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zoom RSS ヒトラーの秘密図書館〜その1

<<   作成日時 : 2011/11/23 16:27   >>

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『ヒトラーの秘密図書館』という本が届いた。1900円だが、370ページ以上もあるし、装丁もかなりしっかりしている。訳本のあとがきに2009年11月と書かれているが、ティモシー・ライバックの現著作が何時ごろ出たかはっきり書かれていない。しかし、ヒトラーの愛読していた書物から彼の思想を解き明かす試みは1300冊の蔵書が無傷のまま保管されていながら省みられなかったのは誠に不思議なことだと書かれている。しかし、このような卑劣な男が、大変な読書家で一万6千冊以上の蔵書の少なくとも3分の1には目を通し、類まれなる記憶力で瞬時にその断片を逐語的に暗誦反復することができたなどとということをあからさまに話題にしたくなかったということも容易に想像できることではある。たぶん総統になる以前の読書量のほうがすごかっただろうから、蔵書以外にもかなり眼を通していたのではないだろうか。確実に読んだとされるのは軍事関係の7000冊の蔵書のほとんどで、軍事の次には歴史とか政治関係のものだが、精神界や霊界に関するものも多かったという。ヒトラーはどうやらあるときを堺に、自分は12使徒の1人の生まれ変わりだというように信じ込んだともいわれている。「いくら罪を犯しても最後には許される」という霊的な信念もこの当たりが起因なのだろう。パウロでさえ許されたのだから、まして・・というわけであろう。おそらくパウロと意見をことにする使徒なのだと思うが、聖書で有名なのは「黙示録のヨハネ」だ。しかし、黙示録のヨハネはネロ帝の69年以降の人であるらしいから、ユダヤ人のパウロと同じころの人らしいが、12使徒ではないようだ。ヒトラーは聖書には取り分け精通していたが、それというのも、黙示録の数字の謎解きは、彼のような性格の子どもが特に好むものだったのだろう。


ユーチューブの「ヨハネの黙示録666の正体」というのを見たが↓
http://www.youtube.com/watch?v=qhQfNDJdiRE
なんだかよくわからなかった。


彼はゲーテやシラーよりもシェークスピアーのほうがあらゆる点で優れていると考え、「ハムレット」のほかにも『ジュリアス・シーザー』を特に愛読した。そうして、シーザーの暗殺された3月15日には重大な決定を行なうことを控えていた。シーザーの生年月日ははっきりとはわかっていないが、紀元前100年の7月13日頃とする説が一般的である。前44年の3月15日に暗殺されたことは確実だから、55歳半は生きたわけで、満56歳の誕生日後間もなく自殺したヒトラーと同じくらいだった。ヒトラーの絵画がうまかったことはよく知られているが、廃屋のような寂れたものを描くのが好みであって、人物画のようなものはあまり好きではなかったような印象を受ける。

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     簡単な家計図があったのでのせておく。
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第一次大戦ではヒトラーは伝令兵というかなり危険な任務についていた。前線で戦う兵士に文書などを届けるという仕事だが、電話線が切られたときなどは敵の砲弾が飛び交う中を走っていかなければならないときもあり、彼の属する第16予備歩兵連隊に8人いた伝令兵で残ったものは最後には彼一人になっていたという。1915年のイープルの戦いにも参加したが、真夜中でも上官に声をかけられた伝令兵の中にはたいていヒトラーの顔があったというから、単に勤務態度が優等だという以前に相当の体力の持ち主だったのだろう。1916年の10月始めには、地下通路に潜んでいたところに爆弾の直撃を受け、足に重傷を負ったために、2ヶ月間を「すばらしい建物の白いベッド」で過ごした。このベーリッツの野戦病院での療養中に彼はベルリンの博物館を見学する機会を得たという。ミュンヘンでクリスマスを過ごした後ヒトラーは前線に復帰したが、1917年の10月にもベルリンで10日間の休暇を過ごしている。翌18年の初秋にも10日間の休暇をベルリンで過ごしているから、よほどここが気に入ったのだろう。9月の末に前線に復帰して間もなく、10月13日の晩にイギリス軍の毒ガス攻撃で倒れているところを救出されるが、一時失明する。順調に回復していたが、11月にドイツ降伏の知らせを受けて、再び短期間の失明状態に陥った。ヒトラーのヒステリー発作というのはこの辺が起源なのかもしれない。

