永田鉄山

10年位前だろうか、津本陽の「日本剣客列伝」というのをかいた。その前からずっと永田鉄山がどういう場面で斬殺されたのか知りたかった。剣道の達人である相沢中佐は、河内守藤原国次の名刀で、永田少将を夏服の上から袈裟掛けに三度斬ったが、どうしても斬れなかった。挙句は自分の左指4本に骨まで達する重傷を負ったそうである。竹刀剣道では、刃筋のことを全く考慮に入れる必要がないが、実践では刃筋を立てなければ敵を斬るのは不可能だからだというのが、津本氏の説明だった。魚屋は刃筋を立てて円形線を描き、引き切りに身を斬るので切断面が鮮やかだが、素人がやるとぶつ切りだ。ただ当てればよいというやり方では夏の軍服でもかなりの防御らしいのが日本刀で、だから関羽の刀剣は重かったというわけだ。重量のある剣なら刃筋は考えなくてもよかったのだろう。日頃道場で鍛錬した技など、実践では何の役にも経たないということを、津本氏はたびたび繰り替えして語っていた。どうも突進力と刃先の正確な円運動がカギのようだ。

それにしても暗殺の場面を想像すると、かなり疑問に思うことがある。斬殺するまでにかなり手間取っているのだ。ピストルでもあれば簡単に防御できただろうし、なぜ机上のものを投げつけなかったのだろうか。そのうえ部屋には鉄山一人が執務していたのではなく、組伏せようとタックルしたものが腕を斬られて失神したそうだ。この人は東京憲兵隊長の新見英雄。西郷隆盛が片腕を切り落とされても、憮然として何やらつぶやいたというのと比べると、妙に気力のない軍人という感じがしないでもない。宮本武蔵のような人だったらば、たちまち一刀両断だったのだろうが、そんなのと比較すれば随分スローだったはずで、もっとうまい防御法が咄嗟にひらめかないというのは軍人の気のゆるみではなかろうかと思うわけだ。津本氏によると、剣を振り下ろす速度は80分の1秒だという。ボクサーのジョブパンチが30分の1秒ほどだろうか。テレビのシャッターが50分の1秒だというが、よく映っていないのでコマ送りの間に終わってしまうのだろう。多分剣はジョブパンチより速そうだから80分の1秒で当たりかもしれない。しかし竹刀剣道では振り下ろす竹刀はずいぶん多くのコマでとらえられている感じだ。4コマか5コマも映っている感じがする。5コマの場合、0.1秒もかかって振り下ろしている。木刀と違って竹刀は素早く振り下せないのだろうか。
・・剣などよりはるかに竹刀のほうが軽そうだが、剣の重心が持ち手の位置より少し上のあたりにしかないようなのに対し、竹刀の重心は随分上の部分にありそうだ。これでは竹刀剣道の練習などいくら行っても、実践ではまるきり役に立たなかっただろう。江戸期以降内乱が収まってからの平和な時代の剣法というのは技術面の華々しさのみが求められて、役に立たない練習ばかり多くなったため、戦国時代のような力強い剣豪というのは出なかったのではあるまいか。

鉄山が生きていれば戦などなかっただろうというのが今時分の大方の意見らしいが、2.26事件の青年将校から見れば、日本で一番悪いやつが永田鉄山であった。2・26事件後に軍法会議で死刑となった磯部浅一は、獄中日記で「これが皇軍の中央部将校連か、なさけない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、今にして上下維新されずんば国家の前路を如何せんと云う普通の感慨を起こすと共に、ヨオッシ俺が軍閥をたおしてやる」という決意に燃えたそうである。昭和天皇の態度に対しては怒り心頭に発するという具合で「なんという御失政でありますか」と述べていた。愛国心のかけらもない非国民に見えたのだろうが、かなり偏狭している。「国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ」という辞世の句を残した。青年将校たちは大方すべてのものが、マルクスやエンゲルスの共産主義の理想に燃えていたから、この連中こそ、ソビエト革命同様に、永久の不戦を貫いていたかもしれない。ただしロシア革命と違って、日本の長である天皇は神の子孫であって人ではないから平等社会でも彼らだけには特権があるというのが青年将校の見解であった様でもある。まあ、国体があったのでは共産主義とはいえず、変な社会主義ともいえる。個人の自由という点から見れば、めいめいがてんでんバラバラに勝手なことを行うというのが共産主義である。だからまとまった軍隊などあるわけもなく、他国に侵略されたら多分一巻の終わりだ。こいつらに軍部を掌握されては一大事と見たのが、天皇一族であるのはもちろんであろうから、軍閥のあり方は根本的に変わらず、鉄山の後は同じ系列の東条英機が継いだ。


