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zoom RSS 安重根と伊藤博文

<<   作成日時 : 2018/05/05 09:58   >>

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何年かぶりに、安重根を検索して見ると、最近になって随分彼に関する本が出されていたことを知って、早速その中の一冊「韓国人が知らない安重根と伊藤博文の真実」というのを取り寄せてみた。筆者は、中国生まれの韓国人3世の金文学という人だ。朝鮮(大韓国のことを「韓国」と呼んで統一しているのが少しややこしい。

パラパラとページをめくってみると、安重根の身長は163センチ、伊藤博文は161センチとあった。明治の人間として伊藤博文は日本人の平均だと思う(*)が、安重根を指して当時のロシア人は「小男」とみていたらしい。ハルピン駅の事件が起こった年は1909年だ。この当時の韓国の印象は大変良くないもので、どの西欧人にも「無知で未開な人々」と映り、また「怠けもの」というありがたくない烙印を押されていたというが、筆者が韓国人なので多少自虐的なところもあるのかもしれない。「イギリスの外交官たちは、韓国の急務は改革であるとしたが、韓国政府の無能と支配階級の派閥抗争に失望した。故に韓国人には自ら改革する能力がないと診断し、韓国は当時日本のみに任せるしかないという結論に至った。」なんて書いてある。ちなみにここには「朝鮮」とは書かれていない。
(*)江戸の終わりころの日本人の平均身長が一番低く155センチほどだそうだ。16センチというのは縄文時代人の平均身長位あって、明治の人としてはさほど低い方でもない。ちなみに現在は20年前の171センチをピークとして徐々に平均身長が低くなってきているそうだ。今は167センチくらいだという。
朝鮮というと、なぜか知らないが地理的位置が近いせいか、『高句麗』がその最盛期だったというイメージがあったのだが、高句麗(〜668)は北方のツングース系民族より興った国であって、朝鮮とは違うようだ。高句麗といえば好太王の碑銘で知られているが、かの国の歴史においてはかなりの地になって建てられたもので、414年だといわれる。この碑文によって、4世紀末から5世紀の初めにかけて日本軍の大規模な朝鮮出兵が行われたことがわかり、大和朝廷の統一政権の成立が知れる(*)。だから日本人にとっては高句麗といえば朝鮮のイメージが強いと思う。それどころか、高句麗の小規模な墳墓が畿内のそれと類似していることから、日本そのものの由来が高句麗だった可能性もある。もっとも大和朝廷が九州にあったとすれば、この九州の大和朝廷が畿内の異邦民族を倒したとも、逆に異民族政権の大和朝廷が吸収されたとみることもできる。
(*)「百済新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭は辛卯の年(391年)を以て来り海を渡り…」というやつだ。西の方ローマなどでもそうだが、文化国家に浸った住民は蛮力にはどうしても弱い。朝鮮民族はローマ文化の洗礼を受けたイギリスに似通ったところがあるのだろう。同じころあっという間にサクソン人の侵入を許したイギリスと高麗や日本にやられた朝鮮を見ると歴史の流れはどこも同じようだ。朝鮮も漢民族の支配下で繁栄していた(箕子朝鮮、衛氏朝鮮)が、長年穏便平和な時代が続いたので、軍事力らしいものは全くなかった。

筆者の金さんは日本における安重根の評価は高く、義士とみる人の多かったことをあげている。高々25年前の日本はそんな様子だったという。金さんの周りの人はそうだったかもしれないが、現在の日本政府の対応を見ていると、そんな風には感じられない。ネットを検索してもそうした人が多かったとは思えない。ただ全員そろって、「親日であり天皇に対する忠誠心が高い人だった」とは語っている。しかしそうした人は非常に少ない。

韓国で安重根が英雄視されるほどには、日本における伊藤博文は英雄氏はされていない。むしろ知識人の間の評価は意外に低いという。筆者は、戦後韓国に対する一種の負い目がそうさせているのだとしている。明治の遺勲全般に言えることだが、伊藤博文は特にわいろの名人だったといううわさもある。この事も低評価の一因かもしれないが、金に淡白なだけであって、大判振る舞いをしただけだったのかもしれない。しかし、日露戦争などの戦争にも反対した平和論者であって、清国との協調外交を主張した消極的指導者であったという。とすると、軍部などにはむしろ邪魔な存在であったことがうかがい知れる。安重根によって伊藤博文が暗殺されたという事実は以降の日本の侵略行為に都合がよかったのかもわからない。伊藤博文がいたなら朝鮮併合は不可能であっただろうからである。安重根は、孝明天皇を暗殺したのは伊藤博文だと信じていたというが、そんな入れ知恵をしたのはまた関東軍ではないかなどと思ってしまう。