ヒトラーがミュンヘンの政界に足を踏み入れて間もなく、31歳になった彼は当時脚本家として知られていたディートリッヒ・エッカート(エッケルト)(1868−1923)(右写真)画像と運命的な出会いをする。エッカートはヒトラーと出会う前から、ドイツに秩序を回復させることのできる指導者(フューラー)を捜し求めていた。「われわれは、機関銃の音に慣れた指導者を必要としている。日とを震え上がらせることの出来る指導者を。」。エッカートはヒトラーに情熱と前線での経験を見た。ヒトラーに初めてのトレンチコートを買ってやったのも、初めての飛行機旅行やベルリンでの観劇に連れて行ったのもエッカートだった。ヒトラーに文章の書き方を教え、初めてのエッセー集を出版してやったのもエッカートだった。「この男はドイツの未来です。いつか、世界中が彼のことを話すようになりますよ」といいながら、エッカートは自分の裕福な知人たちにヒトラーを紹介して回った。エッカートは死の床で「ヒトラーに続け!彼は踊るだろう。だが、音頭をとったのはこの私なのだ。」といったという。ヒトラーはエッカートを「国家社会主義運動の北極星だ」と賞賛した。

エッカートと邂逅して数ヵ月後の1920年1月にヒトラーは党首ドレクスラーに代わって党首の座に就く。ドレクスラーは何度かナチス党と他の国家主義的運動との合併を模索していたが、ヒトラーは離脱すると脅してその計画を潰していた。あるときドレクスラーはアウグスブルク大学哲学教授のオットー・ディッケルと交渉した。ディッケルは、シュペングラーの「西洋の没落」のペシミズムに対抗して『西洋の復活』というものしていたが、その中で「経済的社会主義および公認された反ユダヤ主義と積極的な国家主義が手を結べば西洋文明は復活する」と論じていた。ユダヤ人の「専制」はドイツのみならずヨーロッパ大陸全体にとって最大の脅威である。ユダヤ人は新聞を、芸術を、教育を支配し、それによって「民族の魂(フォルクスゼーレ)」の支配者となり形成者となった。ユダヤ人の影響力が支配するこのメカニズムを一掃せよというのがディッケルの主張であるが、取り立ててそこに親身があるというわけでもなく、たとえばエッケルトの戯曲でも、師エッケルトと弟子ヒトラーとの対話の形で、エッケルトはヒトラーにユダヤ人の集団的越権行為とカトリック教会の失策を非難させている。「600万人の男の血と、数万の子供をしに追いやったといわれている十字軍は、ユダヤ人の発明だ。」。ヒトラー自身といえば、これらの反ユダヤ主義に対しては「非科学的だ」として、子供の頃からいらいらしてくるものがあったというから、まったくのエッケルトの作り話なのであろう。それでヒトラーはドレクスラーに「あんな本はナンセンスだ」として、ナチス党とディッケルの接触を拒んでいたのだが、ヒトラーの留守の間に無断でドレクスラーはディッケルを講演会に招待してしまった。ヒトラーは急いで講演会場へと赴き、ディッケルが彼の作成した25か条の綱領をナチス党幹部の前で批判しているのを目撃するが、会議を終わらせようとするヒトラーの意向は党の代表者たちにさえ支持されず、エッカートでさえその場を動かなかった。それで「自分が無視されるのは自分に学問がないせいだ」と思ったのかどうか知らないが、以来夢中でどんなに忙しい日でも一日一冊の読書は欠かさないように努めたということだ。

