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zoom RSS 継続は力なり

<<   作成日時 : 2018/08/04 07:42   >>

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人というのは頭の中の思考で起きることと、外界で起こる物理現象とは別物などと考える癖がある。しかし世の中そう単純なものでもない証拠に、この間はなした南へ進む台風なんていうのや地球の赤道部のふくらみといったものがある。

というのは両方とも、遠心力だとかコリオリの力などといった存在しない力の継続によって起こるものだからである。外側から見ている方が不思議に見えるものなのかもしれない。系の内部にしがみついているものにとってはあるとしか思えない力だからだ。見方によって完全に存在していたり消えたりするものだから不思議といえば不思議だ。一方は力として現出するが、一方からは速さとしか見えない。

道端で行きかう人に質問して回ったら、たぶん5人のうち4人までが、「見方によってあったりなかったりする力など世の中にあるわけないじゃんか!」などというだろう。そうした決めつけの概念を抱いているものが数多いるのだから、世の中というものは実に暮らしにくいものである。もっともうんと突き詰めて考えていくと、在ったりなかったりが任意では逆に困るということも起こりそうだ。

コリオリの力というのは北半球では風の進行方向に右向きに働く力の事で、これは角運動量保存などという概念など無しでも、赤道付近のほうが風が強く東向きに回っていることでもわかる。そうすると、台風は右回りなのではないかと思いそうだが、台風の風というのは内側に向かって吹いているので、左回りでよいのである。

コリオリの力を違う角度から眺めたものがスケーターの回転である。腕を伸ばした状態から腕を縮めると回転速度が速くなる。これもコリオリの力だが、動いていない体の部分の回転も速くなっている。質量にそう差がない場合は、本体の回転速度も変わるようである。

同様のことが人の心にも起こっている。心の痛みと体の痛みはおそらく全く同じものなのに、誰もが別ものだと思っているに違いない。こういった思惑が積み重なって、例えば過去と未来は異なるなどといった勘違いのようなものにつながる。

そういう具合に人の心の動きも、外から見ているとないとしか思えないものだが、内側から見るとこれは重力のようにはっきり存在している。古来仏教が存在の分析にこだわったのも、自我が存在しないことを証明するためであった。また、デカルトがこれ以上なく実在する自我の存在こそ神の存在証明であると疑わなかったこともおそらく同一の線であると思う。一般に伝えられていることとは全く逆に、デカルトも、存在するはずのない自我の存在こそ神の実在を表すものだとしたのだろう。

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