伊藤博文の本名は利助といい、1841年の9月2日に生まれたそうだが、9月2日というのは安重根の誕生日でもあるそうだ。どちらも「国(9・2)の人」と見れば覚えやすい。周防国熊毛郡束荷村(山口県光市大和町)の農家に生まれた長男だ。家が破産したので、家族ぐるみで下級武士である伊藤家の養子になった。

16歳で松下村塾に入るが、吉田松陰の印象は「才覚には優れていなく、愚直さがある」が「僕すこぶるこれを愛す」として、〈周旋家〉と博文を形容していた。しかし、頭の切れはさほどでもないが愛くるしい男といえば、「周旋家=太鼓持ち」くらいしか頭に浮かばない。

1859年10月27日に松陰が処刑されたことで、剣術は高杉晋作や木戸孝允た。そして1862年2月に2件の暗殺事件に連座した。イギリス公使館焼き討ちと国学者の塙次郎の殺害である。公使館焼き討ちの件では火付け役で人は斬らなかったが、次の件ではどうだか怪しい。このテロリストとしての行為が伊藤博文の評価を貶めている原因かもしれない。吉田松陰は討幕派であって、弟子たちに「草莽の志士」を期待した。このころはまだ博文とは言わず利助と名乗っていたが、安重根と同じようだったようだ。改名してから進む道が変わったらしい。先輩の高杉晋作に勧められ、論語の「雍也篇」に在っる「君子は博く文を学び、…」からとったのだという。

1863年5月にイギリスへ密航留学するのだが、これは長州藩の判断である。放火犯人であったりした人間を何のお咎めもなく留学させるという世相だったのか、何だかわからないが、妙な時代だ。ともかく留学先では理学関係の学問を学んだ。伊藤の英語力は流ちょうなものだったらしい。周囲の欧米人の評価は「利発かつ有能な人物」と、吉田松陰の印象とはだいぶ異なる。松陰の下での学業はあまり愉快なものではなかったのかもしれない。伊藤には横につながる数字を見ている方がよほど面白かったのだろう。当初3年の留学予定期間をわずか半年で切り上げて帰国している。この辺は弘法大師のようなところも感じさせる。伊藤は帰国後も洋書を読破するのを楽しみとしていた。

1871年に伊藤がアメリカで行った英語のスピーチは痛く欧米人を感激させたそうである。非常に英語が堪能であったようだ。この時の岩倉使節団に同行した最年少の大蔵少輔伊藤博文は31歳だった。今の政治家のイメージとはかけ離れている。

初代首相となったのは1885年12月から88年4月までだ。

日本統治の要領で朝鮮も繁栄させようと目論んで1906年3月にソウルに赴いた。老齢だから日本にいればよいのに、朝鮮を軍人の統治に任せては大変なことになると懸念していたらしい。台湾以上にひどいことになると踏んでいたようだ。南方の民族と違って、朝鮮人は目つきが鋭くて反抗しているような感じだから、軍人気質のものだと何をするかわからないというのもあっただろう。

それにつけても、当時朝鮮に滞在していたイギリス大使などのこの地の人民に寄せる評価の低かったことには驚いた。「この小さな国は、独立を維持するにはあまりにも腐敗していて、独立を通して利益を得るにはあまりに衰弱した」などとある。つまり、「統治しなければいけないだろう」といっている。この当時の人は土着民のことを「土人」と書いて統一しているが、現在「土人」というと差別と捉える向きが多いので、これも感情的によろしくなく、日本の侵略が日露戦争に始まったとする反感を招いているのかも知れない。当時の通念に反して、伊藤博文は「3千年来国の文官を被りたるものなければ文学上の造詣も浅くない」と朝鮮人を高く評価した。前半よくわからないが、3千年来といえば、紀元前1100年ころとなる。司馬遷が箕子朝鮮の始まりとしていた年だ。伊藤博文の信じていた朝鮮の始まりはそうしたものだろう。政治的腐敗をもたらした元凶とされる李氏朝鮮にしても、人材不足で憂えていたとも思えない。国民自体の資質には何ら遜色がなかったように思える。

1906年10月に、新渡戸稲造が訪韓して伊藤博文と会話した。伊藤は「朝鮮に内地人を移すという議論がだいぶあるようだが、吾輩はこれに反対しておるのじゃ」といったそうである。怪訝に思っていると、「君、朝鮮人は偉いよ。…この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。」といった。政治が悪いから国が荒廃したのであって、人民に才覚がないからではないという。しかし、どうにも半日のうごめきが止まらないので、とうとう1908年の7月1日に帰国した際、桂太郎内閣に総監の辞任を申し出るが受理されず、仕方なしに留任する。そうして翌年の4月にふたたび帰国した折、桂首相と古村外相に併合を促され、意外とあっさりとこれを受理した。植民地議会による文民統治の構想があったからだという。しかし10月26日に満州ハルビンで暗殺されそれはかなわなかった。ウィキには6名が銃弾を受け、うち4名が負傷し、伊藤だけが死亡したとある。

