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zoom RSS 仏教の思想1・・知恵と慈悲

<<   作成日時 : 2018/07/16 07:50   >>

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ついに12冊全巻揃えた。前回から7か月ほどたって、予定の半年を過ぎてしまった。この暑い時期は思想の書物を読んで過ごしたほうがいいみたいだ。毎年毎年暑くなるのはどう見ても温暖化のせいであって、ヒートアイランドなどというもののせいばかりではないだろう。二酸化炭素による温暖化は各種実験で証明済みであるので、今更いくら「温暖化詐欺」などと喚いてみても始まらない。

仏陀というのは出家前に、まず老人を見、次に病人を見、最後に死人を見てひどく驚愕したとある。ここだけ読むと、嬰児の成長というのはたいていそうである。そうしたことも当たり前のことだと思ってしまえば当たり前だ。そうしてたぶん現代の人間というものはここだけ読んで、昔の人間は純情素朴だったのだと思うようである。ところがそれはとんでもない間違いで、平均すれば昔の人間は物を知らなかったというに過ぎない。

このシリーズ12巻が発行されたのが、昭和43年から45年にかけてのことだ。西暦でいうと1968年から70年にかけてのことだ。今からちょうど50年前のことで、終戦からは23年しかたっていないが、文体は現在と同じで、内容も今とは少し違うが古い感じではない。ということは如何に終戦後急速に日本社会が変化し、その後は変化が止まったかということを意味する。箸が気に、近代化の名あれの中で、非西欧人は自分たちの思想を誤謬のように見た。そしてロシアと中国は今ヨーロッパ産のマルクス主義を取り入れて、ヨーロッパに対抗する思想的武器としているなどとあった。実際は中国は「日本の様に東洋の魂を売ってはならない」といったのだが、結果国家が分裂したわけだが。しかし1968年の時点で中国共産党がソ連と並ぶほどの大国でもなかったはずだが、かつての巨大帝国ということでこのように書いたわけかと思う。ローマ帝国の亡きあと、長きにわたって世界の支配者といってもよい不動の地位を得ていた。

インド学というものに初めて世人の注意をひきつけた人物はイギリスのウィリアム・ジョーンズ(1746−94)年だったという。1783年にベンガルの最高裁判所判事として赴任した翌年、「アジア協会」を組織した。1786年の彼の印欧祖語に関する発言が、大いにそれまでのヘブライ聖書中心の世界観を変遷させたとある。そんなに有名なら世界史に出てきそうなものだが、何か初めて耳にしたような気がする。これがドイツの言語学者フランツ・ボップ(1791−1867)の比較文法学として結実したのだという。言語学者といえばソシュール(1857−1913)か何でも屋のパース(1839−1914)くらいしか思い浮かばないが、もう少し歴史のある学問らしい。

サンスクリットのような「作られた言葉」ではなくて、「自然のことば」を意味するプラークリットの仏典研究において重要な2人の学者の名も初耳だ。ゴータマの説法は初め中インドのマガダ語系のプラークリットで語られ、それがセイロンに伝えられて現在まで残っているのがパーリ語の諸経典だ。後はサンスクリットで書かれている。どうもインド人全般の意識の中では、サンスクリットで書かれたものは人為的に多少作為しても問題はないという思想があったのではないか。自然のことばは点より与えられたものだから、むやみに変更してはならないというのである。そうだとすると、原始仏教の歴史を解明するためにはパーリ語によらなければならない。この分野でもっとも大きな貢献をしたのがリス・デヴィッズ(1843−1922)という学者であった。1866年セイロンに文官として赴任した司法官であったが、後にロンドン大学の教授となり、もう一人の貢献人オルデンベルグ(1854−1920)とともに、「パーリ聖典協会」を1882年に立ち上げた。

サンスクリットに書かれていた仏陀が超人であったのに対し、パーリ語経典にあったのは全く普通の人間としての仏陀であった。

ゴータマはネパールのルンビニーで生まれた。北にヒマラヤの連邦が見えるが、ネパールでは少ない平地部分である。けれど、彼の布教したのは南方のインド地方なので、仏教発祥の地といえばインドということになっている。インド北部の、東はラージャガハ(王舎城)から、西はサーヴァッティー(舎衛城)の間を歩いていた。北には人が住んでいなのだから、南へ向かうのは当然だ。しかし悟りを得る前に人込みを求めたというのが妙だ。人里離れた山奥で修業するというのが日本では哲学的であると思うが、釈迦の伝記に出てくるのは川が多い。それももう少しで海だ。ついでに長さの単位の由旬だが、ある王城の周囲が40由旬であり、大体ギリシャの城より若干大きめに見積もっても4マイルほどではなかったかと思われるそうだ。すると1由旬はおよそ0.1マイル(160m)ということになる。具舎論の記述では約7キロだそうだ。周囲300キロもある都市などというものがあったとは思えない。そういう国ならばあっただろう。

