはウィーン航空研究所へ転出したが、エンジン燃焼以外のテストがすべて満足のいくものだったので、実験は強行され、ようやく1943年の7月に実用化の運びとなったのだという。しかしその後も事故は相次いだという。なぜミサイルに目がいかなかったのか、今から見るとだいぶ疑問に思うところだ。ロケット機は1万2千メートルまで2分半ほどで到達したという。離着陸は敵機に遭遇するよりも危険だったらしいが、うまく飛行できた場合の気分は最高だったそうだ。パイロットたちの高評価も影響していたかもしれない。それでもロケットは大変な燃料の消耗が激しい。有人では帰ってくるまでが無駄だ。

Me163Bが初めて敵機と対戦したのは1944年の7月28日だったそうだが、5機のロケット機が、米軍のP−51に護衛されたB−17を発見したものの、一機も撃墜できなかったという。相対速度が大きすぎるうえ、射撃時間が限られるので、弾が当たらないのだ。そのうえ、被弾すればたいてい大爆発だから,直に連合軍の餌みたいなものになった。全然役に立たなかったらしい。それでドイツ軍の方はどうしたかというと、今度は50ミリ砲を光電装置と連動させて自動発射するシステムを開発した。大型機の下に潜り込んで一瞬暗くなった瞬間に50ミリパンツァーファウスト無反動弾を発射する。もともとは対戦車用のものだから、一発当たればやっつけられるという仕組みだ。しかし、たった一度使用しただけで、そのころには敗北が決まっていたらしい。

なぜこの段になって改良を試みたのかよくわからないが、Me262ジェット戦闘機の指導的設計技師のウォルデマー・フォイクトの再設計により、誕生したMe163Cは1944年7月6日の試験で上昇中についに音速を越えたとされる。テストパイロットのオピッツはすぐに急降下し、基地に着陸したが、衝撃波のため垂直尾翼の方向だが破損していたという。しかし試作機を3機作っただけで、ソ連軍が侵攻してきたので破壊したという。Me163はⅮタイプまでつくられた。いままでのMe163がそりで離着陸するのに対し、これは引き込み脚式の車輪式だった。設計はメッサーシュミットからユンカース社に任されたが、いったんJu248として作られたものの、名称はMe263となったらしい。またドイツ空軍の暗号作戦か、何なのか?

次に、バッヘムロケットのことが書かれている。フィーゼラー社のエリック・バッヘム技師がフォン・ブラウンが1930年代の終わりに考えていた垂直発車式ロケット迎撃機にヒントを得て開発という。高度1万2千メートルまでは垂直に上がって、それからブースターを切り離し飛行を開始するというものだったという。垂直に上がるという点も横から見た形状も、現在のスペースシャトルを思わせるものがある。スペースシャトルが不対称な形で垂直に打ち上げるのを見ていて、かねがね不思議に思っていたが、原形がこんな所にあって、もうテスト済みであったので、アメリカはろくな試験もせずに垂直打ち上げができたのだろう。1944年の12月に初の滑空試験が行われたが、この時は飛行機に曳航されての実験だったという。垂直打ち上げ(80度程度)では戦時中とはいえ、さすがに人形を操縦席においての遠隔操作だった。空軍はこんな実験は無駄と決めつけていたようでもあったからだ。実際有人ロケットが戦いの役に立たないことは明らかなようであったので致し方ない。Ba349と名付けられていたこのロケットがテストパイロットのジーベル中尉を乗せて初の有人飛行に挑んだのは、1945年の2月28日だったが、見事に失敗し、裏返しで地上激突してしまった。しかし、その後は3回続けて有人の打ち上げに成功したという。4月頃には量産化が決定していたというが、もう爆撃機の編隊はほとんど来襲せず、地上部隊が迫っているというのに、量産化などしてどうするつもりだったのだろうか?

