日本人はラテン民族と似たような性格だったかもしれない。

どちらの民族も文明の最も大きな移入は赤道化の太平洋からもたらされたものだろうからである。

従来、日本人は、南方モンゴル系の縄文人と、北方弥生人との混血であるという説が有力であった。しかし近年遺伝子検査から、縄文人も北方系であるといわれ始めた。それが「日本人バイカル湖畔起源説」だ。南方系はせいぜい1割程度だろうという。遺伝子検査といっても、ひょっとすると人の遺伝子は思考の影響も受けているかもしれず、そうすると見かけは科学的で客観的だなどと思われがちだろうが、案外骨化石をもとにした昔のやり方のほうが客観性は高いのかもしれない。しかし21世紀に入ってからこの研究も個人によるバラ対が多いということで、結局どうでもいいようなことになっているらしい。免疫グロブリンなどは全く後天的に獲得され、ほとんど任意に消滅しては新たに生まれるといった性質を持っているので、これが科学的手法だとはとても思えない。潜水艦でテレパシー実験と同レベルの話のように思う。

第一、移民を企てるものなど一定の社会のうちの1%くらいしかいないだろう。それが他の地域で繁殖すれば、同民族であっても、遺伝子的には全くの別種だというように計測される。これをボトルネック効果などというらしいが、そんなネーミングはどうでもよくて、こうしたことが起きるのは当たり前だ。


日本人が古来は北方系だったことを暗示させるものは、太陽の色である。日本では平安時代の末期までは太陽は金色であった。これは大概の国と同じである。ウィキの「日本の国旗」という項目には「世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的である[5]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。また世俗的にも『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。」と書かれている。

南方系だったら、たぶん最初から赤なのではないか。どうしても赤道直下近辺の住民が見る太陽は赤とかオレンジ色だ。散乱により対応校の青み成分が失われることもあるし、日差しが強すぎて瞼の血液の色が範囲されるということもあるだろう。文化的伝統はそうそう簡単には変わらないだろうということを考慮に入れれば、日本人のルーツは多く北方系ではないかとも思える。

それがどうして赤色になったのか。鎌倉時代の始まりころから急激に赤くなり始めたらしい。南方文化の大挙伝来ということが考えられる。この時代だと、まず頭に浮かぶのは、仏教の普及ということがあげられるが、歴史に残るほどの権力を有する支配者がこぞって南方文化を支配地一体にも広めたと受け取ることもできる。南方文化と関係あるのかどうか知らないが、鎌倉幕府は代々贅沢者氏が大嫌いだったらしい。禅宗をきわめてよく保護したのも、それが質素な宗派であったからというのが大きいのかもしれない。頼朝などは華美な朝廷を忌み嫌い、調停に近づこうとしたものは身内でも許さなかったほどだというが、朝廷警固の武士装束などの復元図などを見ても、『戦うものが偽装もせずになんとまあ艶やかな衣装であることだろう』とおもうばかりである。安土桃山の桶狭間でも、今川義元の家臣はだいぶカラフルで遠目にも目立つ武家装束であったようだ。およそ北方の武士は余程地味で、こんないでたちはしないだろう。その後鉄砲や大砲の時代になっても、大将はやはり一発狙い撃ちの対象であったようで、平家物語から戦乱の世が終わる江戸時代までこんな伝統が続くというのもほかの文明社会にはあまりないだろう。かのモンゴルの大軍を苦も無く追い払ったことで妙な自信をつけたのかもしれない。こうしたことから見ても、日本人の基調は北方系だろうが、日本文化は南方系だ。

日本では支配階級が政治の表舞台に立つことはなく、表向きの主人は朝廷であったから、大地溝帯を境に、西と東ではだいぶん文化が異なる。西国でも朝廷の権力の及ばない九州などはまた豪族風だ。もっとも、東国でも東北などはやはり幕府の権力は及ばず、地方権力が幅を利かせていたことは間違いないだろう。北海道はといえば、江戸末期まで日本ではなかった。それどころか渡航さえ禁じていたのだが、勝手に移民を初めて「住めば都」にしてしまったのだから、北方四島がどうのこうのなど本来いえるような話でもなさそうである。

長らく幕府の根城であった関東界隈では、「宵越しの金は持たない」とはどういう意味か、危険すぎて明日はどうなるかわからないから稼いだ金はその日のうちに使えという意味か、それとも人生など遊んで暮らさなければ損だということか、どちらのがわに偏っていたかで見方ががらりと変わるが、少なくとも幕末のころの日本人一般は、世界に冠たる懶惰民族であったらしい。当時の町人や百姓はおよそまともに走れなかっただろうという人もいるくらいだ。何十年も走るようなことはしなかったので、すっかり走ることは忘れていたに違いないという。日本人にとって「走る」とは「手を振って歩く」。「歩く」とは「手を振らないで走る」という程度の違いしかなかった。後ろ足で蹴って歩くという今の歩き方と違ってっ前足に力を入れて体を手繰り寄せるという歩き方で、このほうが滑って転ぶことはないが、大股で歩けない。幕末に日本を訪れた西欧人は異口同音に日本人のような怠惰な民族は見たことがないと記しているらしいが、当時の西欧人が息も切らせぬせっかちやであったのかも知れず、何とも言えない。しかし伝聞通りに受け取れば、日本人本来の遺伝的特性は大変な怠け者であって、だからこそ「早起きは三文の徳」だとか「濡れ手に粟」などという諺があるのだろう。三文得するといっても朝早く起きようとしないし、わざわざ手を濡らして余計に粟をつかもうとする努力もしないというのが日本人一般の習性であったに違いない。まさに南国の気風で、ゴーギャンの楽園タヒチみたいなものだったのだろう。

一方で、おそらく例外的に勤勉な連中もいたはずであって、そうしたものがいわゆる商人というものであった。こうした連中は少数派であるのだが、よく書き物をしただろうから、後世に残す資料の割合はずいぶんと多めになる。残されたものが多ければ、人はその気になるもので、日本人の特性は勤勉なことだと思いたがるもので、明治以降勤勉になったなどというのもやや眉唾(高度成長は勤勉によって成し遂げられたのか、ああいうのを勤勉というのだろうか)なのだが、幕末の自由な怠惰さと比べれば、確かに拘束された勤勉さというものはある。

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