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zoom RSS 『北海道を守った占守島の戦い』を読んで

<<   作成日時 : 2018/05/19 16:31   >>

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制空権の制圧という観点から太平洋戦争を簡単に眺めている書物で、昭和18年4月の本土空襲に衝撃を受けた大本営がミッドウェー、アリューシャンの制圧をもくろんだという話から、北方の様子が描かれる。太平洋戦争というと、つい南方の話が中心なのがほとんどであった。やや異なる視点から見た戦史ともいえる。ただし、ノモンハン事件で、日本軍の97式戦車がソ連のBT-7に太刀打ちできなかったなどという記述は日本側の史料の誤謬であるらしい。ウィキによれば、防御、攻撃力、重量とも97式が上とある。しかし現場で実践に遭遇した兵士の証言ではソ連軍が圧倒したという。なんともつじつまが合わない話だ。製鉄に関しても、冶金に関しても、技術力は当時から日本は世界有数以上のものがあったはずである。性能自体のデータが同じであれば、実際にはそれ以上に優れていたとみるべきだろう。もともと97式戦車というのは散弾専用に作られたものらしいが、戦車に向かって散弾を打つような兵士はいないだろうから、BT戦車というのは何か他機種の見間違いかもしれない。97式戦車についてうんぬんするのは、後に占守島に移送されて活躍したのがこの時の戦車であったらしいからだ。使い方次第では旧式のものでも案外使えるのだろう。しかしアメリカのシャーマン戦車の装甲が貫通できないような97式戦車がソ連軍の機動部隊を撃破できたのか疑問に思わないでもない。アメリカ戦車にしてもソ連戦車にしても丸っこいから、見た目の良いドイツ戦車と比べて破壊しにくいのが普通だ。それに加えて戦争も後半になってくると、哺乳類が恐竜に勝ったような逆転現象が起こってきて、当初戦車というものは歩兵に勝つのが当たり前であったのが次第にそうでもなくなってくる。ジャンケンではないが、歩兵<軽戦車<中戦車<重戦車<歩兵みたいなことになってくるらしい。大戦末期のドイツ歩兵はわずか数人でイギリス軍の重装甲歩兵戦車チャレンジャーを22台も撃破したそうだ。

日本政府はいつも「一方的に」というが、あまりそうでもなさそうだ。この本にも「一方的に破って」などとある。どうしてそのように思うのだろうか。国際法的には明白にソ連に落ち度があるとは言い切れない。第一に、中立条約というのは不可侵条約とは明確に異なる。第三国に侵攻されていなければ意味をなさない。当時ソ連はどこの国にも侵略を受けていなかったのであるから、別段気分を害すれば日本に侵攻しても違反だとはいえない。第二に、中立条約を破ったのは日本が先であり、「友好的」でなければならないという条約の趣旨に違反している。第三にソ連に侵攻を委託したのは米国である。委託しただけでなく輸送船の無償供与なども行っていたという。昭和19年以降は、アメリカはソ連旗を掲げて、アラスカから占守海峡を経由してウラジオストークに軍事物質を輸送していた。第四にソ連はポツダム宣言に署名していない。日本の降伏そのものを認めていないのだから、勝手に攻め込んでもよいことになる。そして最後に五番目として日本は無条件降伏をしている。無条件降伏とは何をされてもあなたの意のままであるということだ。だから、米内光政などは「ソ連の侵攻は天祐」だなどといったのである。この五番目の点において日本はすべての謀略を受け入れたのだから、ソ連の行為を否定するような情けないまねはできないのである。米国にしても、生殺与奪の権を握っていた時期があったのであるから、ソ連以上の略奪行為を働いていた可能性も考えられたのであるが、戦後日本人の魂はヤンキー魂にすり替えられてしまったので、資本主義の悪行は見えなくなってしまった。ともかく、これ以上北方についてうんぬんするならば日本全土に水爆を落とすと怒り狂っているグループもあるのだ。彼らの目に、過去に拘泥する行為が如何に未練がましく女々しいものと映っているかを考えるべきであろう。