ディッケルの一流の学歴に比べて、17年前に高校を中退して以来、ほとんど学問というほどのものを持たないヒトラーにとっては、理路整然とした論拠で弁論を進める相手に弁舌の才能が備わっていた場合には、到底演説の場で勝利を得ることはできなかった。とはいえ、ヒトラーが生来読書というものを軽んじていたのでは決してなく、その反対に幼いころは父親の本棚を引っ掻き回していたり、気に入った著作家の著書を読みふけっていた。ヒトラーが読書好きであったことは、リンツ、ウィーン、ミュンヘン時代の知り合いも語っている。ミュンヘンのティールシュ通り41番地のヒトラーのアパートに最初に運び込まれた家具は木製の本箱であったし、その本箱が友人から贈られた本や古本屋で買い集めた本でいっぱいになって次の本箱を購入すると、すぐにその本箱もいっぱいになるのだった(下の写真)。

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ミュンヘンの国家社会主義協会に右翼的傾向の書籍を集めた図書館で、ヒトラーが1919年から21年までに借りた本のリストにも、4ページに渡る100冊以上のさまざまなジャンルの書物が並んでいる。この図書館に所蔵されていた膨大な数の反ユダヤ主義的な書物―スチュアート・チェンバレンの『19世紀の基礎』や、自動車王ヘンリー・フォード(1863−1947)の『国際ユダヤ人ー世界の最重要問題』、『ルターとユダヤ人』、『ゲーテとユダヤ人』など。図書館の創設者のクローンは、「その表面的で無計画な読書傾向のお陰でヒトラーの存在に気付いた。」とか「彼は読んだ物総てを消化することはできなかったかもしれない」などと語っている。

つまり、1921年当時には、ヒトラーにはミュンヘン大学で政治思想の講義を一週間受けて、図書館で100冊強の本を借り、自前の本棚2箱に入りきらない分量の書物で右翼思想を2年間学んだだけの知識はあって、街頭で一般大衆を相手に演説する力は充分にあったが、正式の集会の場で大学教授を前に論争するだけの知識は全く持ち合わせていなかった。大学教授を相手にしても、相手に弁才がなければ勝つのは比較的容易だったが、ディッケルのようなものが相手では手も足も出ずに、会場から逃げ出すしかなかった。ナチスの党員たちも、ヒトラーの無教養ぶりは感じていたし、エッケルトでさえそれを気にしていた。実際、ディッケルトの演説を聴いた晩、ナチスの幹部たちは、ディッケルトこそナチス等が今必要としているヴィジョンとリーダーシップを両方とも示せる男であり、「熱心だが単純な男」ヒトラーでは国家社会主義の指導者は勤まらないということを強く確信しつつあったそうである。

ヒトラーはディッケルの「西洋の復活」を繰り返し精読した。そして、ナチス党に向って、「‘カール・マルクスを理想主義者と呼び、ワイマール共和国の民主主義的構造を破壊しようとしているものの愚かさと卑劣さを非難し、ドイツ経済をユダヤ人の手に委ねることによってわが国の健全性をたもつ’などと主張しているものに同調するような党を自分は糾弾する」といって、その後間もなく脱党した。ナチス党は直ちに危機に陥り、しかもヒトラーが彼自身の党を結成するのは確実と思われた。ヒトラーかディッケルかどちらかを選択するしかなかった。