本書では仏陀の活躍機を紀元前400年ころとしている。ウィキペディアの記述と同じだ。すでに共和制体の時代は衰微し、王政期に入って久しかったが、ヴァッジー共和国などわずかの共和国が集会により議決によって政体を運用していた。こうした共和国は「ガナ・サンガ国」と呼ばれている。

このように社会全体が新しくなっていく中で、旧来の権威を否定する新しい思想家たちも数多く表れた。ゴータマももちろんその中の一人であり、62見だとか10沙門団だとか6師外道などといっても、現代の相対主義の時代から見れば皆同じようである。他世界観を受け入れるべきだなどということになる。だから相対主義というのもまた誤っているところがあるのであって、絶対というものは世のおなかに若干はあるわけである。彼ら新進の思想家たちに共通するものは、ベーダに淵源する伝統を無視して、自由な思想の営みに専注する点であった。すべての新鋭たちは祭祀儀礼を否定した。そして平等主義であった。人は生まれながらにして社会の拘束を受けるべきではないとし、ブラーフマン社会を認めなかった。

6師外道の中でも、釈迦と同じような思想を持っていたと考えられるのが、舎利弗の師であったサンジャヤ・ヴェーラッティプッタであるが、仏典は彼のことを、「遅鈍、愚鈍」と形容している。似たものについては悪くいうものだ。彼も独断論的な臆見と二律背反に陥るのを避けて、「あるものはあるものであり、あるものはないものである」などといったらしい。思惟に関する事柄については、とりわけそういう姿勢が大事なのであって、なぜかこうした問題についても科学的な論理を持ち出してくるのを当然の様に受け止めている向きが多そうな気がする。特に残念なのが医療関係者の姿勢だ。そういう風に世の中を安易に考えてしまうと、仏教の方でも反射して世の中には愚者が数多くいてどうせ無駄だから、葬式仏教みたいなものになるのだろう。

仏陀の悟りえたものは、後に「縁起」という言葉で表された。これが仏教で一番大事な概念であるともいう。無知より始まり苦でもって終わる。愛もしくは取でもってそれをつなぐ。無知→取→苦という3支の縁起が基本だ。無知→愛→取→苦という4支の縁起のパターンもある。6支の縁起だとか10支の縁起などというものもある。そのうち一番数の多いのが12支の因縁だった。釈尊の悟りはもともと縁起などという言葉で表されるようなものではなかった。なんとか言葉でわかりやすく説明するために何週間か例の木の下であれこれ考えをまとめたらしい。ようやくできたのではるばる西の方300キロを歩いて説法に出かけた。

なんとものどかな時代で、悟った後でも独りでいるのは心苦しかったらしい。これは筆者の増谷氏も長年の困惑だったという。やはり聖者でも苦はあるのが当然で、それが心の動きというものだ。何か思念すればそれが苦だということなのだろう。およそ後年の人は仏陀を石のような硬い不動心の持ち主だということにしてしまうが、それでは生きていることが強調されない。仏陀は欲望を放棄せよなどとは言っていない。何事もほどほどが一番良いといっているだけである。だからゴータマの心の思うままにそれを受け入れる。それがブッダ・ゴータマのやり方だ。ゴータマの心を、『わが心』などと仏陀は思わなかったはずである。自由にさせたのではないか。それに、衆生のすべてが悟りを得たりしたら、今の世代だけで人類滅亡ではないか。そういう愚かしいことを仏陀が考えるはずもない。

もっとも仏陀を徳のある聖人であると決めてかかることにも多少の疑問点はあるのであって、今でこそ義人であると広く知れ渡ってはいるが、もともとは天才を頼んだ自由奔放な人物だったのかもしれない。今日の天才が例外なく奇矯なふるまいをするのと同様、ゴータマの肉体も元来変人であったのかもわからない。それでジキルとハイドではないが、時折二面性が出てきた。そのためかどうか知らないが、仏陀は極端に陥るのを避けた。これは人間自然の心情とは概して異なることだ。後世の人はこのことを指して「仏教に不思議なし」などとしたそうである。例えばエベレストの山頂を目指すようなことでも、仏陀なら大抵引き返すようなタイプだっただろう。