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いよいよ安重根の逸話であるが、彼の自伝『安応七歴史』は、伊藤暗殺後、旅順刑務所内で執筆されたという。太平洋戦争中の日本軍の横暴な功を思うと、意外なほどの厚遇で、さぞかしひどい拷問にあったのだろうなんて思っていたらそんなことは全くなかったらしい。考えてみれば1910年ころの日本社会というものは現在の日本と比べても自由な雰囲気に満ちていたかと思う。特に教育の自由度が大きかった。

「応七」というのは彼の字で、胸と腹に7つのほくろがあったことに由来するそうだ。この自伝は漢城(京城)嘉新派遣された堤喜明警視の訪問が終わった翌日の1909年12月13日に書き始められ、1910年3月15日に脱稿したという。自筆の原本は見つかっていないが、手書きの写本が2つあるそうだ。原本は日本政府の秘密金庫にあるんだろうなどと筆者は推測しているらしい。自伝のほか『東洋平和論』という著作もあるが、これは刑の確定後1週間で書いた未完の書だそうだ。安の人柄に惹かれた看守たちの多くの助命懇願にもかかわらず、同年3月26日に安の死刑が執行された。国の総理になった要人を暗殺した人物に惹かれるというのは、いかに彼に人徳があったかを物語っている。

安重根は幼年のころから『千字文』『朝鮮歴史』や『論語』『大学』などを学び、論語などはそらんじていたらしい。それでいて射撃の名手でもあった。「忍耐するところに平和がある」というのが彼のモットーであった。伊藤博文と違って、名家資産家の家に生まれた安重根は、16歳の時に文人の娘の亜麗と結婚し、二男一女をもうけている。1897年1月、19歳の時に父の安泰勲とともに神父ヴィレヘムの下天主教の洗礼を受けた。人間の霊魂は、草木の生魂と禽獣の覚魂の上を行くもので最も優れているというのが講演の常であったという。

『東洋平和論』において、西欧の殺人機会をひたすら導入しようとする伊藤博文の残酷政策はけしからん、などということが書かれている。西洋帝国主義的侵略行為はぜひとも阻止するべきであるという趣旨に旅順刑務所の幾許の看守が同調したのであるからして、日本人全般にしても、明治政府のやっていることはどこかおかしいという気分のあったことは否めないだろう。

もっとも、安重根は日露戦争に関しては、「数百年来、悪が横行する白色人種の先鋒を一撃で打ち破ったのは、古来稀有なことであり、世界万邦が記念すべき業績だ」と記しているそうだ。韓国や清国の人民の上下が一致して日本軍に協力したからこそ勝利があったとしている。そうして旅順を3か国が共同統治して、日本の指導の下に世界市民の信頼を勝ち得るようにするという構想を持っていた。東アジア各国の共同開発、多重言語教育、共同開発銀行、共同貨幣システム、共同軍事防衛体制などの構想は非常にユニークなものである。安の構想は、近代韓国の革命家のリーダー金玉均(1851−1894)の「三和主義」の影響を受けているという。そうして金玉均は福沢諭吉に学び、朝鮮の清国からの独立を目指した。日本ではこういう話は聞かない。どうも日本国内で教えられている通念も少し捻じ曲げられていそうな感がある。西洋諸国の朝鮮に対する評価にも疑問がある。戦後都合の良いところだけかき集めたのかもしれない。とにかく歴史というものは為政者の良いように改ざんできる。

安重根の旅順刑務所での15項目の「伊藤罪悪」証言はしばしば事実と相違しているそうだ。このくらいの人物でも伊藤にくしのバイアスで目が見えないのだろうか。思い込んだらいくら正論を述べてみても一向に信じようとしない人物というものは非常に多い。世論というものもだいぶ歪められたものだ。老人が往々にして自説を曲げないというのもこうしたバイアスの結果だが、しばしば老人は子供に帰るなどといわれるのは場違いな言葉である。固着観念から脱出できない老人には子供と違って学習能力はほとんどないからだ。

それにもかかわらず、旅順刑務者や法廷関係者の間では尊敬を一身に集めたという安重根の人間的魅力というものはどこから出てきたのだろうか。イエスキリストのような摩訶不思議な能力があったのではなかろうかなどと思ってしまう。筆者の感覚では安重根の日本における評価は今日においてもなお高いものがあるのに対し、韓国における伊藤博文の評価は極めて低いという。韓国から見れば、日本人はアメリカ人並みに自由な思考の場に満ちているように見えるのかもしれない。けれどもいささか日本を誉めすぎなのではないか、日本のような画一的なところもないのではないかというのが私の感想である。




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