ところが、結局これがヒトラーのうまいクーデターと同義的事実となって、1921年7月の下旬にはナチス党内でのヒトラーの独裁がより強固なものとなったのであった。「ヒトラーのプライベート・オフィスには、机の脇の壁にヘンリー・フォードの大きな写真が飾られている」というニューヨークタイムズ紙の報道は1922年12月のことだ。オフィスの控えの間の大きなテーブルにかさ寝起きされている書物のほとんどはフォードのもののドイツ語訳だったというから、このころに反ユダヤ思想を強固させたり、「シオンの長老の議定書」の知識を得たのだろう。そうして1923年11月8日の木曜日に、ナチスはミュンヘンの居酒屋に突撃し、政治指導者に銃口を突きつけて忠誠を誓わせるが、翌日、政府軍の待ち伏せを受け、反乱軍は16名が負傷し、ヒトラーも倒れた表紙に肩を捻挫した。しかし、ミュンヘンの政治指導者たちたちは「ヒトラーにピストルで脅かされてやむなく決起したのだ」と主張した。本当のことなのに、ヒトラーはこれを「彼らの裏切り」だと激怒し、自殺を企てたという。脅したのは本当だが、中央政府に対して氾濫の計画を始めたほうは彼らのほうだから、ヒトラーにもいい分がある。おかげで10名を失ったし、自分も怪我をしたのだ。このミュンヘン一揆の失敗で5年の禁固刑に処されている間に執筆したのが「我が闘争」だが、35歳になってもヒトラーの文章は誤字だらけであったという。このミュンヘンのすぐにしにあるランツベルクの監獄は、広い中庭付きのうえに集会室や図書館も完備されていて、釈放されるまでの1年ほどの間というもの、何時も夜遅くまでヒトラーの部屋には明かりがともっていた。ヒトラーの夜の読書のために、夜間消灯命令が解除されていたためだ。暇を得た彼は、ショーペンハウアーやマルクス、ニーチェなどの哲学書、トライチュケなどの歴史書、ビスマルクの著作などを読んでいたという。あるときは「その存在そのものが国家である人間は幸いである」と、マハトマ・ガンジーにたとえられた献辞の書かれている「ガンジー伝」を寄贈されたこともあるそうだ。ヒトラー自身は「ガンジーを崇拝することは民族的倒錯と映る」と述べているが、ヒトラーをドイツのガンジーと見る向きがあったことは注目されてよいかと思う。もっともヒトラーが著作を書くに当って強く影響を受けたのは「フォードは私のインスピレーションだ」とヒトラー自身が語るとおり、ヘンリー・フォードであることは明らかである。こうして『我が闘争』第1巻は、1925年の10月16日までには完成していたがヒトラーが予想していたよりも釈放は遅れ、、その年の12月20日にずれ込んだ。刊行されたのはそれ以上に遅れ、翌年の7月となった。

しかし、ここでよく考えてみると、高校中退で、かなりの読書家で1000冊以上の書物を読んでいた35歳の男が、簡単な文法まちがいやスペリングミスを重ねるということは、ちょっと普通ではないというふうに思える。通常なら、こうまで勉学を重ねているものが、小中学生と同じまちがいを何度も重ねるなどということは、まずありそうにもないことだ。思うのだが、ヒトラーは文章というものに対して、かなりの精神的な葛藤を感じていたので、それが禍してひきつけのようなものが文面に表れたのではないだろうか。教育の欠如などといった種類のものではなく、神経症に近いものがあったのだろう。1928年、39歳の時点に書かれたと思われる『我が闘争』第3巻の草稿には、ほとんどスペルミスのようなものはなくなっているという。写真を見ても、かなり多重な性格の持ち主らしい。

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しかし、この年の春には、ゲッベルスが「絶望的」と日記に帰したとおり、ナチス党は3%に満たない得票率で、消滅の危機にさらされていた。1923年の破滅的な超インフレが、ワイマール共和国の外相グスタフ・シュトレーゼマン(1878−1929)の働きによって緩和され、彼がノーベル平和賞を受賞したことで(1926年)、彼の率いるドイツ人民党が大躍進を遂げていたからである。即ち1922年には1ドル162マルクだったものが、同年中に1ドル7000マルクへ、さらに翌年10月には1ドル4兆2千億マルクとなり、同月発行したレンテンマルクが忽ちインフレを収束させた事件である(ハイパーインフレーション参照)。

・・

またインフレの話が出てきたので、ちょっとこの辺のことも調べたくなり、この辺で一時中断することにした。

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