今の世の中は大方あべこべが正義である。だから愛などというとキリスト教の愛のことを意味する。だから非常に好ましいもののように思われているが、それはキリスト教が、浄楽我常を良しとする多数派の好むものだからだ。真理を追究したものではない。真の人生は不浄であり、苦に満ちていて、自我などは妄想であり、普遍なものは世の中にはない。したがって愛などというものも尊いものでもなく、どちらかというと忌まわしいものである場合が多いが、尊い場合の愛であってもそこには不浄なものが含まれている。愛とは、足りないものを求める心の動きのことだ。神への愛とは一種童謡に恋焦がれる心の動きのようなもので、どう見ても賢者のものではなさそうである。しばしば両者の愛の意味は異なるかのように言われているが、それは解釈する人間の違いであって、ことばが異なるためでもない。真理を求めるものにとっては愛は邪魔なものであるが、大衆然とした者にとっては邪魔物ではない。

今、仏教といえば、「無常」とか「無我」というものであろうが、それは縁起と比べればむしろどうでもよい当たり前のものであったようである。社会環境とか雰囲気がそういうものであったようで、仏陀がそれを語ったのも、気楽な集まりの場であったらしい。なんともさっぱりわからないのが、釈迦が当たり前のように繰り返す「無常ならば即ち苦である。苦ならば即ち無我である」という言葉だ。苦を思うのは自分なのであるから、我の方が苦なのではないかとも思う。我でないものが無我なのであるから、外側にいる病人や老人も無我であるはずだが、ここには当然だが苦は存在しない。苦が発生するのは我の感情においてのみである。なぜ無我が苦ということになっていたのか。インドでは別なのか。ただ、ひょっとすると、無我という言葉は、ウパニシャド哲学の梵我一如に対抗して生まれたものかもしれない。新興のすべてが無我を語っていたというから、梵我一如は苦であるといいたい風潮だったのだろうか。追い求めても得られないものを求めるのは苦であるというなら、何かちょっとした説明でもあってしかるべきだと思うが、それがないのはどういうわけだろう。

どうも当時の流行思想にあっては、我であれば、手足が思いのままに動かせるように、自由自在に操ることが出来るはずだというように考えていたのではないだろうか。命令もしていないのに、望んでいないものが押し寄せてくるというのは、そういう観点からすれば「われ」ではない。したがって「苦」などは望んでいないのが普通であるから、われのものではなく、それは「無我」である。大体「無」と着くとあまり良い意味ではない。よいか悪いか、あるのかないのかのようなものは「空」といった。

しかし、仏陀の時代には無我とは苦に他ならなかったのだが、末法の世である今日ではどうなのかというと、もしかすると何もかもひっくり返って、無我=楽ということになっている可能性もある。そうなると「無我の境地」などという言葉も案外意味を持ってくるかもしれないのだが、直感的には「無我」はやはり「偉大なる白痴」すなわちコンピューターのことだ。

初転法輪などについても、大乗の経典ならば「神通力で会った途端に」などとするところであるが、実際には何週間もかけて順繰りに説き伏せたということが書かれているそうだ。その間は5人が交代で托鉢に出かけ、皆で食事を分け合ったとある。ついにある日その中の一人コンダンニャが仏陀の言葉を理解した時、仏陀は喜んで「コンダンニャは悟った。ゝ。」と声をあげて繰り返したという。


西洋の方ではニーチェなどによってソクラテス以前の哲学者こそ真の哲学者であり、むしろソクラテスやプラトンから哲学はダメになったということになってきたと主張しているのは梅原猛氏だ。「おのれの死をまともにまともに見つめることが出来ない生命の力の衰え、それが魂の不死の教説を生んだ当のものだ」とニーチェは言っているそうだ。半世紀たった今ではどんな具合なのだろう。東洋でも六師外道の再評価が始まっているというが、こちらはサンジャヤなどの自然な哲学を仏陀以降の哲人が潰したなどという話は聞かない。

増谷氏は、仏陀はもっとずっと多くのことを心に描いた、そして仏陀自身もそう語っていた。しかし、教団の中でまともな抽象的思考能力を持っていたのは舎利弗位しかいなく、ほかのものは具体的な死胃だけはうまいのだが、丸暗記にはたけていても、応用問題はまるでダメという連中だった。そんな連中が残した経典だから、論理的なことは何も書かれていない。本当は仏陀というのはもっとずっと理路整然とした人物だっただろうなどと推測しているようだ。

