利潤追求という悪魔主義

前にも話したし、折に触れて何度か語っていると思うが、買い物に行くたびに怪訝に思うのが、なぜレジなんていうものがあるのかということだ。月決め位である一定の金額を支払い、後はめいめいの客が自分の好きなものを勝手に持って帰ればそれでよさそうにも思う。そうなればレジ係に支払う給料が要らなくなるのでモノの値段はぐっと安くなるだろう。なぜこんな無駄の多い仕組みがはびこったのだろう。

高級品はともかくとして、日用雑貨品を取り扱う店は、レジ係なんていうものは廃止して、さっそく「持ち帰り自由」にしてみたらどうなるかと思うと、『それは泥棒と同じだからうまくいくはずがない』とたいていの人は思うだろう。

しかしそういう概念は、利潤を追及するという産業組織の育成が富国のためには最善であるという戦争に明け暮れた時代が生んだ幻影のようなものなのではなかろうか。利潤を追求するのは正しいことだという概念が人々の心に植え付けられたために、『手っ取り早い利潤追求方法は泥棒だ』ということになったのである。そうして戦争という領土獲得方法とは結局泥棒の事なのだから、人々が泥棒しようと思うのも無理はない。産業革命以降の社会での植民地獲得競争というのはまさに泥棒主義であった。いうならば国家の奨励することが泥棒主義であったのであって、「そんな社会は正しくない」というので戦争をやめることから生まれたのがソビエトであったが、どうもうまくいかないで、元の戦争主義に戻ってしまった。

それで、ソビエト社会主義の目指すものは共産主義であったが、戦争のためかどうか知らないが結局失敗した。最初は防衛のためにやむなく始めた戦争であったが、どうも永久の戦争放棄を旗印に建国した国家にしてはどうしようもないほどのものになってしまった。それでも1920年代のソビエトはほとんどの人々にとっては希望の国であって、これと比較すればアメリカなどは全然夢のない国であった。脅威を感じたのは利潤獲得を至上目的とする大富豪だけだったという状況だったに違いない。

世の中の99%のものは利潤獲得などどうでもよいのだが、1%のものがそう思うだけで世の中はそういう方向に動いている。圧倒的な権力を持っているのが1%のものなのだが、よくよく考えてみれば彼らの正体は泥棒だ。そもそも戦争を元手にして富を獲得してきたもの達で、現在の貿易戦争というのもうまく隠された戦争の一種なのだ。企業が利潤を追求する限り、こんな悪弊が止む日は来ないだろうが、それにもかかわらず国家群は利潤の獲得を目的としている。人々はまんまと騙されて利潤追求がまさか戦争につながることだなどとは思いもしていない。半強制的に徴兵されているようなものなのに、それがおかしなことだとは感じていない。

囚人のジレンマというゲーム理論がある。自分のことを最優先に行動すると、ヒトは「協調」よりも「裏切り」を選んでしまうというものだ。背景には『あいつは邪だから』というくだらない気持ちがあることが前提だ。こういう前提を当然の様に扱っていることにも問題があるかとは思う。そういう気持ちを起こさせない世の中であったならどうなるだろうか。

経済学の前提自体にも大いに疑問を持つ。企業というものは果たして利益追求を最大の目的としているのだろうか。それは特定の社会文明の下でのみ通用することだろう。企業ではなくて国家の目的だといった方が妥当だ。何かというとエコノミックス第一主義の日本の政権にしてもそうだ。大多数の人々や8割がたの企業群にとっては円高のほうが都合がよいのに、なぜ円高で景気が落ち込むのか不思議に思う人も多いだろう。それはマスコミがそう言っているという宣伝効果もかなり影響しているのだろう。ただ大企業だけが輸出を派手に行っているので宣伝効果の影響は甚大だ。実際には円が強くなった方がずっと好都合だ。表向き景気が悪くなったように見えるのは消費者が安くなった海外品のものを買うため、国内産業が振るわなくなる。海外製品に対抗して値下げを行うので余計駄目になるのだ。ならば働かなければよいのに、はたらいてものを作ってますます安く売るから、不況になるだけだ。アベノミクスで80円から120円まで進んだ円安で、円安になれば増えると思われていた輸出もちっとも増えはしなかったし、輸入も減りはしなかった。全然輸出入と為替の変動とには関連がないらしい。儲かろうと損しようと関係ないのだ。

