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zoom RSS 『シベリア出兵』(中公新書)をよんだ

<<   作成日時 : 2018/06/16 09:57   >>

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日本人にとってのシベリア抑留と、ロシア人にとってのシベリア出兵の思いとはほぼ同等だ。前者とは異なり、後者の場合は本土にいきなり侵入して乱暴狼藉を働いたのだから、ロシア国民の悪感情もそれだけ強いと想像される。日中戦争で侵略された中国側が被害感情を増幅させて伝えているのと同じだと思う。本土を侵略蹂躙されたものの怨みは強い。何か国かの共同出兵として教科書などでも片付けられているが、日本軍が98%を占めているので日本の単独といっても問題はなさそう。

日本人の感覚からすると、シベリア抑留の被害のほうが多いと思うだろうが、ロシア人はそうは思わないだろう。スターリンは「極東シベリアのすべてを征服された」などといっていたが、すべてではなくて、面積からすると大体目見当で満州国の3割程度増しというところだ。果たしてこの冬は寒く夏は蒸し暑い広大な地方に暮らしていた住民の総数がシベリア抑留者よりも少ないかというと、大いに疑問である。加えて、シベリア抑留の憂き目にあったものの多くは軍人であって、民間人ではないし、民間人にしても、多少の争いごとは覚悟の上ではるばる祖国を後にしてきた人々であったろう。しかも7年戦争といわれるように、日本軍の支配は7年間も続いた。この間に虐殺されたものが6万人におさまるかどうかもわからない。日本人の歴史観では数百人というのが大体の通説だが、100万人住んでいたとしたら、5万人はやられたという気もしないではない。よく言われることに、日本兵はマナーがよかったというものがあるが、あれは単に人と同じことをしていただけだろう。いったん悪くなったらとめどもないのだ。

ロシアの沿海州には朝鮮人の移住者が多かった。韓国併合以来、この地方は抵抗活動の重要な拠点となっていった。1911年に日露は、朝鮮人の民族運動を双方が取り締まる条約を結んでいたというが、ロシアは思ったように取り締まってくれない。そこで朝鮮軍司令官は、「彼らを駆除する」ことがシベリア出兵の本当の目的だったと明かしていたそうである。そのつもりだったら相当ひどい行いもしたであろう。単なる兵卒の暴動に過ぎないものではなくなる。

冒頭、司馬遼太郎(1923−96)の『ロシアについて』からの引用があるが、「自国の革命を守るために過剰に武装するという体質ができるのは・・このときからだったといえる。」という正当な引用があった。全く、このくらいのことが考えられないのかと、平均的日本人を見ているとつくづくいやになる。何度も思うのだが、多数派は常に間違っているのだから仕方がない。日本人でもアメリカ人でもイギリス人でも、実に多くの過去の歴史人物も同様なことを語っている。

シベリア出兵を日米に要請したのは英仏である。ロシアがドイツと講和してしまったので、ドイツ軍はそれまでに供与していた連合国の武器の類をあらかた我々に向けてくるであろうという脅威からだという。当時アメリカはウィルソン大統領。日本は寺内内閣であった。ウィルソンは『民主主義的でないソビエト政府はけしからん』などと思ってはいたが、いまだかつてよその国に内政干渉などしてうまくいったためしがないし、自分自身でロシア領土からの撤退を呼び掛けていたので、今更どうも乗り気がしない上に、国務長官のランシングも反対していた。日本の方も寺内首相は反対。元老の山形有朋も「どうやって撤退するのだ」と反対していた。イギリスの言うとおり20万の兵士を3年も派遣したら、延べ100万も必要になるから、相手にしなくていいというわけである。

すでに寺内首相は田健治郎逓信大臣の出兵を求める意見書を却下していたが、外務大臣の本野一郎も熱心な出兵推進派であった。しかし当初は相手にされなかったらしく、ドイツが東方へ進出してくるから、その前にシベリアでたたく、自衛のためにやむなきことであるという意見書を寺内首相や山形有朋、松方正義に送った。軍人たちはロシアを助けるべく出兵すべきであるとしたが、山県が「ドイツとシベリアで戦って勝てるものか。自衛のためなどという独りよがりな屁理屈などでは国内外の世論を納得させることはできない」などといったため、本野外務大臣は結局辞任した。

