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zoom RSS 「日記をつけるという習慣は現代病の表れではなかろうか」ということ

<<   作成日時 : 2012/04/15 16:18   >>

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どうも気になって仕方がない。通常この習慣はよいことのように言われているのだが、なにか心の病を覆い隠すような抜け道の一つとなって現れているのだという気がするのである。こんなことは当人の自由に決まっているのだが、「食べ歩き日記」と称して、自分のブログに携帯電話かなにかで撮った写真をアップしなければ落ち着かないという人種が存在する。ああいうタイプはどうなのだろうか。徹底的に個性というものはなく、大衆ロボットの行動にしか見えないから、「大衆の病理」として扱ってよいのだろうか。「大衆の病理」は不安に基付くものとして、一括して捉えることが出来るだろう。子供の時の不安から何時までものがれられないタイプといってしまっては、数が多すぎてかなりの大丈夫も大衆のうちに分類されてしまうことになると思うから定義としてははなはだ怪しいものとなるが、いまだ自我意識に拘泥している人々のことである。

昔、マイケル・ファラデー(1791−1867)という人は大巻の日記を残したことで話題だから、早速調べてみると、すでに彼は生前において自分自身の日記を6巻に製本していたというが、分量は総てで10冊、びっしり書かれているが、総ページ4000ページであって、これに42年分の日記がまとめられているそうだ。しかし、多いように思えるが、私自身の場合を考えてみると、30歳くらいから始めて47くらいまで書いていた日記が、大学ノートでおよそ15冊、おのおの100ページから400ページの厚みだから、2000ページから3000ページ分はある。昔は紙が貴重だったのかもしれないが、あまり分量が多いといった感じでもない。4万ページだというならかなり日記マニアだといえるが、どうもこの分量で歴史に残っているとはおかしい。どんなに細かい字で書いたとしても、そもそも英文だと語数自体が日本の文字よりも多くなってしまうから、4000ページというのは思ったよりも少ないものだ。逆にいうと、日記というよりは箇条書きに近い骨子だけのものを遺したに違いないということで、そのほうが科学者の研究姿勢としては評価されるのだろう。おそらく純粋な研究ノートだけであって、いわゆるだらだら日記の類ではなさそうだ。どうもファラデーの日記というのは、いわゆる日常のよしなしごとをとりとめもなく綴っただけのものとは違うようだ。

そのようなものではなく、過去に生きてきた軌跡を残さずにはいられないという種類の日記には、なにか病的なものを感じるのだが、不安を隠すような目的で現在行なっている行為の記録を書き留めるというのは、ビルの階数を数えずにはいられないといった強迫神経症の部類の症状といえるのだろうか。食欲によって不安を紛らす単純なタイプのものと比べると、時間の経過による意識の変容といった現象を伴いそうだから、これは不安が外に向った場合、社会的な擾乱を引き起こす場合が大いに考えられる。

不安になるなどというのは、前々からいっているが、全くの気の持ちようで起こることだ。好況だとか不況などという問題も同じだ。不景気だとか好景気などという言葉も、単に統計的なものであって、世の中を探してみれば、好景気だという人はいくらでもいる。それでも、大衆というものが概して不景気なのは、彼らが常に多数派の模倣をして、もしも仲間に入ることが出来なかった並ばなければ、非常な疎外感を味わうからだ。それで彼らは孤独になるくらいなら、むしろ不景気でいたほうがいいものと思い、そちらを選択するのである。ところが彼らは、思考力というものは常に自分自身の意識が所有しているものと信じきっているから、自分の考えていることが分からないのだ。このことと関連するのが、世の中が統計的に不景気であると、突出する人間が輩出するという、一見すると矛盾しているかのような現象だ。しかもその突出した人物は、不景気の間特定的に突出している。同じ人間ばかり何年も連続して突出しているものだから、好景気のときよりもむしろ歴史に残る成功者というのが出やすい。後世になってこれをみるひとは、「あんな大変な時期に!?」などと思いやすい。実は不景気なときほど、好きなことをやれば物になりやすいのだ。不安でいるほど、権威にすがりつきたくなり、結果として人々が同じ行動をとることになるからだ。明治維新において傑物が輩出したというのもこうした理由があるためだろう。また、太平洋戦争時において、経済制裁のようなことが行なわれたので、たぶん、軍隊だけが突出して資源を獲得したなどという例もあげられるかと思う。

