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zoom RSS 絶対音感というもの

<<   作成日時 : 2012/02/17 16:21   >>

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音楽の時間などでピアノの音に合わせて合唱するというのがある。あれは考えてみると、基音の高さの選び方はめいめいばらばらだ。そうでないと男女の声の高さは、合唱の場合同一になるはずなのに、完全に音程が異なっているのが現実だ。それでも、学校の音楽の指導教官は特にそのことを指摘しようとはしない。けれども、オーケストラの伴奏に音を合わせなければならないオペラ歌手はどうかというと、どうも自分の好きな高さで歌ってはいないようである。なにか指揮者の命令に従っているだけという感じがして、あまりよい印象を受けない。個性や感性を自由に発揮できる画家などと比べると、戦闘国家集団という感じがする。戦争が始まれば、彼らはそれを拒否出来はしないだろう。画家や書道家なら、いやなものはいやだというだろうと思う。音楽は時間を鑑賞する要素が強く、音符の表現する空間的要素はきわめて単純であるところが、人間の個性的表現とは大分相異なる。即ち抽象的表現の持つあいまいさというものが個々の人間を迷わせるのである。

時間の概念にまつわる不安の要素が人間を他者の集団が有する通念にもたれかからせる。過去において自らが好んだものも、極近い将来においておぞましく忌まわしいものとなるのが、記憶というものだ。戦争とはそうしたものだ。過去において圧倒的多数の人間が好んで引き起こしたものに、ひとたび具象の要素が混入すると、瞬く間に人はそれを否定する。現在の具体的な事物のみに固執していれば、人には不安は訪れない。木を見て森を見ずという態度だ。無能なものが森を見ようとすれば不安に包まれる。「森を見て木を見ず」のような人がいたとしたら、これは一種「象牙の党」の学者の生活で、普通の人間がそれをやったら人生めちゃくちゃになること請け合いである。それなのに、なぜこのようなまがまがしいことを道理だとして広めるのかというと、これはやはり大衆が未で牧者が必要であるからだろうと思って、調べてみると、案の定この格言は日本古来の物ではなく、おそらくフランスあたりの西欧から輸入された馬鹿げた格言であるようだ。大衆を不安に陥れ、指導者の意中に操ろうという為政者の罠なのであろう。

ここにおいて、プラトンなどがその教団内の音楽演奏を禁じたという理由も見えてくるのである。集団の中で行動することは個人の思惟や創造性を奪うことにつながる。そのこと自体激しい不安と葛藤にさいなまされるというのが通常の人間というものである。それで人間喪失のために神経症になったものに対する治療などというものも行なわれるが、この方法というのが、かつてのロボトミー手術のように、個人の主体性といったものを放棄させるやり方なのだ。穏便なやり方のように見えるが、自分も周りにいる他人と同じという概念を強く埋め込むことによって、患者を安心させ社会復帰を企むというやり方には、為政者たちの恐ろしい陰謀が隠されているのだ。1970年代にカール・ロジャーズ(1902−87)の考案したエンカウンター・グループなどという手法は、まさに人間の個性の芽生えといったものを奪う悪魔的方法の一つだろう。

集団行動に適応した人間というのは野獣と同じようなところもある。だから「狼に率いられた羊の群れは、未に率いられた狼の群れよりも恐ろしい」というのである。ナチスの軍勢も、未だから強力だったのであって、あれが狼の群れであったなら、それほどの恐れや残虐性というのはなかったはずである。もっとも残虐で恐ろしい軍隊というのは少年部隊だという事実がこれを証明する。昔、「少年十字軍」というのがあったが、大方の予想に反して、彼らが信じがたいほど残忍で殺戮を縦にしたことは先ず疑いのないところである。というのは、屈強な兵士であると、無辜の平民の虐殺というのはなかなかできないことであるのだが、戦士として訓練を受けた少年少女にとっては慈悲心などというものは皆無だからである。その上、子どものやったことだという理由で、記録に記されることはないから、後世に証拠は残らない。もっとも、この計画が国王の耳に入ると、王は直ちにそれを禁止したとはいう。昔の戦争というのも、大衆が率先して行なった暴動が起因しているらしい。ナチスが集団の洗脳教科に当って音楽を最大限に利用したということを考えると、コンサートなどを聴き、理由も分からず容易に感動するようなタイプの人間はきわめて危険であるものということができよう。まして感動のあまり失神(*)するようなものは、戦場においては好んで銃尻を握ることになるであろう。

(*)生命にかかわるような失神発作の起こるものとして、大別すると次の3種類のものがあげられる。@精神的、肉体的ショックなど。A心臓病、血管病。B癲癇や頚動脈の刺激によって起きるもの。もともと血管系のもろいものは、強烈なテレビや強い地震だけ、あるいは稲光や雷鳴といったもので、容易に心臓が止まってしまうことがある。しかし、大体において@のみが誘引である場合は、充分に兵士としての機能を備えているものであろう。年長の男性が排尿後に失神してしまう排尿失神というものは、思っている以上に多いものらしいが、きわめて暑い場所で長時間起立していたことによるもので、@の肉体的ショックに該当する。高齢者においては、脳血管の狭窄により、しばしば数秒という短い時間の失神が起こる。Bの頚動脈刺激というのは、頚動脈洞内の血圧が上昇すると、反射的に血圧低下と徐脈が発生することによる。しかし、気力の充実している人間には極めて起こりにくいものだ。癲癇発作の場合などにしろ、通常は安全が確保された場所でしか起こらないようなものである。

思うに、自らの幻想に過ぎない思い込みによって失神するほどに理性を御する能力を欠いた連中というものは、はなはだしい勘違いのために『自分は世間一般の大衆などとは異なるので、崇高な知的能力によって大宇宙とコンタクトを取るための幽体離脱を行なうことができるのだ』と信じ込んでいるのかもしれない。いわゆるスピリッチュアル系の人間というのはたいていこういったものなのだと考えることもできる。彼らは概して自分たちは戦闘行為とは無縁だと思い込んでいるようだが、霊的な言動に対して同期するということは、即ち霊能者然とした指導者によって洗脳されているに過ぎない。ただ集団のグループに同期することで自らのふがいなさを覆い隠そうとしているに過ぎない。集団の一員として行動している限りは、ただ指導者の理念に従っているだけであって、インプット・アウトプットの機械と同じだ。その指導者に力量があれば、忽ちオーディオ人間などはわれを忘れて戦闘に没頭するものである。オーディオ族というよりも、サラリーマンというのは常にそうした生物だ。心理療法などやるにしても、たいてい音楽などというものが背景に付き物だ。セラピストというのは音楽を利用して、ナチスと同じように人に催眠をかける。これで操り人形となった大衆は、戦闘の音楽が始まれば条件反射で銃弾を発射するしくみだ。

これが絶対音感というもののもう一つの正体だ。音叉のように他のリズムと共鳴することだけによって存在の意義を見出すことのできる物質の塊が、すなわち大衆の正体なのである。共鳴することだけが唯一の生きがいであるものたちの毎日の行動は、まったく音叉と同じようなものだ。


私は数年前までサラリーマンという種族の会話を耳に挟むことがしばしばあったのだが、彼らの間でしばしば語られていたのが「呆けないための方法」というもので、その中には判で押したように「社交的であるべし」などというものがあった。この「社交的であれ」ということこそ大衆の同期を啓蒙する謀略なのだが、裏を返せば大衆には決して自立性は望めないということでもある。



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