読み進めていくと「四大聖人」というのが出てきて、どうやらこれを「ソクラテス、孔子、イエス=キリスト、仏陀」の四人に固定したのはヤスパース(1883−1969)であったらしいというのが出てきた。実存哲学の草分けみたいな人らしいが、梅原氏が盛んに持ち上げていたのに、今ではあまり人気がないようだ。ソクラテスとイエス、仏陀と孔子をそれぞれ組にして考えることもできるというのが面白い。前者たちの弟子であるプラトンとパウロは、それぞれが強烈な個性と創作力の持ち主であったので、彼らの師に対する記述に近寄る際には相当の注意が必要なのだという。

イエスなどは、彼がことばどおり神の子でなければ全く不可能なことなのであって、すべてはパウロの創作なのではないかといいぶかしんでいる。これは悪名高いヒトラーが「パウロがイエスの言葉を滅茶苦茶にした」と激怒したというのと同じだ。ソクラテスにしても、その死はおそらく劇作家としてのプラトンの創作なのではないかという。そして、ソクラテスが死後の不死の魂を確信するさまは、イエスが復活を確信するさまや、源信が極楽を確信するのと同じく、この世に生きているおよそ理性的なものはだれも信じないというほどの、人間最期の藁にも縋る悪あがきにしか思えないらしい。イエスなどは片田舎ガリラヤ育ちの奇妙な妄想−自分こそはメシアだという―に取りつかれた一人の失敗した宗教家としか見ていなかったらしい。それがのちの世界を築く大思想となったことは奇蹟としか言いようがないそうだ。確かにイエス本人にしてみれば、自分の人生は失敗だったと思うのが当然だろう。「神の国」を待つ心は、「世界滅亡の日を待つ」心と同じようなもので、そんな日はいつまでたっても先送りの夢でしかないのだが、そんなはかない夢を持った人が実に多いのは、宝くじなどよりも何より聖書が第一のベストセラーだということが物語っている。

これに対し、仏陀の弟子たちは全く凡庸で、そこには創作などというものはなかっただろうという。凡庸であったというよりも、凡庸であれというのが仏教徒に課せられた生活だったのかもしれない。死んだらどうなるかわからないという普通の死に方で死んでいくのだから、これが多分本当だ。ただし仏陀は、「もう悟ったのだから早く死にたい」とひそかに思っていたらしく、弟子たちもそのことにはうすうす感づいていたかもしれない。仏陀の死に対し悲しみと同時に怒りをも感じていたという。このように梅原氏とオルデンベルクは思っていたらしい。

西洋に取り入れられた二つの不死の思想、魂の不死という哲学と、神の国という不死の宗教の流れが、今日の世界の文明文化を築いた。西欧近代の流れを汲んだ現代は実に感情的なものだ。そのように見ることもできる。それからいかにもなるほどと思ったのは、人の子としてのイエスには愛があるが、神の子としてのイエスには怒りがあるという点だ。後の方についてはたいていのものはいわない。エホバの神には怒りしかない。逆らうものはすべて殺してしまえというのがエホバの神の命令であって、そこには愛などというものは微塵もない。だから聖書なども、もし国会で議論されればこのような殺人教を容認してよいのかと大問題になるはずである。実際過去にはそうなったのだが、殺人教が生き残った。現代においても相変わらずキリスト教神父たちはひそかに戦争を支持している。「私はエホバを信じる」といえば「私は殺人を肯定する」ということにもなる。ちょっと愛の精神のようには思えない。隠れ蓑だろうという風にも思える。キリスト教においては多少の詭弁も通じようが、ユダヤ教においてはヤハヴェ(エホバ)の神は怒りでしかない。どうもキリスト教の愛とは復讐愛のような気もするのだが、なぜこういうものが世界的大人気なのだろうか。

あとがきで,ひろさちや氏が哲学者と仏教学者の対話の長所なるものをあげているが、今日の哲学者でも「仏陀はもう悟ったのだから死にたかった」などといえる人はそうそう出て来ないだろうと思った。昭和60年代などよりも21世紀の日本社会のほうが不自由なところもあるのかもしれない。それはありうることだ。

このシリーズは思っていたよりもずっと売れ行きが良かったらしい。もう一度読み直してみようかと思う。




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