どこの世界のどの住人でもそうだが、過去の歴史というものは存在しない。それは現在人の頭の中にだけあるものである。日々刻刻、新しい情報が入るたびごとに書き換えられてゆくものだ。当然人ごとに過去の事実というものは変容してゆく。それどころか、最初から人の行動というものは、将来を予測して動いてゆくものだ。こうしたことを考慮できないから、人ごとに理不尽千万なことを平然と脳裏に描くことになる。中世位の昔はイギリスもそうだったらしいが、島国根性というのはどうも自分が正しいと一方的に思い込む傾向があるようだ。この点は韓国なんぞより激しいものがあって、それゆえいまだに日本こそ未開国であるとしている海外の評価もあとをたたないらしい。島国であると行動の制約を受けるというのも、固着観念を持つことになる一つの理由かもしれない。移動運動が少ないということは大脳基底核の活動を抑えることになるが、大脳基底核の活動が抑えられると、前頭葉の知的柔軟性の活動も抑えられるというのである。動作のぎごちない老人に頑固な人が多いというのもこの理由であるそうだ。理由がなくても、5人のうち4人まではどのみち理解できそうにない。


占守島の戦いにおいて、ソ連軍と停戦交渉の任務を引き受けたのは長島厚という大尉であった。この人が陸軍で最初に派遣されたのが満州であって、上に述べた第2点の中立条約違反の関東軍特別大演習の実施をし、ソ連攻撃の日にちまで決めていた時だったというのは皮肉といえば皮肉である。スターリンがこの時なぜ日本の違法を国際的に訴えなかったのかという点は不可解であるが、ドイツに一方的に不可侵条約を破られた時も何も言わなかったらしい。どうもわからないが、こうした点が「責任は自分だけがとる」という潔さとしてロシア国内で再評価されているのだろうか。相談したところで資本諸国には何もわかりはしないという気持ちだったとしたら、かなり精神面で追い詰められていただろう。本書には、機密情報をソ連流した新聞記者尾崎秀美と、ドイツ人記者を装ったゾルゲの活躍について2行ほど触れているが、直接日本の陰謀めいたことについては書かれていない。

占守島を南北に結ぶ道路がようやくできあがったのは昭和18年の10月の事だった。すでにアッツ島も玉砕し、キスカ等からも日本軍が撤退し、幌筵島に米軍の空爆が始まっていたころだ。道幅6,7メートルのこの占守街道も何度か空爆を受けていたかもしれない。その後一季節が過ぎて、昭和19年2月に、満州斐徳の関東軍戦車第11連隊に東京城へ向けて出発せよという命令が下った。それで戦車とともに無会社で向かったが、東京城を過ぎても止まらず、そのまま朝鮮半島に入り、さらに戦車のまま船に乗った。こういうことはよくあることだったらしい。そのまま日本列島を貨物列車で縦断し、2月26日の未明に小樽へ到着して、そこでようやく停まった。戦車11連隊の隊員たちは各々民家に分宿して次の命令を待つ。戦時中は軍人を止めるのも義務のようなものだったのかもしれない。そうして4つの梯団に分散されて、4月5日に小樽港を出発したが、途中アメリカの潜水艦や航空機に攻撃されたそうだから、すべてが無事だったとはいえそうもない。第91師団は、米軍の上陸地点を占守島と予想して、いくつもの洞窟基地を築き、ここに速射砲、野砲、歩兵等を配備した。まともにぶつかっては到底勝てる見込みのない戦車は土壁の中に隠して移動しながら攻撃する作戦だったらしい。一時4万3千の兵力が占守島、幌筵島を中心に配備されていたが、20年8月の時点では2万3千名に減少していた。これら陸軍兵のほか、海軍1500名が若干残っていたという。航空部隊はそれぞれ小型機が4機ずつあるのみだったそうだ。