出兵賛成派にしても、西伯利亜を日本領土としなければ出兵の意味がないというものから、ロシアが復興すればすぐに撤兵を断行するというものまであって、意見が一致していなかった。

出兵反対派の中野正剛は「これまで露国に対して与えたる好意的援助を継続し、須らく露国の現勢を支配するレイニン政府を承認すべし」と主張した。日本とロシアとは大戦中にかつてないほど親密になっていたらしい。石橋湛山は、ロシアの革命は日本の明治維新のようなものだといい、反革命派を助けるのは幕府を助けるようなものだから出兵してはいけないと諭した。

一方、ソビエトの方でも、アメリカと日本の仲、ドイツとイギリスの仲を割くことで、出兵を阻止しようという画策を試みたのがレーニンその人であったという。そうして日本には好餌を与えようとした。出兵しないことを確約してくれるならば、満州における多くの利権を譲渡しようというのである。それほど深刻な悩みであったことをうかがわせる。しかし、本野の後任である外務大臣の後藤新平は交渉を断った。新政権の承認は日本単独では決められないというのが理由だが、総理や元老の意見を取り入れなかったのかどうか疑問だ。それほど自由に外務大臣単独で決定できたのだろうか。1909年に伊東博文とウラジミール・ココフツォフ大蔵大臣の会見をハルビンで行うことにしたのも彼で、結果碌なことになっていない。

ソビエトがウラジオストックの掌握宣言をした日が1917年の11月29日だ。アメリカ政府が陽性を受けてウラジオストックに巡洋艦ブルックリンを入稿させたのが11月23日だから、その一週間ほど前だ。日本が軍艦の出動を要請されたのが掌握後の11月30日だった。アメリカのほうがやることが早い。しかも日本はこの後もどうも動かなかったようである。イギリスの揺さぶりを受け、ようやく戦艦「朝日」と「石見」を主力とする第5艦隊を編成、司令官は加藤寛治少々だ。旗艦「石見」が呉港を出たのが、1918年1月9日であった。3日後にウラジオストックに入港。遅れて英軍艦サフォークも入港。日英両国のウラジオストック上陸を阻止するため、米ブルックリンも3月1日に再寄港。モスクワのソビエト政府は主権侵害を訴え、日本側に説明を求めた。

加藤司令官にとって都合の良い事件が4月4日に起こった。貿易会社の岩戸商会が襲われ、店主他日本人3名が殺傷されたのであった。それを理由に手持ちの海軍陸戦隊を上陸させることが出来た。全部で533名だという。午後にはイギリスも50名を上陸させた。加藤司令官の独断であり、翌日に海軍中央に知らせたが、時期尚早だと即日却下された。それどころか寺内首相は激怒し、即日撤兵を海相に要請した。よほど日本軍は信用されていなかったのか、レーニンは「日本軍は攻撃してくるはずだから、バイカル湖に防衛線を敷くように」とウラジオストックのソビエトに命じたそうだ。だが幸いにして8月まで日本軍は動きを止めていた。


問題を起こしたのは陸軍の方で、1917年の11月には派兵を企てていたらしい。元来出兵に最も熱心だったのは陸軍だったが、その中でも参謀次長の田中義一(1864−1929)はシベリア出兵の利点を唱えた。歴史的解釈は人の数だけあるといってよいので、本書では黒幕となっているが、そのうちどうなるかわからない。鵜呑みには出来ない。より科学的で実験済みであるような問題でさえ、まったく解釈次第で理論が自在に動くというのが世の中である。数学の論理を使えば理屈は完ぺきだと頑なに信じ込んでいるものはかなり多い。しかしそうしたものでさえ解釈次第なのだ。

