健康より大事なもの

ふと「整形サイボーグ」などといわれていたバニラという女性は今どうしているだろうかなどと思った。ネットで検索してみると、ああしたタイプの人の過去は失せられた部分が多いのかと思っていたら、意外と多くのことがわかっているようである。昨年くらいの自演で腕に2億円の費用を整形手術に使ったらしいが、収入減はおおむねすべて美容整形院の広告収入だそうである。美容整形外科の院長などは年に何十億と稼いでいるだろうななどと思う。それだけ多くの人が美容整形外科を訪れているというのにはちょっとびっくりする。大体毎年50万人ちょっとしか女性は生まれてこないだろう。一人頭100万円かかるとして、1つの病院で100億円の収入を上げるには1万人の患者が必要だ。大手の美容整形の病院が全国に10個あるとすると、とんでもない数になってしまうから、おそらく何千万円という高額医療費を支払っている患者もいるのだろう。それにしても50人に1人か2人は美容整形手術を受けていそうだというのは案外であった。まあ、中高年の皺取り手術程度のものはざらにありそうだが、こういうのはそう高くもなく、パソコンを買うくらいのものではなかろうか。

さて、バニラのように何度も整形を繰り返すという人の話を聞いていると、どうも間違っているように思うのだが、果たしてどこが間違っているのだろうかというとあまりよくわからない。『フランス人形のようになりたい』という気持ちがあまりに大きくて、それがどうしても自分自身の命よりも価値があることとしか思えないらしいので、そうしているというのだが、これは雪山童子の話とどの辺が大きく異なるのであろうか。

雪山童子はウィキペディアの「諸行無常」の項に出てくるが、今現在はまだリンクのない赤文字だ。各種のホームページでは独自に扱っているところもあるが、大概感情に流れている部分が多くて普遍的な形で説かれている部分が少ないように思えるので、タンパク質合成にはアミノ酸を細かいペプチドに分解するのが必須なように、大きな塊だけ投げられたのでは吸収するにはむしろ阻害されるところが大きそうだ。

諸行無常の4行の偈文(*)の後半を聴くために、雪山童子は羅刹の口中に飛び込んだわけであるが、一般に、ここから「悟りというものは生命よりも価値のあるものだから・・云々」」と説かれるのが普通である。しかし、もしかすると、雪山童子は羅刹に食われて命を落としたわけではないということのほうが大事なことなのかもしれない。人間の価値観はすべて迷妄であるというだけでは、迷妄であると判断出来る絶対的な真実というものどこにあるのかが判然としない。やはり絶対の尺度というものが宇宙のどこかに存在していて、それは人間の頭にあるのかもしれないが、仮に頭にあるとしても相対的なその他すべての尺度とは異なり、厳然として宇宙全体と共鳴するようなものなのだろう。
(*)前半の「諸行無常 是生滅法」の部分を「流転門」、後半の「生滅滅已 寂滅為楽」の部分は「還滅門」という。いろは歌はこの下の和約だという話もある。


何事も相対主義の世の中になって、それなら他人の多様な意見や生き方を許容できる寛大な社会になったかというと、事実は全くのさかさまのようであるとしか思えない。絶対の基準というのがないと人々は不寛容になるみたいである。「大衆に自由を与えても戸惑うだけだ」というヒトラーの言葉は真実を得ていたからこそ、一時は王者のようなものとして一国を君臨することが出来たのだろう。

相対と絶対については西欧でもヘーゲルのようにそれなりの理屈を述べた哲学者もいるらしいが、梅原猛氏等は「あれはウソだと思う」なんていっている。仏教はニーチェに似ていて完ぺきに近いらしい。角川ソフィアの「仏教の思想」⑤を書いた田村さんは梅原さんと同じ哲学出身だが、人はみな絶対の観念に支えられていき、行動するが、その絶対のイメージが壊れた時、人生に挫折が到来するといっている。無情なものに絶対を求めるのは、迷妄の嵐だから、難波するに決まっている。

絶対についてもっともよく論及したのは、中国南北朝時代の天台智顗(538-597)だという。彼は、『法華経』の「妙法」の解釈を通して、真の絶対の在り方を明らかにした。「妙をよんで絶となす」、つまり妙法は絶対の真理であると説き、その絶としての妙に、「相待妙(そうだいみょう)」と「絶待妙(ぜつだいみょう)」の2種あり、前者は相対的絶対であって真の絶対とはいえず、後者こそが真の絶対なのであるが、この立場が推し進められると、かえって最初の相対的絶対よりも悪いものとなる。思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまい、矛盾と濁悪に満ちた相対的存在に過ぎない現実をそのまま肯定し、現実に頽落する結果を招く恐れがあるからで、日本の天台本覚思想は実際にこのような罠に陥ったそうである。智顗は「『諸法務業経』に貪欲そのまま道であるなどというのは、善にのっとって修行する能力のないもののために、欲望そのままで道を収めることを勧めたものであって、貪欲そのものを肯定したものではない」と強く語っているそうだ。そこで彼は第3の絶対として、矛盾を矛盾と認め、相対を相対と認めながら、それらを超えて統摂する絶対を説いた。そうしてこれを「非絶非待」度と呼んだ。「滅待滅絶」、「待絶俱絶」ともいうそうだ。

これらの思想は、昔ナーガルジュナが、真の絶対は物体と物体の間の中(ちゅう)にあるものといったことの解明であったらしい。ナーガールジュナは透明になることが出来たので、見えないものが見えたが、その技を身に着けていないものは見えないものを見ることが出来ないからである。ナーガールジュナよりはるか以前のウパニシャド時代から不死は人々のあこがれであった。死の現実に目を覆って不死であるかのようなふるまいをすることに対して、激しい警鐘を鳴らしたのが釈迦牟尼であったが、バラモン哲学者たちからは虚無論者であって存在するものの破壊者であると決めつけられていたようである。とりわけ死というものをよく語ったそうである。無駄なことをしている時間などないのだから、シャニムニ真理をつかむべきだというようなことを触れ回った。


今の瞬間に永遠を感じるという「永遠の今」という映画でよく言われるような言葉は、第2の絶待妙に該当するといえる。第1の相待妙は、有限的存在に対して、それを超越する無限者を絶対と見、相対に対する絶対、時間に対する永遠を立てるところの2言論だといえる。人間はあくまで相対者としてとどまり、絶対の神と断絶し、救いがない。実際にあるものは単なる矛盾対立のみで、イデーの観想のみにとどまるものであり、堕落の人生だという。健康願望もフランス人形も、願望としてとどまる範囲であれば同じ類であるが、フランス人形のほうは「神」の様なイデーの観想となりうる点で、巷にあふれる健康願望よりもややましだともいえる。ただ健康づくりは国家レベルの宣伝によってよいことのように喧伝されているので、皆が一様に錯覚しているのかもしれない。健康は悪徳であるといわれている世の中であったらどうなるだろうか。「不健康はよくないものだ」というのは「子供を産まないものは不徳である」というのとさして異なるところはない。それなのに、一方を口にすれば賛意を受け、同じ意味合いの他方を口にすれば反意を受ける。同じものを聞いても逆の反応をするのだから、人間とは実に矛盾に満ちている。
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