「戦艦「武蔵」レイテに死す」というのを読んだ。

戦艦「武蔵」レイテに死す 未曾有の大艦孤高の生涯 (光人社NF文庫) [ 豊田穣 ] - 楽天ブックス
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どうも船というのは進水させて海に浮かべてから艦橋や砲台などの上部構造を作るらしい。造船所で作るのは船体だけで、考えてみればそれが当たり前だった。しかし、秘密厳守の点ではどうしてもばれてしまうのではないかという気がしなくもない。

大和の場合は、呉の海軍造船所で作ったから、ドック内に注水して静かに浮かび、引き船5艘で港内に引き出すだけで進水式の完了であったらしい。くす玉が割れて紙吹雪と共に7匹のハトが飛び出すだけのさびしい式だったという。

しかし武蔵の場合は民間の三菱重工業の長崎造船所で作ったから、レールの上を自重で滑り出して海に出る。だから勢いで向こう岸に衝突してしまう。向こう岸まで680mしかない。そこで600トン近い鎖を舷側につけて引きずったというが、バランスが大事だっただろう。従来のものよりかなり幅広といっても、進水台の幅は4メートルしかない。4メートルくらいはいるだろうという程度のことで、6万トン以上の巨艦ということくらいしかわからない。詳しいことは呉の一号館のところで聞けと言われただけで、まだ設計図も受け取っていないので、一号艦の大和を見学に行ったが、「そんなものはどこにもない」と断られてしまったそうだ。4か月ほどして再訪すると、今度は見学させてもらえたというが、こんな調子だから、同型艦といっても、大和と武蔵がどこまで似ていたのか怪しいものである。大きさについても夏と冬でかなり違ってくるはずなので、単に「長さ何メートル」といっても正確ではなさそうだ。もし仮に寒いときに寸法を測って作ったならば、暑い時に同じはかり方で作ったものよりも大きくなるだろう。やはり「25℃1気圧で何メートル」といわなければいけないようにも思う。東京タワーでも夏と冬で10センチと少し違ってくるという。

長崎造船の玉井所長の見積もりでは、昭和13年3月起工、15年3月進水、16年9月完成となっていた。正式に艦政本部から指令があったのは、昭和12年の1月で、この時は三菱社長の岩崎小弥太も出頭した。その時詳しいことは呉の一号艦のところで聞くようにといわれたので、上記のようないきさつになったらしい。

昭和12年6月1日には基本設計図が手交されたが、まだ2号艦を乗せるキールには利根が乗ったままであるので、建造には書かれない。12月にやっと利根が進水するころには、建設のための資材もぼちぼち届き始めていた。そして13年2月にようやく見積もりが行われ、契約書に捺印がされた。金額は5265万円で、大和の1億4千万よりもだいぶ少ない。海軍の方から支給されたものがだいぶあるのでその分少ないだけである。3月30日から工事が始まった。実際の作業にかかってみると容易ではなかったので、工事完了日は17年の12月末に引き伸ばされた。

その間、昭和14年9月にはついに第二次世界大戦がはじまっている。15年5月4日には横須賀の海軍造船所で通称3号艦が起工された。8月8日には1号艦の進水式が呉で行われている。2号の進水が11月1日だから、1号よりも2か月ほど短縮できた。11月1日の進水式の日の長崎造船所付近は1800人の警備が敷かれた。この日の朝8時30分、及川海相により、2号館は「武蔵」と命名された。そうして満潮の8時55分に進水した。12本の鎖の抵抗で艦は進路を曲げたので対岸へは衝突しなかったが、津波により対岸の家は床下浸水だったそうだ。

もし日本が46センチ砲を装備しているとわかれば、アメリカもあわてて46センチ砲を備え付けた戦艦を建造していただろう。40センチ1トン砲弾では、遠距離からいくら命中弾を浴びせてもを打ち破ることはできないからである。大和の装甲は46センチ2トン砲が当たっても防げるように厚く施されているからだ。戦艦アイオワは33ノットでそうこうできるというが、大和や武蔵の舷側大和28ノットが逃げれば、差し引き5,6ノットでしか近づけない。その間大和に撃たれっぱなしだし、射程距離内に入っても、相当近付かなければ相手にダメージは与えられない。多分数時間かからなければ有効距離までに近づけなかっただろう。それでは爆撃機の500キロ爆弾などへの河童ではないかというと、やはりアーマーに守られた部分はなんともなかったらしい。いっそのこと手早く修理可能な10メートルのコンクリート船ではどうだっただろうかなどという気もする。

後は、艦橋やら砲を取り付けたり煙突などを作る艤装工事だ。8か月ほどで形ばかりあらかた出来上がった翌16年7月には佐世保の第7ドックに回航され、推進器や舵を取り付けることになったが、その一週間ほど前の6月22日にはドイツがソ連に侵攻した。筆者の豊田氏によると、この2面作戦でイギリスは安泰となったとアメリカが判断した。それで日本への敵意がむき出しになったなどとされる。佐世保で工事を終えた武蔵は、8月1日に再び長崎へ戻って艤装を続けた。10月六日には主砲の46センチ砲を取り付けた。16日に近衛内閣が総辞職し、18日には東条内閣が発足。12月8日の開戦後、一週間後の16日には大和が竣工を終え、21日には第一戦隊の3番艦となった。マレー沖の開戦で、戦艦プリンスオブウェールズやレパルスが航空機に撃沈されたという報を聞くに及び、大和や武蔵は連合艦隊GFの旗艦としては不適とされたらしいが、結局は両者ともに最終的には旗艦となった。

しかし、2号艦武蔵はこれ以降ほとんど期待されないまま建造を進めるだけになっていったらしい。しかし、緒戦の快進撃でそんなことはしばし忘れ去られていたようだ。それも半年後にはいきなり貧乏神が取り付いたかのように負けだした。一回でも敗北すれば、もう国力の差で挽回はまず無理だ。しかし、いま教えられているように無謀な戦いであったかというとそんなこともなかったかもしれない。一年くらいは優勢のままの状態が続き、講和に持ち込めたかもしれない。なぜ負けだしたのかわからないというくらいの逆転劇であったとしか考えられない。

17年8月の竣工を目指して艤装が急がれていた武蔵であったが、ほとんど艤装が出来上がった5月には呉のドックに入った。武蔵の内装、特に高級官僚の集まる会議室などは大和と比べても立派なものであったらしい。武蔵の3連装46センチ主砲はそれぞれが同時に発射されるのではなく、それぞれが5分の1秒ずつ遅れて発射されるので、オシログラフを使って写真で調整された。環境上の巨大な電探との連動のほかに、潜望鏡式の照準器が砲塔の横についていた。ここの爆弾が直撃したらさすがに困っただろう。航空機射撃用の機銃類は大和に比べて当初から相当数のものを配備していた、もう大和の時と比べてやや元気がなかったかもしれない。戦艦は主戦力になりえないということは整備員誰でもわかっていただろう。すでに3号の信濃は開戦直後に工事見送り、6月のミッドウェーの敗北後航空母艦に改造が決定している。その後の8月に武蔵は就航した。果たしてこのマンモス艦が今後活躍できる日が来るのだろうか。武蔵の乗組員というのはいずれも超一流であったから全員そんな疑問を感じていたという。武蔵の設計は10年以上前で、主砲戦闘を主としたアーマーの設計なので、水平下のアーマ―は薄いところがあった。

武蔵が初めて遠征したのは18年1月18日で、トラック島だったと記録されているそうだ。もうかなり負けだしているころで、17年11月14日には第3次ソロモン海戦で戦艦ワシントンの40センチ砲に高速戦艦霧島があっけなく撃沈され、日本海軍は大艦巨砲主義にふたたび自信を深めた。21日にトラックに到着した武蔵はここで先発の連合艦隊旗艦大和に会う。そして2月11日には大和に変わって旗艦となり、山本大将が乗り込んだ。しかしわずか2か月で長官はいなくなった。長官の部屋から線香のにおいがするので誰ともなく気づいていたという。通説では作戦の失敗の責任をとって自ら前線に赴いたということになっているが、真相は長官自身はラバウル行きには反対だったという。精鋭である海軍航空隊が陸軍士官の下で戦うことを避けるには大将に出かけてもらわなければならなかったらしい。

5月21日付でGF司令長官は古賀峰一大将が任命され、武蔵は山本長官の遺骨を乗せて翌日木更津沖に到着した。そののち武蔵は横須賀で整備や塗装を受け、6月24日に天皇の行幸を受けた。天皇は水雷艇で武蔵にのぼり、午餐の後水雷艇で帰った。翌日武蔵は呉へ。

その後再びトラックへ向かい、8月5日に入港。翌19年3月15日には横須賀で整備点検などして、トラックはもうだめなので、その西のパラオに向かった。石油が足りないというのにまあ無駄なことだとも思う。戦闘らしい戦闘は何もやっていないのだから無駄な話だ。ただし訓練で46センチ砲はだいぶ撃ったらしい。2月29日にはパラオについた。そうして、ニューギニア北方に敵がいるというので3月27日にパラオを出たが、さっそく魚雷に当たり、数メートルの大穴が喫水下6メートルほどのところに空いて2千トンの海水が流入した。武蔵乗組員には気が付かないものもいたらしいほどの衝撃だったが、7名が死亡して、呉のドックで修理中にふやけた死体が出てきたという。ここでも全然役に立っていない。

4月3日に呉に入港して、対空装備を強化した武蔵は、ボルネオ島のタウイタウイ泊地に向かう。そして6月19,20日のマリアナ沖海戦後、7月末になってようやく電探連動型射撃装置を積み込んだという。しかしこれが敵戦艦や空母に打撃を与える日はとうとう来なかった。マリアナ沖海戦でも、わずかに実戦と思われるものは、大和とともに4万メートル先の敵機群に46センチ砲を連続一斉発射し、これを飛散せしめた事のみだという。武蔵は少なくとも敵機2機(以上?)の撃墜を確認したそうだ。しかし案外と機動部隊の活躍というのは少なく、大体において軍艦をやったのは潜水艦部隊であって、是は昔と変わっていない。まあ潜水艦の魚雷のほうがずっと破壊的ではある。この後武蔵は6月28日にはまた呉に戻った。7月9日にはシンガポールのリンガ泊地に向かう。向かったというより、トラックが基地だったが、そこがやられたので次々と避難先を求めていったというのが本当だ。

こうしてブルネイを10月22日に出港し、レイテのマッカーサー部隊をたたきに行ったが、やはりだめであって、24日に5度の空襲を受けた。武蔵は4度の空襲をこうむったそうだ。しかし敵飛行機の損傷も激しく6度目の空襲はなかったが、武蔵は間もなくシブヤン海に沈んだ。武蔵の場合筆界当たりせいぜい30機ほどの戦闘機が攻撃したに過ぎないから、命中精度はかなり低かっただろうが、その代わり損傷機に銃弾の命中を重ねることが出来たから、数十機は撃墜できたらしい。しかし大和の場合は命中率は相当高かったはずだが、600機以上の敵機に襲われたので、ランダムに数発ずつしか当たらなかった。5,6発の被弾ではまず墜落しない。

どうも一発命中すれば落ちるという感じの記事が多いような感じがするが、命中したって簡単に落ちるはずがない。

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