田中義一の計略では、ドイツ軍の東方進出を防ぎ、中国を味方につけ、連合国からの審議を保ち、資源を取り入れるなどと、シベリア進出はよいことづくめであった。最初は日本だけの単独出兵を考えていたが、次第に中国との共同出兵のほうが好都合であると考えるようになっていった。北満洲から進出できるからだ。

陸軍は1918年3月にはほぼ最終的な出兵案をまとめていた。まず陸軍がバイカル湖よりも東のロシア領と、中東鉄道沿線の重要な場所を占拠する。そして各地で親日政権の樹立を図る。1918年9月6日には中国軍がモンゴルとシベリア東部、日本軍がザバイカル州とアムール州を受け持つことを決めた。日本が中国政府に対華21か条の要求を突き付けたのが1915年で、それ以来すっかり反日かと思っていたが、日本は1917年以来中国に多額の報酬を与えていたらしい。それで政府間ではまんざらでもなかったという。まあ、世の中どうだかわからないものだ。教科書などでは、英米仏日などが、チェッコ軍救済を名分として、ボルシェビキ政権の打倒を企てたとあるのみで、中国軍の働きについては書かれていなかったと思う。

レーニンは1917年12月1日にハルビンのソビエトに権力奪取を命じた。しかし、連合国領事団が反対し、中国政府に応援を要請した。そのため中国軍が12月26日にハルビンを占領した。

1918年に入るころには、シベリアのあちこちでソビエトが革命政権を樹立していた。ソ連というとスターリンの築いた巨大国家を連想してしまう今人には想像しにくい。陸軍は何とか反革命の拠点を築くべく現地のコサックと連携するのだが、どうもうまくいかない。山形有朋は、反革命勢力を援助するのはロシアに対する宣戦布告に等しい、と乗り気ではない。

その折、絶好の口実となる事件が起こった。ロシア帝国に働きかけて結成されていた、反オーストリア=ハンガリーのチェッコ軍3万5千人余りが蜂起したのだ。ロシア革命後、シベリア鉄道でウラジオストックへ向かっていた。そこからアメリカへ、さらにフランスへと移動し、西部戦線で戦おうとしていた。その途中の5月14日、捕虜として西へと帰国するハンガリー人と東進するチェッコ軍団が、シベリア西部のチェリャビンスク駅ですれ違った。ハンガリー人の一人がチェッコ人に鉄片を投げつけると、怒ったチェッコ人が犯人を殺害した。現地のソビエト当局は手を下したチェッコ人たちを逮捕したが、3日後のチェッコ軍団が街を制圧して仲間を奪還した。ソビエト政府はこれを聞くと、チェッコ軍団がウラジオストックへ向かう条件として、直ちに武装解除を要求した。しかしチェッコ軍はこれを拒否。シベリア鉄道沿線を次々と制圧する。ヴォルガ川から極東まで暴れまわった。何が救出だと実情を聞いてあきれるものがあるが、これが大義名分探しなのだから仕方がない。

各地で暴れまわっているうちにチェッコ軍団はお互いの交信さえできなくなっていった。連合国に「チェコ軍団危機」のうわさが流れる。危機どころか、そのまま西に向かっていても脱出できたのかと思うほどの乱暴ぶりだったらしいのだが。それで連合国最高軍事会議は6月初めに日本軍の出兵を要請したが、アメリカが同意しなければ出兵できないと通知するのみで全く煮え切らない。それではと、アメリカにも要請。7月にウィルソン大統領も「日米両国とも7000名の兵力を限定した地域に派遣」することをついに決定した。ただし「ロシア自身が進んで援助を受諾する、自治と自衛のための努力を前進させる場合にのみ、これを容認しうる」と連合国には通知した。

アメリカの提案を聞いて、山県有朋はそれまでの慎重論を一気に脱ぎ捨てて、今が出兵の好時期だといったらしい。こうなるとそれまで我慢してきた分だけ余計に噴火するかもしれない。子供の場合だったら見てすぐわかる人間の本質だ。もっとも、閣僚の中には米国が派兵を理由に日本軍の満蒙進出を監視してくるのではないかと恐れていたものもあった。その後、三元老と寺内首相、後藤外相の会談があって、寺内首相も出兵を決意した。