Me262ジェットにワルター・ロケット・ブースタを付けた製品も1944年の12月から始められたが、翌3月頃やっとできたばかりでもう遅かった。しかし3分で高度8000メートル以上上昇することが出来、従来の10〜15分もかかる遅い上昇速度が解消できた。


ドイツの有人ロケット兵器については異常で、次に各国の話が進む。まず日本の「マルダイ部品」だ。完成品は「桜花」と命名され、米海軍からは「バカボン」(BAKA Bomb}と呼ばれた。1944年8月から空技廠で設計が始まったという。3週間後には試作機が出来上がり、10月の末には実験に取り掛かった。実験から2日後の10月25日のレイテ海戦で敷島たいと呼ばれる体当たり攻撃が実施された。あまりペースが速く、漫画でも読んでいるようだ。ドイツと異なり困難な誘導制御は避けて人間に機械の代わりをさせるのだから成功が続くのは当然だ、などと筆者は語っているが、そうとも言い切れないような気もする。1945年4月12日に駆逐艦マナート・L・エーブルが最初の撃沈記録だったそうだ。撃沈成果はこの一隻だけだったらしいのがむしろ幸いだったと思う。どう見ても成功したら不名誉となるのが世界の常識で、これを大和魂の極意と思い込んでいた日本軍は相当の精神錯乱だろう。

潜水艦でドイツのロケット戦闘機の実情を知った巖谷英一技術中佐は、『とても実践では使い物にならないだろう』と踏んでいたらしいが、1944年7月14日に無事帰国できて、上層部のロケット兵器に対する期待感が強いのに驚いたという。Me163のことだ。実物を運ぶ潜水艦は撃沈されたので、巖谷中佐のもちこんだ資料を基に、Me163Bのコピーを作ることにした。陸軍ではキ100、海軍ではJ8Mと称された十九試局地戦闘機「秋水」であるが、本場のものと比べると最高速度も若干劣るようである。しかしドイツで散々苦労した二液式燃料の燃焼実験は四か月もたたないうちにクリアーできた。秋水とはもともと切れ味の良い日本刀のことで、これでB29を斬ろうということらしい。1944年末までに試作0号機と1号機が作られ、1952年1月2日に完成した。しかしエンジンテストがうまくいかず、7月7日に1度で毛試験飛行が行われたが、失敗し、結局終戦までに完成したのは5機に過ぎず、実戦で使用されることはなかった。


日本は独自でロケットを生産したわけではなかったが、独自で開発できる能力を持っていたのはソビエト連邦である。何しろロケットの父ツィオルコフスキーの国だ。ドイツでもロケット機は固体燃料という1930年のはじめに、ソ連ではすでに液体燃料の試験が行われていた。モスクワのロケット研究団とレニングラードの気体力学研究所だ。レニングラードのほうは2液式であることがはっきりしているらしい。1934年には高高度で飛行するために与圧室付きのロケット実験機まで製作していたが、ドイツとは異なり、ロケットは大気圏外へ有人飛行させるための乗り物という意識が強かったのかと思う。ちょうど資本国が世界恐慌のあおりを受けて失速していることでもあって、ソ連のロケット技術のほうががぜん進んでいたはずである。しかし多少は困惑したことでもないと人間の技術というのは進まないのか、ソ連の開発技術はその後40年代まで停滞してしまう。必要は発明の母とか何とかいうやつだ。スターリンが技術者を粛清したからだといえば説明はつく。ロケット技術のようなエリートの玩具は共産主義にはふさわしくないとすればよい。だがそれはいかにもおかしな説明で、資本主義側の勝手な決めつけかもしれない。一般市民側こそロケット開発に反対していた可能性は大きい。今では完全にそうだ。そんな金があったら貧乏人に回すべきだとするものは多い。そのうち戦争が激しくなったため、ロケットを航空機に利用しようという概念が生まれたらしい。航空機は低空を飛行するものという印象が強いのは、高空はジェット機、宇宙はロケットという色分けの概念がロシアには強いせいかもしれない。ロケットエンジンが航空機の動力となりうることを確認した実験が行われたのは1940年2月28日のことだったという。グライダーにロケットエンジンを取り付けたもので、飛行試験は9回行われ、30分飛行した例もあったという。時速は100キロから150キロと、航空機は速くなければならないという発想というものがそもそもなかったようである。遅ければ長く飛べるという気持ちか、その方が結局長い距離を稼げる。