8月20日から25日を対日戦参加ともくろんでいたソ連は、原爆が6日に投下されたことを知ると、あらかじめ日本政府へ情報が漏れることを妨害しておいたうえで、8日に中ソ日本大使館あてに日本への宣戦布告を申し入れ、よく9日に満洲へ侵攻した。この辺のテクニックのうまさもスターリンへの評価向上の一つの理由かもしれない。ヒトラーや東条英機と比べると、スターリンの本国での評価は異常なほどに高い。

ソ連が敵となったことが北千島に伝わると、衰退気味だった占守島の防衛軍も一気に活気づいた。ついに出番が回ってきた。軍人というのはやはり戦闘が身に迫ってくると、心が雀躍するものが多いのだろうか。それとも表向き強がりを演じているだけであったという現代流の評価が正しいのだろうか。案外戦士というものの本質は前者であったような気もする。そこが現在の自衛隊員の心得とは異なる点だ。

8月12日に、第5方面軍司令官樋口季一郎中将はソ連軍との全面戦争に備えるべく訓示を出す。第5方面軍とは北方軍のことで、北海道、南樺太、千島列島の軍事を受け持つ機関のことだ。つまり、北方軍がソ連軍との戦闘準備万端を整えたころ、ようやく玉音放送が流れたことになる。そう簡単に勢いが止まるはずもないから、その後も警戒態勢が続いていた時にちょうどソ連軍が侵攻してきたということになる。それで案外造作もなく撃退できたのだ。


そうとは知らぬスターリンは玉音放送の3時間後の8月15日の午後3時に、極東総指揮官ワシレフスキー元帥にクリル諸島奪取命令を出した。翌16日に、スターリンはトルーマンにあて、クリル諸島のすべてと北海道の北東半分及び東京の一部にソ連軍占領基地を置くことを要求したが、クリル諸島以外の要求については拒否された。それが不満でシベリア抑留となったとも思える。
何かと戦闘力のない日本軍に対して不意打ちをかけたかのように伝えられる傾向のあるソ連軍であるが、玉音放送の3日後の18日未明、まだ戦闘停止予定の午後4時までにはかなり時間のある間であるから、真夜中に砲撃しながら上陸してくる軍隊に対して、直ちに反撃命令を下すことが出来た。もちろんこの時点では日本軍は降伏したことにはなっていない。終戦記念日を8月15日などとしているのは日本くらいで、9月3日がようやく日本が降伏して太平洋戦争の終わった日である。