これで反対派は原敬と牧野伸顕しかいなくなった。7月24日に石井駐米大使は「日本軍を1万から1万2千名出兵させる」と伝えた。大統領が反対なら、そういう風にものを運ぶ」と強気なのは後藤外相。もはや増派は決定した感がある。8月二日の閣議でウラジオに一個師団、次にシベリアに一個師団というように膨れ上がってゆく。しかしなぜいきなりこう何か発条が切れたように反対側に傾くのだろうか。いかにも子供という感じだ。

大変面白いのが米騒動との関連だ。出兵のために政府が米を買い占めると、米の在庫が少なくなるため、米の価格が上がる。もっとも、山県有朋は4月の時点で、現在すでにコメの値段が上がっているのに、出兵などとなったらどうなるのかとこぼしていたそうだ。そうして出兵のうわさが新聞紙上に流れた7月からコメ価格は一気に高騰し、7月22日に「越中女一揆」の勃発となり、全国に飛び火した。政府は1か月半にわたり、延べ9万2千人の軍隊を動員してこれを鎮圧せねばならなかった。

7月2日に出兵数を2個師団4万名強と決めた寺内内閣は、いよいよ8月2日に出兵宣言を行った。8月3日にはイギリス軍が、9日にはフランス軍がウラジオストクに上陸している。12日には日本軍が第一波を上陸させた。19日には米軍であるが、1918年秋の時点で、アメリカ軍9000、イギリス軍7000、中国軍2000、イタリア軍1400、フランス軍1300にカナダ軍が少々。それに引き換え日本軍は8月の時点でおよそ7万2400人(戦闘員4万4700)を動員した。11月には5万8600名に減らされたというが、それでも最大規模だ。

日本兵がウラジオに上陸した40日後の1918年9月21日に寺内内閣は総辞職した。そして9月27日に山形有朋の嫌う政党内閣である原内閣だ。もともと出兵には反対していた人物が首相の座についたのだから、今の内閣だったら即出兵中止の撤兵となるはずだが、当時の首相というのはあくまでも一大臣に過ぎなかった。だから「総理大臣」という。名前は今でも残っている。外相には内田康哉(こうさい)を起用したが、彼はレーニンの実物を知っていたのか「一種の信念に基き誠意是を貫徹せんとする人物にて、学識もあり機略弁論もあり」とべた褒めしていたという。当時、海外においてもボルシェビキを「犯罪的政権」とみる向きが多かった中で、内田氏の見解は妙に光っているように思う。肝心の陸軍大臣には強硬派の田中義一が就任した。何だかわからないが田中義一も軍縮に賛成で、12月24日にはシベリアの勢力を約2万6000人に減らすと決定したそうだ。

シベリア―といっても、満州といった方が近いのだろうかーのあちこちでパルチザンとの戦いが始まった。彼らは農村に隠れているというので、焼き討ちになった村は多かったらしい。アムール州などシベリア東部は冬場には零下40℃にもなることがしばしばだったから、焼き討ちによってしばし暖を取るなどという思い付きもカチカチに凍った環境ではひらめきに思えたのかもしれない。パルチザンの報復により日本軍一個大隊150名ほどが全滅するという事件も起きた。その1か月後の1919年3月22,23日に行われたのが、悪名高い「イワノフカ事件」であった。アムール州に展開する第12師団長の大井成元は「わが軍は歌劇は軍を敵とするも露国民衆を敵とするにあらず」などと同年4月10日に通告している。如何に規律が乱れていたかがうかがい知れる。

一時反革命派のコルチャークに押されて風前の灯火に見えた必死の反撃が、1919年の6月9日に功を奏して、これ以降赤軍の優勢は不動のものとなった。まさしく明治維新の様だったのだろうか。コルチャークと勝海舟が重なって見えるような感じもする。それがわかると、急に増兵しようという気が田中義一の心に芽生えた。蒙は日本人が経済的に発展してゆく唯一の地域であるから、過激派などに極東を蹂躙させては置けないと滾々と切願すると、原総理も『シベリアへの増派は出来ないが、満州への増派は約束しよう』ということになった。これが、翌年に各国が撤退するのに、日本だけが増派するという結果につながってゆく。