前にも書いたが、3年ほどの間に5割も円安が進んだのに、日本のドル換算GNPは少しも落ち込んでいないし、国民も貧乏になっていない。反対に富裕層の増加率はアメリカをしのいでいたらしい。ドル換算だからまさかアメリカは抜けないはずなのだが何とも奇妙な現象だ。しかも今年に入って円高になってから輸出が増えているという。

昔の言で通り、「自分で考えで行動する人間など1千人に1人もいない」かどうか知らないが、そんなものがごく少ないということは確かだろう。圧倒的に多数のものは人と同じことを考え行動しているのだ。であれば人と同じことを考えれば協調するように仕向けることもできるはずである。あるいはめいめいが勝手に行動することだ。勝手に行動していればうまくいくのに、わざわざ費用を使って取り締まるから人まねをしようとする人が犯罪を起こす。『取り締まっているということは、皆一様にそういうことを考えていることだ。だがたいていの人には実行は出来ない。ならば自分は実行してやろう』などと思いそうなことだ。こうして本来ならば1千人に1人くらいしか考えそうにない悪事も、現代社会では5人のうち4人くらいが考えるということになる。実行できるのは大体30人に1人くらいだろうから、理想の社会では3万人に1人くらいしかいないはずの泥棒も、現在の資本社会では150人のうち4人も存在することになり、当然ながら800倍(3万人当たり800人)も泥棒の数が多ければ常駐の警察も必要だ。

考えることと行動することは全く別であることはこの間の雨の事でも分かる。子供と孫が同時に小雨の中を傘もレインコートも無しで散歩すると、走り回っている子供は全く濡れていないのに爺さん婆さんは濡れているというのは日常的にあるだろう。夏場なら子供の方は服も濡れていない。雨が降ると自動的に発熱してこれを蒸発させる様にできているからだ。雨量が増すにつれて発熱量も増加するだろう。ところが低体温の人だとこれが出来ない。気化熱を奪われて体温が下がるだけだ。そうすると免疫力が低下して風邪をひきやすくなる。特に冬場の雨では多くの老人が雨に濡れて肺炎を起こす。しかるに多くのものはただ頭で考えただけのことが現実にも起こると決めつけている。行動は予測できないということが考えられないのだろう。こうした場合はかえって直感主義者のほうが実際に即した行動がとれるようで、「安全を考えたら走らないのがベスト」という。確率の問題で転んだらどうしようもない。それに向かい風だったなら走った方が3倍も速くずぶぬれになってしまう。このところ連日調べて10日ほどたってやっと昔の実験で歩いた方が濡れなかったというのがあったらしいのが出てきた。まあ、冬は除くとして、小雨に限らず普通の雨でも歩いているうちに乾いてしまうのが普通だからそうなる。激しく降るほど体温も上がろうとするからだ。むしろ霧雨で傘をさす奴の気が知れない。帽子のほうがよほど便利だ。毎時2ミリ程度の雨なら普通の帽子で十分防げる。乾くということを考慮している人はまず見当たらないが、仮にコップ一杯くらいの水を被ったとしても、晴天の日に表を歩けば10分もすればすっかり乾いてしまうように、蒸発の力というものもすごいものがある。それにもかかわらずなぜ乾くということを考慮しないのだろうか。そういえば中学か高校の時「小雨位なら降ってるうちにも乾いて来ちゃうから傘は差さない方が利口だな」と聞いたような気がする。今の人の思い込みだろうか。