それで「世界一長い日記」を書いた人は誰だろうと思って調べてみたが、どうもギネスブックなどにはこんなのは載っていないようだ。同一人物のものだとははっきりとは断定できないだろうから、たぶんそんなものはないのだろう。ただ日本に遺された日記で、そういう風に言われているものはあって、枢密院の議長を務めていたことのある倉富勇三郎という名の人が26年間297冊を残したのだそうだ。だいたい月1冊のペースであって、一日平均10ページくらいになるが、年数はファラデーのものと比べると少ないから、「世界一」とは行かないと思う。この人の日記は同じことの反復が多い退屈なもので、やや強迫神経症めいたものが感じられそうだ。粘着質というか、やや精神病理のほうを強調すると「癲癇気質」の持ち主だ。

「世界一長い日記」で検索してみたが、こんな、資料としてはどうでもいいようなものしかヒットしなかった。その代わり「世界一」という言葉に関連して出てきたのが「世界一高い山」で、これはどうやら計測法いかんによっては、エクアドルにあるアンデスのチンボラソ山という標高(*)6300メートル(ウィキには6267メートルとある)になりそうなことが出てきた。物の高さというのは、潮が引いたときの海水面を基準とした海抜で表すのだが、地球の形というのは赤道の方向に大分太っている。だいたい固形部分で測っても、赤道半径の平均がおよそ6378.1km、極半径が6356.8kmほどで、21.3kmも長い。液体部分も含めての差はもっと開くだろう。その差を考慮すると、やはり1852年以前に世界一高い山であったアンデスのチンボラス山(下の写真)が2100メートルほどエベレストより高くて世界一をキープしているのだそうだ。むやみやたらと、エベレストが世界一(**)とはならないで、ちゃんと別の視点から見た判断基準が設けられているということが分かって、少しほっとした。この方法による計測だと、タンザニアのキリマンジャロが世界第5位となるが、エベレストは第30位のうちにも入らなくなってくるという。

画像


(*)現在標高を決めるのには次の3通りの方法が採用されているという。@地球中心からの距離。A地球楕円体からの高さ。Bジオイド面(地球上が総て海としたときの海面)からの高さ。高さといっても、地面に垂直方向(地球楕円体の法線方向)か、それとも重力の逆方向かによって見方が分かれてくる。家を建てる場合には鉛直線の上方を上にするが、山の高さを決めるに当っては通常地図作成上のルールに基づいて、地球回転楕円体の法線方向を真上とか真下とする。山の高さについては、地図に書かれているものが最も一般的に広まっているから、人口に膾炙している山の高さというものは、2番目のケースのうちの回転楕円体の法線方向を高さとしたものだろう。Bを採用するのが今は主流のようであるが、この方法だと、海岸線の位置がちょうど海抜0メートルとなって違和感が生まれない反面、地球が150メートル幅の凹凸を持ったものとなってしまう。Aの方法だと、地球は滑らかとなるが、日本付近では海岸線の標高が30メートル以上になってしまう(ただし日本では東京湾の平均海面を海抜0メートルとして、これに合わせた基準原点を国会議事堂の前の庭に設け、その場所の標高を24.4メートルに合わせている)。

(**)1820年代に、ドイツの数学者のカール・フリードリヒ・ガウス(1777−1855)が地球楕円体表面から平面への地図投影法を編み出しているから、たぶんエベレスト測量もこの方法の実践という形をとって行われたものと思う。即ち、最初の基準点から何度か三角測量を繰り返し、何年もかけて計測した網の目のようなデータを集計して、入念にデータを補正する。その集計の途中の1852年に、従来「ピークXX(ローマ数字の15)」と呼ばれていた峰が世界最高峰であることが分かったというものだが、その時点では詳しい標高は求められていなかった。1865年になって8840メートルとされたらしいが、どうせ正確なデータなど測っても仕方がないというのか、それきり半世紀ほどそのまま誰も再測量はしなかったようだ。

山登りにしても、日記をつける習慣にしても、どうせ深層には「無為の慰め」みたいなものがあるのだろう。いつも変わらず「大数の法則」によって生きている不思議が即ち不安というものに転化する。毎年同じような平均寿命というのが続くのも、大数の法則による。もしこの法則がなかったなら、「今年はがんで死ぬ人がいなかった」とか「交通事故者が出なかった」といったおかしなことになるだろう。うつ病や精神病による原因を除いた自殺者のように、一見個人個人の意志に基づいて行なわれているようなものも同様である。『まさかわれわれ人間はサイコロとは異なる』などと思っていても、現実はサイコロなのであるから、そこから葛藤が生まれるわけだ。



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