さて、1918年の1月にドイツ軍が武器を手にするのを恐れて、チェコ軍救済を口実にシベリアに入ったのはいいが、肝心の戦争のほうが同年11月に突如終わってしまった。そうすると、大概の国にはもう意味がないので、カナダなどは早速撤兵を申し出て、1919年の4月21日にはウラジオから撤退を始め、6月5日にはあらかた撤退した。イギリスのロイド=ジョージ内閣も撤退したかったが、1919年1月に陸相に就任したウィンストン・チャーチルが反対する。ソビエト政府と交渉するなどもってのほかだという。チャーチルが熱心に支援していたのが反革命軍のデニーキンだった。25万の兵力を装備するだけの補給を行っていたという。1919年6月24日に、日本陸軍代表としてパリ講和会議に出席していた奈良武次を招き、ウラル山脈まで日本軍が出兵できないかと尋ねていたらしい。もちろん東京の陸軍省はこの話を却下。よほどチャーチルはソビエト政府を壊滅させたかったのだろう。しかし、チャーチルの期待もむなしくデニーキンは1919年10月末に敗れる。それとほぼ同時に英軍は大部分が撤兵した。フランス軍も1919年9月に撤兵を開始し、1920年8月に撤兵を終えた。

1919年夏以降にはアメリカも撤退を考え始め、1920年の1月5日に撤退を決定した。原内閣も撤退するには撤退するが、そのためには増派が必要だとの方針を決めた。あらかじめ、田中義一陸相が原総理に「陸軍内の感情」に配慮して、撤退は内密にしてくれるように頼んでおいたためだという。それでアメリカ撤退後は、とにかく撤退の覚悟ではあったが、その後何年も撤退できなかった。

それでも1920年2月頃にはザバイカルと沿海州を除いてほぼ撤兵は完了したらしい。レーニン政府の方でもバイカル湖以東へは進まなかった。ソビエトには日本軍とは戦ってはいけないことを通告していた。しかし間もなく尼港事件が起こって、日本もレーニン政府も困ったことになった。パルチザンが日本軍に送った使者が何者かに銃殺されたことがきっかけらしいが、その犯人がだれなのか今となってはわからないらしい。ただ日本側が強盗と思い白軍警察に引き渡したところ殺されたということなので白軍のしわざらしい。日本側もソビエト側も無用の衝突を避けるために緩衝国家の樹立まで行っていたのに残念な事件だったといえる。日本政府はザバイカル州からの撤退を急がせるが、駐留部隊は大いに不満で、豊臣秀吉の朝鮮出兵と同じ運命をたどるぞなどともいうものもいたという。陸軍の参謀本部では全く撤退の意志もないので、すべて田中陸相の一存で行ったという。もっとも派兵を強硬に唱えていた人が、最も撤退に熱心であった。なんとも人間味のある好人物であったようだ。それで原が陸相に選んだのだろう。

レーニンらが日本に孤高樹立を求めたのは、ソビエト政府がヨーロッパで苦境に立っていたからだという。国境線をめぐって不満を持つ申請ポーランド共和国がロシアの反革命軍を取り込んで戦争を起こしたからである。1920年4月25日からだ。ほとんど話題になっていないと思うが、これはシベリア出兵などより悪質な干渉戦争なのではなかろうか。カチンの森の事件というものを思う。スターリンは何一つ言わないが、かなり不満を持っていたに違いないという気もする。ポーランドというと判官びいきというか、スターリンの方がすっかり悪役を引き受けてしまって、その陰でポーランドの悪行振りは問題にされてこなかった。考えようによってはかなり狡猾な国かもしれない。ポーランドソビエト戦争についてはウィキにも書かれているが、期間も長く書かれているし、ポーランドが勝利したなどとあるし、若干本書とは異なるニュアンスである。