ソ連が本格的に迎撃用ロケット戦闘機の計画を考えたのは、1940年の末のことらしい。ベレズニェク・イサエフBIという迎撃機だ。モスクワに開発チームが置かれたが、ドイツ軍が攻めてきたので、ウラル山中の製鉄所に疎開したこともあって、ちょっと研究が遅れたようだ。最初の機体ができたのは1942年の初頭ということだ。2液式燃料の燃焼も、ドイツよりはスムーズにいったらしい。テストパイロットのバフチバンジェは5月15日の飛行を成功させたが、ドイツのやり方とは大違いで800メートルまで上昇して、後は周回飛行をして着陸した。しかしその後はなかなかうまく事が運ばず、7回目の飛行が行われた1943年3月27日にノズルから黒煙が噴出した直後空中分解のためバフチバンジェが殉職。それで計画は中止となった。もうこの時期になると、新型機など無理に開発しなくても、在来期の量産で十分勝てることが明らかになってきたこともあるのだろう。

しかし、1944年夏ころになると、ドイツ軍のジェット爆撃機でモスクワを爆撃されるという懸念が出てきた。勝ちが進むとかえって心の中は不安になってくるものである。それでおっつけラボーチキンLa−7戦闘機をロケット型にしようという計画が進んだ。そうしてできたのが、ラボーチキンLa−7Rだが、1944年の暮れにはテスト飛行している。やはりロケットは補助ブースターとしての使用がベストだと思う。ソ連はその後もヤコブレフだとかスホーイ戦闘機のロケット化を進めたが、どうもこの国は初めは調子よくても次第にだめになっていくようだ。ということは個人のひらめきに頼って集団での積み重ね計画が不首尾だということが大いに考えられる。筆者は「ソ連軍機の開発は、開発失敗や事故が続くと粛清、投獄の対象になることが多かった」としているから、わざわざそういう状況では無理な開発は心見ないものなのかもしれない。


大国アメリカでもロケット戦闘機などは実践に役立たないということになったかというと、案外そういう人ばかりでなかったらしい。陸軍では1939年からロケットに注目していたという。多少戦線から離れていたところにいた安心感からか。ノースロップ社の創業者であるジャック・ノースロップがこれに注目した。全翼式爆撃機の動力源に利用できると考えたらしい。1943年初頭にXP−79として陸軍と開発計画が結ばれたそうだ。テストパイロットのハリー・クロスビーが腹ばいになって登場したロケット機MX−324(3号機)が飛び立ったのは1944年の7月5日だった。時速は434キロだったという。これがアメリカ人による最初の有人ロケット飛行となった。しかし自力で離陸することは、その後何度試みても出来ず、結局計画は中断したそうだ。
---------------------------------------------
大して役に立ちそうもない有人兵器は戦後宇宙開発部門へと引き渡され、兵器としてはドローンか誘導ミサイルだ。ドイツ軍が軍用ロケットの開発に乗り出したのは1933年のことだった。ちょうど大恐慌の時期に当たる。巷では餓死する人間も数多かったころだが、そういう風に平均でものを見てはいけないのだということをつくづく感じる。いやむしろ世の中が平均して貧しいほど、突出して富を蓄えるものが輩出してゆくものだ。大体において現場から遠く離れたものほどこうしたことは無視しがちだ。遠く離れるとは空間的だけではなく、時間的にもいえることだ。

そうした中で、弾道ロケットの研究は進められた。いろいろな知識を必要とするので、ロケットの頭文字には「A」が付いたそうだ。[Aggrigate]とは、集積・総合・集合体というほどの意味だそうだ。A1は地上での燃焼実験のみで、1934年末完成のA2からが打ち上げ実験だ。A2はまっすぐ打ちあがるかどうかだけが問題だったので、ライフルの弾丸のようにロケット自体が回転していたが、A3以降は姿勢制御のためにジャイロと安定板が用いられた。A3開発のころから実験場がペーネミュンデに移った。A3は1937年末に完成したが、打ち上げは4回とも失敗した。