この日、占守島の北端に近い竹田浜に上陸してきたソ連兵は8800余り(*)で、北千島の守備に当たっていた91師団将兵は2万4千あまりであったから、比較的楽に撃退できたはずである。「スターリンとしては占守島を一日で占領し、その勢いで千島列島を奪い、あわよくば北海道の北東部を占拠するつもりだった」と書いてある。しかし、筆者の上原氏の記述は体験談に基づいているようなので、肝心の戦争体験者の記憶が変容してしまっていた場合は極めて不明瞭なものとなりかねないし、心理学的には記憶の変容はごく当たり前なのだという。例えば、満州は国際法に基づいて日本が支配した地域だなどとあるが、これなども当事者の記憶的証言に基づいた見解だろう。満洲国は極めて治安が良かったらしく、承認に傾いている国も多かったというから、当事者の記憶ではいいとこどりの変容となるだろう。傀儡政権とわかっていたとしても、清朝最後の皇帝溥儀にしてみれば、故郷満洲に国を再建できたのでまんざらでもなかっただろう。それを見れば、当事者としては『よいことをした』と思って当然だっただろう。占守島の戦いなどでも、戦後75年にもなれば、体験談では、「戦車と戦った」などという記憶も生まれてくるだろう。
(*)上陸部隊は歩兵ばかりで、戦車部隊や装甲車部隊といった機動部隊がなかったようである。砲兵といったものはあるにしろ、狙撃兵が中心であったようだ。戦車の機密がカムチャッカ兵士に盗まれることを恐れたスターリンがそう指示していたのだろうか。なぜ自国の兵隊にこういう命令が平然と出せるのかいささか理解できない。おまけに、米国から譲り受けたはずの上陸用舟艇を使った気配もない。旧式の船に無理やり重火器を乗せていたのでほとんどの船が上陸前に座礁し、わずか4門の大砲だけが水揚げできたのだという。無線機も一台を覗いて残り全てが使えなかった。それでよく戦えたものだ。アメリカ軍やイギリス軍なら、必ず機動部隊を上陸させるだろうし、兵士の数にしろ、日本軍を凌駕するほどの大軍を送ったはずだ。なんということをするのかと思うが、それでも現在大人気なのはなぜだろう。スターリンとは「鋼鉄の男」という意味だそうだが、『気力が充実していれば弾丸をも跳ね返す』などという信念の持ち主だったのではあるまいか。中国の太平天国の乱なんかもそうだったらしい。信者は弾丸を跳ね返す力があった。昔日本にも、クガタチ裁判というのがあった。スターリンは社会に出るまで神学以外の教育というのを受けていなかった。彼の政策を見ていると、どうしても神学の影響を色濃く見ることしかできない。信念第一であり、イエスの言うように「信仰があれば山をも動かせる」を政治に反映させたのではないかという気もする。強制収容所の生活にしても、修道僧たちの暮らしと比較すると、食事内容などはどうも収容所のほうが豊かであったと思うのだ。神学の理念に加えて、強固な愛国心もスターリンの特徴だ。レーニンが国家を無用視したのに対し、スターリンの方は何が何でも国家の再建に尽力した。ソ連とかロシアといった国体が維持できたのは、ある意味スターリンのおかげだ。国体の維持にしがみつく点では、日本軍が天皇制の維持に固執したのとよく似ている。愛国心にしろ、アンチ愛国心にしろ、どちらも毒にも薬にもなる。だから人間の生きる場では、ともすると「愛国心=アンチ愛国心」のように見える場合がある。

さて、日本軍は当面洞窟陣地数か所の約1000名ほどが応戦したが、武器といえば小型の戦車銃、機関銃のようなものしかないものが相手では、その程度で十分なくらいだったろう。何しろ弾丸の類は大部備蓄がある。好きなだけ野砲、臼砲、速射砲を連射し、ソ連軍の輸送船の類は大方撃破した。座礁した200メートルほどの沖合から泳いでくるソ連兵もかなり撃ち殺されたそうだ。カムチャッカのロパトカ岬から援護射撃を行ってくる4門の砲台は、こちらの15センチカノン砲で20分ほどですべて破壊したという。それでも狙撃に関してはソ連兵のほうが数段上であって、突進力ではまるで歯が立たなかったそうだ。日本兵は銃剣による突撃に優れていたなどとよく言われるが、突撃力はソ連が上で、まるで重騎兵並みだったらしい。ソ連兵といってもカムチャッカ兵中心らしいから、アイヌ人みたいのもいたのだろう。

日本軍の防衛システムについてもよくわからないところがあって、占守島に配備されていた97式戦車を出動させればたちまち撃退できそうなものなのだが、何時間たっても、これがなかなか出てこないようなのだ。それで日本軍も劣勢に追いやられるときもあったという。戦車というものはすぐには発進できないものらしい。終戦の知らせを受けて、戦車砲、無線機、機銃は外してあり、その午前戦車を海に沈める手はずになっていたからだという。敵に奪われるくらいなら沈めてしまえというのだろうか。なんともよくわからない。しばらくは用心するのが普通ではないのかとも思う。それどころか、戦争が終わったということで、戦車要員は皆で日本酒を飲んでのんびりしていたのだという。この暢気さには少々あきれるものがある。放送だけでは周旋に何ぞなるはずがない。降伏文書に正式な政府が調印しなければ戦争など終わっていないのだ。いったい何処のどいつが終戦などと決めつけたのだろう。今思えばまことに愚の骨頂である。もしもソ連軍が用意周到であって、中戦車でも揚陸させていたなら、一発ころりとやられていたではないか。