尼港事件はかねてから北樺太の石油資源をわがものにしようとたくらんでいた日本海軍にとっては、派兵のためにはこの上なく好都合な事件であった。ニコラエスクは1918年9月に抵抗を受けることもなく日本軍の陸戦隊が占領した北樺太を対岸に臨む街だ。350名ほどの守備隊を残したまま冬の開けるのを待っていたところ、1920年の1月に4000名のパルチザンに襲われたというが、どうもパルチザンの方にはこれといった理由もない。一か月ほど続いた攻防戦は2月24日に休戦となったが、どうもその際の手違いによりパルチザンの恐怖政治が始まったようだ。大井ウラジオ派遣軍司令官は1月の時点でニコラエフスクでの戦闘に気付いていたが、放任していた。どうもこれはおかしいとのちになっていろいろといわれていたらしい。それで日本軍の誰かがパルチザンを挑発したのだろうという説を唱えている人もいるようだ。

尼港事件の記述であまり見かけないことが本書には書かれていて、3月12日の武器引き渡し前の軍民共同の奇襲により、パルチザン本部は火をかけられ、成功したかに見えたが、中国艦4隻の砲撃と、街中の朝鮮人の反逆により一挙に劣勢に立たされたのだという。中国政府はのちにこの件で賠償金を支払う目になったらしいが、それにしてもこの事件は当時の日本の国際的な孤立を物語っている。民間の日本人も武器をとって奇襲作戦に加わっていたらしいという点が気になる。しかし、仮に日本軍の奇襲がうまくいっていたとしても、北樺太への派兵は行われていたと思う。パルチザンの首謀トリャピーツィンは、部下によって裁判にかけられ、1920年7月9日に、妻や側近とともに銃殺されたというが詳しいことはわかっていない。

さて、途中飛ばすが、1921年11月4日に原首相が短刀で胸を刺されて、東京駅の駅長室で死亡した。とりあえず蔵相の高橋是清が組閣したが、山形有朋も翌年の2月に病死し、6月6日に高橋内閣は総辞職した。その年になってようやく各国の圧力で外側から撤退に成功した。なんと結果他人任せである。時の首相は高橋の後を受け継いだ加藤友三郎(1861−1923)であった。ソ連の誕生も決定的となった。ウラジオから日本軍が撤退した2か月後、1922年の12月30日にソ連が成立した。長い長い内戦だった。ちょうど世界大戦とおなじほどの長さだ。

1923年8月24日に加藤首相は胃癌のため死去。9月2日に海軍長老の山本権平が組閣したが、日ソ交渉には消極的であって、撤退するを長引かせる一因となったらしい。震災復興でそれどころではなかったともいえる。山本内閣も、共産主義に共鳴する難波大輔に、裕仁親王が狙撃される事件が起こったため、1923年12月27日に即日総辞職した。翌24年1月7日に清浦圭吾内閣が発足。ちょうど御用納めだったのは今とおなじらしい。同年2月1日に英国がソ連を承認。レーニンの死後10日目だった。5月31日には中国とソ連が国交を樹立した。中国を自国の権益圏とみる日本の危機感は募った。しかし1924年6月9日に清浦内閣は加藤高明内閣にとってかわられる。加藤は岩崎弥太郎の娘を妻に向かい入れていたので、資金力には事欠かなかった。金に物を言わせて、撤退を完了させることが出来た。
北サハリンより日本軍が撤退したのは1925年05月15日だった。4か月前の「日ソ基本条約」の締結により、日本はシベリア出兵で得た唯一の利権、北サハリンにおける石油や石炭の交渉権を得た。北樺太石油株式会社を日本が設立したのは1926年6月であった。最初の3年ほどは順調だったが、次第にソ連関係当局が圧迫してきたという。日独防共協定が結ばれると、ほとんど操業停止状態に追い込まれた。1941年に日ソ中立条約締結の条件として、とうとう利権の解消を求められた。北サハリンの利権移譲の協定が結ばれたのが1944年3月10日だという。太平洋戦争中にも多少の石油は北樺太から得ていたような話は初めて聞いた。




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