明治17年(1884)1月14日生まれの鉄山の家は代々医業を営む名門であったそうだ。父の志解理(しげり)は「鉄山!お目は必ず立派な軍人になれ!」と言い残して息を引きとった。明治28(1895)年8月26日だから、11歳の時で、それ前は軍人になる気などまったくなかったらしい。医者となって人に尽くすより、軍人となって国に尽くせとの願いに対して、鉄山はその場で父に固く誓ったらしい。だから軍人になったようである。ピアノやバイオリンと違って、世の中で頭角を現すのに英才教育はあまり必要ないらしい。常に成績優秀であったが、人を見下すようなことはなく、平凡人として終始した。多分、史上元もバランスの取れた軍人であったという。軍人の誉れと医者の心得を両立させる道は戦わずして勝つという道である。そうした信念を持った男だったから、青年将校たちからは「日本一の悪人」と見られたのかもしれない。戦わないなんて言うのは大ウソつきであって、およそ革命を成し遂げる道は暴力しかないのであり、だからロシア革命も暴力革命である。人間すべて平等で貴賎の別ないなどという立場からすれば、富めるものが迫害されるというのは正しい共産主義ではないだろうが、当時の手本は暴力によって成立したソビエトばかりだった。陸軍内部でも、派閥を問わず青年将校たちに同情するものは少なからず存在していたというし、それ以前から革命的軍人に対する処罰は奇妙に軽度だったという。ただ天皇だけが烈火のごとく怒った。軍隊は天皇絶対なので、それ以降の歴史の推移はどうしようもない。記録は青年将校たちの暴挙はすべて悪いとするものばかりとなる。これらの記録に基づく歴史解釈を無条件に信じてしまってよいものあろうか。もしかすると青年将校たちが積極的に犯行に及んだのではなく、過剰防衛を演出するように仕組まれていたのかもしれない。合衆国連邦政府がよくやってきた手管を日本が応用したということだったりする。赤穂浪士討ち入りのようなやむに已まれぬ内情が隠されているかもわからない。実際に太平洋戦争の時代に生きた人々は『なんと馬鹿なことをやったものか』などと思っているだろうが、それは若気の至りというものであり、「あんなことをされたら普通の奴はやるだろう」という体のもので、青年将校のほうがふつうだったのかもしれない。


永田鉄山は国防に関する論及で、「・・永久の平和に憧憬して、甚だしきはそれが来たりつつあるかのごとくほしいままに妄断して、いやしくも国防軍備を軽視閑却せんとするがごときは、断じてこれを排撃せねばならぬ。」といっている。これが遠因となって「日本一の悪党」となったのかもしれない。かつて国防を閑却して滅び去った仏教国があったらしいが、その国と国民はそれでよしとしたに違いない。国が亡びるからこれを排撃するというだけでははっきりした理由とはならない。

「バーデンバーデンの盟約」というのがあるそうで、このドイツの地に帝国陸軍軍人少佐3名が集まり、ホテルの一室で夜中まで熱い議論を交わして隣客に小言を言われてやむなく就寝したことが、3人のうちの一人岡村寧次大将によって後世に伝えられている。大正10(1921)年10月27かであった。3名のうち、革命に最も背極的だったのが小畑敏四郎で、消極的だったのが永田鉄山だったそうだが、いずれにせよ保守ではなく革新派で、常道から逸脱するものが嫌悪され迫害されるのは世の常であって、この点は青年将校たちと同じだ。のちに小畑は皇道派に、永田は統制派に分かれて対立していった。皇道派はおおむね社会主義だが、ソ連との徹底抗戦を望んでいた。ここからもソ連がインチキ社会主義だったということが感じらえる。かといって、初期のころのソ連はかなりの欧米人や東洋人にとっては理想国家であったらしく、劇作家のバーナードショー等はソ連を希望の国、イギリスやアメリカは絶望の国としていた。資本主義の本質がいかに醜いものかということである。巧妙な宣伝工作により、痘痕もえくぼ的なものになってしまっている。平均律で和音が奏でられると思えば不協和音も和音になるようなものだ。正反対の極にある価値観のどちらが善でどちらが悪になるかは、その時の社会の雰囲気次第だ。本書を書いた岩井秀一郎氏などは永田鉄山を石原莞爾よりも評価しているが、逆の見方もある。筆者も「別の見解を持っており」というだけで、こうなると、常々言っているが「過去も未来も全く同じ創造の産物」に過ぎない。

要するに、気持ちの持ちようで世渡りなどどうにでもなるもので、あれこれ不平ばかり言っているものはいかように世間が変わろうともやはり永久に不満を漏らして毎日を過ごしているものなのだ。


さて、執務中の永田鉄山のもとに相沢三郎が面会に行ったのは、暗殺の一か月ほど前の7月19日のことであった。二人とも初対面だが、鉄山のほうは相沢と違ってそれほど深刻にものを受け止めていなかったらしい。しかし相沢のほうは、皇道派が斜陽したので気が気でなかったらしい。軍部は護衛をつけたほうが良い旨を進言したものの、永田のほうは「人間死ぬときは死ぬものだ」と相手にしなかったという。

相沢はいったん福山に帰ったが、8月に入って自身が台湾に移動となったことを知り、8月10日に再び上京の途についた。その2日後の朝に事件が起こった。

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