A3の失敗により既に開発が進んでいたA4は一時中断し、やや小型のA5が作成実験された。このロケットを量産化したのはフォン・ブラウンだという。A5が宇なくいったので大型のA4が製造され、ゲッベルスにより[Verugerutungswaffe2](法服兵器2)と名付けられたそうだ。ドイツがロケットに前向きであったのは軍縮条約の規制対象にロケット兵器が入っていなかったからだそうだ。大砲のほうが命中率がはるかに高かった。これは15世紀ころまでの弓矢と鉄砲の関係に似ている。しかしヒトラー自身はこのロケットに対しかなり否定的だったという。A4の設計は1936年3月26日に始まった。2度の打ち上げには失敗したが、3度目の1942年10月3日にはうまくいった。

V2が実践化される前の1943年8月17〜18の夜間にペールミュンデはイギリス爆撃隊の大空襲を受けて壊滅的な被害を受けた。そののち1944年9月6日にパリに向けて初の実戦機が打ち上げられたが、これは途中で墜落したという。しかし8日にパリとロンドンに向けて打ち上げられた方は到達した。V1ジェットと比べて、マッハ5と桁違いの速度で落ちてくるので気球などでは防ぎようがなく、チャーチルは一時首都の疎開を考えたという。終戦までに、ベルギーと英国にそれぞれ1700発、1400発が撃ち込まれ、それ以外は150発を越えたくらいだったそうだ。しかし、ドイツの財政にとって多額の出費となり、より重要な地対空ミサイルの開発をそいだので、戦略上の効果には疑問を抱かざるを得なかったというのが多数派の見解だそうである。

A4ロケットの射程は約330キロだったという。ドイツ本国からだと届かない。大陸間弾道弾にするには多段式ロケットが必要で、それが2段式のA9,A10計画であって、アメリカを標的にするつもりだったそうだ。有翼型のA9の開発は1942年の10月に開始されたそうである。いったん中断されて、A4の実践投入にい技術陣が終結されたが、開発が再開されるとA9はA4−b計画と改められた。内心は弾道弾ミサイルなどよりも宇宙開発用のロケットを研究する目的だったらしい。それでナチスの目をたぶらかすカムフラージュみたいなものだったようだ。1945年1月8日に最初の打ち上げが行われたが、これは失敗したという。1月24日の3度目に高度80キロメートルまで達した。


ページを追ってメモしながら読んできたが、次にいよいよ目指す誘導弾のことが書かれていた。地対空ミサイルEMWC2バッサーファールである。高高度を行く重爆撃機の編隊を攻撃目標としたものであって、成層圏まで上昇できれば良いため、A4に主翼による安定と大きめの空力舵を持たせたところがA4−bに近い。注目すべきは誘導システム「ラインラントA」のほうだ。垂直に上昇した後は攻撃目標に向きを変え、地上からのリモートコントロールだ。爆撃編隊に十分近づいたところで大爆発させれば複数機を一気に破壊できる。1941年には具申されていたが、1942年の夏過ぎになってようやく開発が始まった。ところが制作はさらに遅れ1944年の1月からになったという。なぜか重要だとはみなされなかったようでもある。1945年2月に開発中止となったが、多くの部分が現在の地対空ミサイルに応用されているという優れたシステムだった。

次にヘンシェルHs293のことがあげられている。1943年春には実戦配備されていた世界初の対艦ミサイルであるが、形状からいうとあまりミサイルとはいえず、むしろ航空機である。昔からドイツの秘密兵器といえば真っ先に登場するものだと思う。V2号が人口に膾炙しているのは多分フォン・ブラウンの宇宙開発があったからだろう。その次くらいに知られている。ただサイズが大きすぎて空軍からの需要があまりなかったという。テレビ誘導型まで製作していたという。弾頭部にテレビカメラ、尾部にアンテナといういでたちで、湾岸戦争で見たものと同じだ。「バーチャル体当たり」方式だとある。