かのマルクスによって空想的社会主義者としてあしらわれたものの、実質はマルクスなどよりも何倍も賢かっただろうパレロワイヤルの狂人シャルル・フーリエ(1772-1837)は、貧困、物欲、社会及び宗教による強制が人々を労働へと駆り立てると見た。このうち、物欲だけは人間の自由意思で操作できる。朱に交われば赤くなるのも物欲だ。彼はファランステールという共同社会を考えたが、ごく単純な作業しか行わない社会では物欲は生まれにくいように思う。だから自分の好みに従って仕事を次から次へと渡り歩くこともできる。物欲のない社会では最初に述べたような理由でものの値段はひどく安くなるし、こうした社会が広まるにつれて物価はますます下がる。ついに世界中にこうした共同社会が行き届けば最終的にはすべてのものの値段がゼロになる。ただフーリエ自身も大反対だったというが、こういうやり方は産業近代化や製造には無関係であって、農業を中心としている。
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ただ最初にこんなことをやって日本の通貨が強くなるとは思えないが、物価が下がるということは通貨が少なくなるということだからもしかすると円高になるという期待も少しはある。そうすると輸入するには何不自由はなくなるが、そうはならずに、諸外国は日本の産業が停滞したと思って円は買わなくなるので円安が進んでしまうだろう。そうすると、国防のことを考えると心もとなくなるのだが、魅力のない国に侵攻しようという軍事政権もあまりないとも考えられる。政府も円高を期待していると思うが、日本銀行は円安でもよいと思っているようでもある。

だから特に輸出入で収益を得ているような企業は大打撃どころか消滅する恐れが多分にある。そのほかにも1%の富豪層にとっては面白くないだろう。しかしロシア革命の時のように彼らを処刑してしまうようなことはしまい。ドストエフスキーが『罪と罰』で描いた様子はまさにこの事を言ったものだろう。しかし、ナチスがやったというように、富の一部を没収してしまうということはあるかもしれない。こういう社会の裁判では、彼らは物欲というけしからぬものに魅力を感じた不届きものであるという罰則を受けそうな感じがする。ソ連や中国で現実に起こったことを思うとそういう懸念もしてくる。利潤の追求を第一としている企業など実際はそれほどなくて、そうした指示を送っているのは国家自体なのであると思うが、大衆はすっかり社会にどっぷりつかってわからなくなってしまっているからだ。

インフレだとかデフレだとかいう論議は、アダムスミス以来の、「人は自己の利益が最大になるように行動する」というでたらめなことを仮定している経済学から出ただけのものでので全く話にならないだろう。そうした経済学は国家政府が承認しているところのものであるだけである。もしかしたら昔の大日本帝国が描いていた「大東亜共栄圏」という巨大妄想が実現していたなら、世の中どう転ぶかわからないものだから、ひょっとして今より何層倍もましな平等社会が出来ていたかもわからない。「ファシズムはコミュニズムより恐ろしいから先にたたかねばならない」などといわれていたそうだが、果たして大日本帝国はファシズムだったのかどうか。単なるポピュリズムであったのかもしれない。満洲国の経営にしても最初のころはうまくいっていて、もしかしたらノーベル平和賞位の価値はあったともいう。何か妨害があっておかしくなったのではないか。戦後極東裁判において東条英機が自信をもって、満州国経営以来の日本の歴史を見ればこの戦争が防衛戦争であることがはっきりするだろうといっていたということにはそれなりの根拠というものがあるだろう。東郷元外相にしても、防衛戦争だから宣戦布告はいらない。国際法でそうなっているとしていた。真珠湾攻撃に宣戦布告が必要だと考えていたのは山本五十六ぐらいであったらしい。どうもこの辺りは「日本は外交政策に疎かった」ということで簡単に片づけられすぎてしまっているのかもしれない。いまはあまり言われないようだが、当時は圧倒的多数の日本人にとってこの戦いは「聖戦」であった。

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