午前6時30分頃になってようやく戦車部隊が応援に駆け付けるが、歩兵の援護がなく、戦車部隊単独での攻撃だから視界が悪くて、思うように攻撃できないどころか、敵に囲まれるという危険もあった。ソ連兵は恐れることなく戦車に突進してくる。あまり接近してくると、戦車からは全く見えなくなるそうだ。それで歩兵相手でもかなり苦戦したという。ソ連兵士の中には、手榴弾を抱いたまま戦車の底部を爆破してくるものもかなりいたそうである。これなどもよほどの愛国心と復讐心がなければできないことで、そういえばソビエトの東方面の住民はシベリア進駐の際に家族を日本兵に虐殺されたものも多かったらしい。けれども多くの戦車は銃身2mほどの対戦車銃に横腹をやられて擱座したという。戦車連隊長の池田末男大佐も愛車が貫通銃創を受け、砲弾に当たって炎上戦士だそうだ。「在学中の大学生まで動員せねばならぬほど戦禍を拡大した軍上層部は間違っている」と語っていたそうだが、現場の軍人もだいぶ軍には反感を持っていたのかもしれない。

結局幌筵島から急行してきた樋口大隊の援護を待ってようやくソ連軍の撃退に成功したという。12時ころまでにはソ連軍は退却を始めた。戦車第11連隊は、戦死者96寧、戦車21輌が擱座したという。戦車11連隊は、すべてで、中戦車39、軽戦車25輌よりなる。本文では日本兵の勇猛さを綴っているが、歩兵のみで戦車部隊と戦ったソ連兵の気概のほうが際立っているように感じた。

北海道半分の獲得について、スターリンの述べている理由は次の通りだという。―「日本は1919年から21年にかけてソ連の全極東を占領した。もしソ連軍が日本固有の領土の一部に占領地域を持てないならば、ソ連はひどく侮辱されたことになる。」-―全極東かどうか知らないが、ソ連に対する日本人の印象は、日本に対する中国人の印象と似ている。片やシベリア、片や南京だ。どちらも民間人の犠牲30万人などといっているが、どちらも嘘だろう。思考形式が似たり寄ったりのアジア人の物思いとはそういうものだ。


占守島の戦闘たけなわのころ、停戦交渉の主役の長島厚大尉は、幌筵島の北端柏原にある第91師団司令部で参謀部漬けとして任務についていたが、午前6時に占守島へ行くように指示を受けた。船を降りてトラックで北上すると、次第に砲撃の音が激しくなる。午前10時ころ司令部についたが、その時戦車部隊の隊長たちが悉く戦死したことを知らされた。先輩や同僚の戦士に相当の衝撃を受けたらしいが、正午前には戦闘中止命令が届く。そして午後1時に、停戦交渉の軍使を任じられる。ここからが大変で、白旗などあげても通用せず攻撃してくる相手だから、兵員輸送車2台で出かけたが、31名中半数が討ち死にしたそうだ。その後も敵弾をよけながら敵地へ赴くが、結局生き残った者のうち3名だけが交渉に赴いた。
8月20日の午前、まだ戦闘の銃声が響く中、停戦は成立した。そうして22日の正午頃、堤師団長が降伏文書に署名。占守島に停泊していた警備艦キーロフの艦内だ。ソ連司令官グネチコが長島氏の方を見て「千島の英雄」といったそうだ。22日の午後1時ころ、占守島の戦いが終わった。足掛け4日間の戦いで、ソ連側の公式記録では、日本軍の死傷者約1000名、ソ連側のそれは1567名とある。日本側の公式記録はない。推定では、日本軍の死傷者約600名、ソ連側のそれは約3000名となっている。

会食の後、長島大尉は「これよりソ連軍艦は、幌筵島、温禰古丹島、春牟古丹島、捨子古丹島に駐屯する日本軍の武装解除に行く。」といい、水先案内を命じられた。古丹というのはアイヌ語で集落の意味らしい。ほとんどが北千島にある。北海道にある色丹島は例外だが、字面も日本語に組み込まれてしまっている。長島大尉は掃海艇に載せられたが、艦長のデニソフ大尉が自分と同じくらいの年齢なのに、そのきびきびした動作や支持を見て感服したという。ソ連将校にも優秀な人物がいて、日本将校にも駄目なものがいるということを淡々と述べている。

武装解除がすべて終わって、船が松輪島付近まで来たときに、米空軍機が来たため、サイレンが鳴った。訝しく思いただすと、デニソフ大尉は「今後は、われわれは日本軍と握手してアメリカ軍をたたくのだ」といったそうである。

長島大尉と別行動をとった水津図少佐は、ソ連艦船が得撫島より先へ進行しないのを問いただすと、「択捉島から南はアメリカ軍の担当だから、わが軍は手を出さない」と聞いたそうである。しかし、先の話「今後はソ連と日本はともにアメリカをうつ」と比べると、何かおかしい。

第91師団の将兵はソ連軍の捕虜となり58ラーゲリに収容された。ドイツ人捕虜に対する処遇より何かと厳しかったという記述だが、どうもドイツ人捕虜の死亡率の異常な高さを思うとその証言にも疑問がわく。そうして昭和23年の5月8日に帰国した。その年、かなりいい加減な極東裁判が開かれた。アメリカは、千島列島に国後や択捉も含まれるとしていたらしい。米軍がいないので、ソ連軍が一応上陸してみたのだろう。もっとも、1944年12月の時点でアメリカ国務省は「南千島は武装解除の上、日本によって保持される」と勧告していたが、トルーマンもマッカーサーもこれを無視した。ルーズベルトはソ連にとって都合のいいようなことばかり言っていたらしい。

最近ルーズベルトはヒトラー並みの狂気の男であったという話が話題になっているらしい。「日本を戦争に引きずり込んだ張本人」と目されている。米国民全体を無用の戦争に引きずり込んだ罪も大きい。
https://www.youtube.com/watch?v=scOXiJno3CU
↑これを見ると、マッカーサーの気持ちがわかってくるが、それでも明治維新以来侵略国家であったことは否定しようもない。侵略を正当化するなら、もっともっとずっと前にやるべきであった。まあ、江戸時代より以前であったなら、東南アジアやシベリアに進出していても、文句をいうものは今頃いなかったに決まっている。その辺は早い者勝ちで、中国などは今頃ブーブーいっているが、もともと中国があんなに巨大なのも、早い者勝ちであんなに巨大化したのだ。自分で万里の長城などを作って閉じこもった。徳川も中国を見習ったのかもしれない。

一度社会的な刷り込みを受けると、そこから脱却するのは何世代もかかるということをつくづく感じる。まだまだソ連を非難するものが多いが、それほどの事でもない。真珠湾の奇襲がどうということもなかったのと同様である。真珠湾奇襲は宣戦布告が遅れたことが問題になっているが、宣戦布告のような礼儀正しいことをせずとも、自衛戦争であるとすれば宣戦布告などせずに済むという言い訳も可能であった。だから日本が自衛戦争だという言い訳が成立できるようなずるがしこいことをしなかったというのがむしろ問題なのである。卑劣だというのは全く民間人向けのプロパガンダであって、軍人同士の争いごとに卑劣も何もない。そんなことに騙され続けている世界市民も異常だ。




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