舷側を狙う航空魚雷としての役割はHS293にもあったが、それをさらに徹底させたものが「ブローム・ウント・フォスBv143」だという。1938年にすでに開発が試みられていた。実戦では一度も使われることはなかったという。イタリア海軍の戦艦ローマを一撃で撃沈したフリッツXを開発したルールシュタール社の空対空誘導弾X−4(1943年開発)の姿はいかにも近未来のロケットのようだ。ただし無線ではなくて有線誘導だった。有線だと途中でワイアが切れてしまいそうだ が、最初だけであとは自動ホーミングかもしれない。プロペラ音が適当に大きくなったところで信管が作動して爆発する仕組みだったという(*)。1000発以上が製造されたが実践出た使用されなかったそうだ。探せばいろいろな兵器があるものだ。そのほか固体燃料式のものもあったが、これは近未来のデザインではなく、小型航空機のようなものだった。
(*)赤外線センサーまたは音響センサーを使った信管型ではなくて時限式なら、戦艦大和の46センチ三式弾というのがあったが、全然役に立たなかった。対空砲は当然そういう形式であったはずだから、まとめて複数機を撃ち落せそうなものだが、あまり役に立たなかったらしい。多少はうまくいきそうな気もするから、記録に残っていないだけで、少なくとも初期にはそれなりの破壊力があったのかもしれない。発射速度の大きい大砲では発射時の衝撃が強すぎてどうせ壊れてしまうものなのだろう。やはりロケット砲の穏やかな加速を持った自動爆破式でなければだめなようだ。

Me163ロケット戦闘機の無人化も設計されていたという。1943年の末のことのようだ。Me163Eまたはメッサーシュミット・エンツィアンという。上から見ると有人の163をずんぐりさせたようだが、横から見ると上下対象の形をしていた。88ミリ砲の砲台をベースにした発射台が用いられた。機体は木製だったという。60機作られたがやはり実戦では用いられなかったそうだ。

ユニークなのはラインメタルボルジク社の2段式固体燃料ロケット誘導弾だ。空飛ぶ烏賊という形をしている。1945年2月下旬までに20回以上発射実験が行われたが、その後中止されたという。


日本でも三菱、川崎といった企業が開発を企てたが、いずれの空対空ロケット弾であったので、母機がやられたならそれでおしまいという危険なものであった。ただ射出してお終いというのではなく、誘導制御式だったのが自慢できるといえば自慢できるところかもしれない。何しろ日本軍は精神主義を除いたらおよそ理性的なところはなかったかのようにいわれている。1944年も半ばころになって開発が始まったが、遅いのは無理もない。ちょっと驚いたのは、川崎でテストしていたロケット弾が熱海の温泉旅館に落ちて民間人の死者をだしたことだ。1945年の2月というが、このころまだ温泉旅館など営業していたのかと思った。この時期になってもまだ一部の日本人は余裕で道楽を楽しんでいたのだとすると、現在などよりずっと昔の日本のほうがバラエティに富んでいることになりそうだ。


さてアメリカのほうは1943年ころからロケットミサイルの開発を進めていたらしいが、もともと地形的に空襲の恐れがないのでさして本気にはやっていなかったのが、日本軍の体当たり攻撃を受けてから、慌てて防空の研究に本腰を入れ始めたのだという。1944年晩秋の「カミカゼ・アタック」からだ。海軍は電波誘導式のリトル・ジョー対空ミサイルを最初に開発したたが、固体燃料だったためか、速度も640キロと遅いものだった。それで2液式の液体燃料ミサイルラークの開発を民間企業に委託し、終戦後の1945年12月に1号機が出来上がった。これが現在ンパトリオット迎撃ミサイルのひな型だそうだ。


後は無誘導弾についてかかれているが、イギリスの商船防御用に開発されたスパイダーワイヤ式のパラシュートロケットの発想がユニークだったくらいだ。打ち上げ後パラシュートでゆっくり降下しながら、垂らしたワイヤで飛行機をからめとるものだったらしいが、非常に難しかったという。しかし成功例もあったのだろうか。



WW2世界のロケット機 有人機・無人機/誘導弾・無誘導弾 (光人社NF文庫) [ 飯山幸伸 ]
楽天ブックス
有人機・無人機/誘導弾・無誘導弾 光人社NF文庫 飯山幸伸 潮書房光人社ダブリューダブリュー ニ セ


楽天市場 by WW2世界のロケット機 有人機・無人機/誘導弾・無誘導弾 (光人社NF文庫) [ 飯山幸伸 ] の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「WWU世界のロケット機」 森の散歩/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる