「「健康第一」は間違っている」を読んで

健康というものを自分の肉体が病気にかからないことという程度のこととして、そのために努力することにどのような意味があるのかと考えると、肉体などというのはせいぜい120年間のものであって、末永く続くものではない。お金は永久に存続する場合もあるから、もしかすると健康よりもお金のほうが偉いのかもしれない。それに120歳の年寄りが20歳の青年と同じ様にあくせくランニングをして毎日を過ごすなどというのはいかにも浅はかに見える。年寄りは年寄りらしく若者から敬われるような知恵のある暮らし方をしなければ少しも格好良くない。そういうのを馬鹿年寄りという。

冒頭から、「長生きを目指すのと、今死んでもかまわないというのは等価である」という仮定が飛び出してきて、いきなり考えさせらえる。長生きや健康はむしろ悪の部類に入るのではないかともいう。今死んでもかまわないという瞬間の蓄積に意義があるのであって、その蓄積があるからこそ、長生きによる肉体の劣化という罪が帳消しになるのではないかとも考えられる。身近な例を挙げれば、登山家の信条なんて言うのがあると思う。あれなどは多分登頂の成功は生命よりも大切であるから、わざわざ危険な道のりを上り詰めていくのであって、もしも登頂への道が平坦であって傾斜も何もない安穏な道のりであったなら、そんな気楽な山登りなど面白くもなんともないであろう。また、今しかできないという切羽詰まった脅迫感情のようなものがあるから人は努力するものであって、健康であり続けるなどという実現不可能な妄想を心に描いていては、オリンポスの神々のように鈍重怠惰でい続けるばかりで、不老不死ではないことに老いてはじめて気が付く連中というのは実に哀れなものであろう。


日本などにいるとどんどん空き家が増えているというからそれほど実感はないが、世界平均的には最近の爆発的な人口増加で、間もなく地球には住む場所がなくなるだろう。確かビルゲイツなどは、ミジンコの味に慣れなければそのうちに食料がなくなるとか、ワクチン接種で人口の減少を図らなければ人類の危機だなどとしているらしい。一方で地球には早晩住めなくなるから宇宙開発を進めてどしどし月や火星に移住しようというグループもいる。大体ミジンコの味に慣れたとしても、人が異常に増殖してしまったら水不足覿面だろう。諸惑星への移住計画が順調に進めば、地球は再び緑の楽園に回帰し、巨大生物が地上を跋扈するようになるという話もある。しかし、移住など失敗して全部墜落し人類は滅亡するという説ももちろんある。そういうことになるはるか以前に、現在生きている人間はもれなく死に絶えるわけであるから、健康に努めることなど趣味の一つでしかないと思うわけである。世間のものは単純に、健康でなくては趣味は出来ないと思っているようだが、とんでもない誤謬ではあるまいか。

「膠原病」の本に、「『ループス腎炎なら透析になってしまっても仕方がないだろう』と思う医師は一人としておらず、絶対に透析を避けることができるよう治療したいと思っている。もし努力の甲斐なく透析になってしまったとすると、患者さんと同様、我々も大きな敗北感を味わうことになるだろう。」と書かれてあった。こういう言い回しからすると、膠原病内科医が最も悲惨だと思っているのは、どうも人工透析を受けている患者だという感じを受ける。透析患者には得に痛みも何もないのかもしれないが、最も時間的制限を受ける。多分、内科医というものにとって、時間は健康よりも大切であると思う。もっとも、患者のほうも健康力を徐々に放出することにより、精神力のほうは徐々に獲得しているのかもしれない。大体、健康なものが俄かに透析を受けなければななくなったとしたら、多くのものはきっとうつ病を患うだろうが、もともと病気であったものが透析を受けてもあまりうつ病にはならないらしい。

筆者の名郷直樹氏は、「70歳から急激に死んでいくという世の中と90歳から急激に死んでいく世の中とに、どういう違いがあるのか」(*)といっているが、死の直前まで比較的健康であったものと、長い間慢性病に悩まされていたものとでは、死ぬときの苦しみの程度が異なるであろう。健康であったものはガンなどの痛みに対する免疫のようなものを持たないのに加え、死に対する恐れといった精神的な苦痛というものが重なり、断末魔の苦しみを味わうことが多いだろう。これに対し、慢性病だったものは、肉体の痛みもさほど感じないうえに、「これでやっと楽になれる」といった昇天の喜びによって、死へのおそれどころか、幸福者の島への旅立ちに対する期待によって精神的なストレスもさほど感じないはずである。さあ、こうしたことをふと考えてみると、健康なものと不健康なもののどちらが得なのか一概には言い切れないだろう。むしろ、身体の不健康を望む人がいてもおかしくはない。そのうえ慢性病の場合、30年もかかってやっと諦めがついて治ったという人が意外と多い。少なくはないようである。こうなると、病気持ちであったもののほうが死に対しては断然有利であって、まず泰然として望めることになる筈である。ヘレンケラーのようにあきらめても無駄だというような人でも死は救いの一種なのであって、「死によって別の部屋に移れば自分の目は見えるようになる」といっている。死は最良の明らめであり治療法である。
(*)ついでに、この傾向を過去にさかのぼって行くと、原始時代には30代で急激な死亡が現れたかというと、そんなはずはないのであって、例えば古代ローマ時代の市民帳などの記録によると当時の市民の平均寿命は75歳前後であって、これは江戸時代末期の日本人の平均寿命もそんな風であったという。古代社会に住んでいたものは成人するまでに相当淘汰されて強いものだけが生き残るわけであるから、現代人などよりもずっと頑健であったはずなのであって、まあ50歳以前にくたばるとは考えにくいのである。「人間五十年」などという唄があるらしいが、あれは武将というものは戦で死ぬから50なのであるが、そうした危なっかしい戦国の世にあっても100歳を超える武将は何人もいたのであり、90歳以上となるとその数はかなり多く、やはり昔は空気も澄んでいて水もうまかったのが長生きにつながったのだろうか。もっともこの時代も元気が取りえで長生きというでなしに、真田信之のように若いころから病気持ちで細々と病床に臥せりながら93歳ころまでしぶとく生き抜いた武将もいたらしい。石田三成の嫡男重家は坊さんになって104歳まで生きたという。総数にしてせいぜい1000人しか判明していないであろう戦国武将にあって、100歳以上が3名以上も存在していたらしいというのは、これは明治時代などより断然ベターな住環境ではなかったかと思う。武将と言えば男性だろうが、男性の場合令和の今でも100歳以上は100人に1人程度しかいない。しかも戦国乱世の時代といえば小氷河期であって、高齢者は卒中で死ぬ可能性大のころである。

ウィキに「高齢で死んだ著名人一覧」というのがあるが、中華思想らしいのは嘘だと思うが、案外世界最高齢者は昔にいたのではなかろうか。

近代になるまで平均寿命が短かったのは誕生後最初の10年以内に人口の半分以上が死んでいたからで、それを除けばその後の変化は今も昔も似たようなものである。多分あらゆる動物でそんな感じなのではなかろうか。ある程度の年齢になるまではあまり死なないで、ある時点で突然一斉に死に出し、それが20年か30年経つと静かになって、その後は大体めいめいバラバラに死んでゆくが、どうしても超えられない点がある。

現在は、男性は85~86歳、女性は91~92歳が死亡率のピークで、それ以前もそれ以降も対照的に減少しているが、面白いのは高齢者に多いという新型コロナウイルスによる死亡率のグラフはそれよりも若いほうにピークがある。つまり高齢者はコロナではあまり死んでいないとみることもできる。特に100歳以降の高齢者はコロナでは、介護を必要とするような基礎体力の低下した人以外は、まったく死んでいないとみることが出来る。ただコロナのような風邪ウイルスは、ガンとか心疾患などのように60代にピークを持ちそれ以降は減少しているようなものと比べると、ぐっと自然死曲線に近くなる点で高齢者に危険であるということもできる程度であろう。


健康第一などという非現実的な、ありえない妄想を可能だと信じて疑わないというのは、大衆に先見の明というものが欠如しているからである。過去に起こった出来事は固定されて動かないものであるが、未来の出来事は様々に枝分かれしているから、両者は徹底的に異なっているものだなどと勝手に思っている。過去も未来も単なる空想なのだとは思わない。現実に過去がどれだけ変化しているのかということには少しも気が付かない様子の人々が多い。反対に「未来には無限の可能性がある」などといった気のきいた言い回しに大抵のものは引き寄せられる。過去に惑わされるものは、未来にも惑わされる。夢を追い求めているように見えても、今現在を捨てているので、結局は何もできない。



健康づくりなどつまるところ、ただの趣味であって、グルメ食べ歩きとさして変わるところのないものかと思う。ヨガのインストラクターなどにしても、健康を旗印にしている割には、普通の詰まらない病でそれほど長生きなどしてはいない。年齢の割に老けたようなのが多いので、どこが不老長寿なのかと思うことが多い。健康を求めて、日ごろビタミンミネラルに大金をかけたところで、安らかに死ねるかというと、そうはいかないというのが実際らしい。徳川家康なども大枚はたいて漢方に励んだが、その割に対して長生きでもなかった。まあ徳川は遺伝的に短命なのかも知れない。仏教のお坊さんは概して長命だが、食事云々のためなのか、心の平穏のためなのかはわからない。ヨギの短命なことを思うと、食生活や体操よりも心構えが大事なようにも思える。しかし、修行したから大病は避けられるかというと、がんで死ぬものも多い。心臓病や卒中よりはましらしいが、坊さんでもがんで死ぬときは苦しいらしい。木魚をたたく時のようにぽっくりとは死ねないようだ。

「いつでも健康志向」というのは、国民の声を政府が取り入れたものなのだと思うが、その割にいつものように反対運動というのは起こらない。弦愛日本では乳がんを除くすべてのがんが減少しているが、それを健診に励んだためと取るのは、二酸化炭素を取り除けば地球は冷えるというのと同じで、根拠は全くなくただの生態学的検討なのだという。健康志向など結局は夢物語に過ぎないものなのだろうが、夢を追いかけるというのは宝くじを買い続ける人が後を絶たないというのと同様なのだろうか。本の始めのほうに日本とアメリカの正反対の幸福曲線が乗っていた。日本では子供の頃が幸福感のピークで年齢が進むにつれ不幸度が高まるが、アメリカはその反対で高齢者ほど幸福になる国だという。アメリカは何事もマネー第一の国だ。日本では「お金より健康だ」というのが主流なのであるから、結果を見る限りでは、日本人のものの考え方は間違っている様である。どうも健康よりお金のほうが大事だと思えてならない。第一お金を持っている人は仮に体を壊しても、「俺は金持ってるから大丈夫だ!」などといいそうな感じである。地獄の沙汰も金次第というから、金持ちは死に臨んでも平然余裕かもしれない。

「病気を起こした率の比較」と「病気を起こさない率の比較」で、全く正反対に見えるというのが世の中では当たり前のことであって、両方の見方のどちらも正しくて、どちらが違っているということもない。医療関係のデータはすべて前者の比較であるから、病気の治療効果を拡大してみさせている。そのうえデータの絶対数が少な過ぎて信ぴょう性に欠ける。多数派を悲観論に導いたほうがたいてい金儲けができるので、企業というものはたいてい悲観主義を世間にばらまく。それでこれといった効能もないのに、血圧低下の薬などを飲んだりしているのが世間の傾向である。1年後2年後生存率などということになればかなりの違いはあるものの、本質的には70歳を迎えたものが辿る道は、末期のがんを宣告されたものが辿る道に近く、しかも末期がんとは異なり回復の見込みは全くない。高血圧などはなおさらであって、血圧低下の薬を飲むなどというのはたぶん無駄になる部分が多すぎるだろう。
「健康第一」は間違っている (筑摩選書) [ 名郷直樹 ] - 楽天ブックス
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健康づくりというのが単なる趣味の類にしか過ぎないものであって、ただしきりに良いことのように世間では持て囃されているので皆が励んでいるということに過ぎないものであることを認識させてくれる書物であった。薬品メーカーの宣伝工作に、国民全体が洗脳されているといってよい。皆が健康に励んでしまうと、ますます医療費がかさんで、保険料がうなぎ上りに上昇する。これも「自分だけよければいい」という現代社会の風潮なのだろうか。

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