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<<   作成日時 : 2013/06/09 16:18   >>

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アメリカといっても、ブラジルとかアルゼンチンといった南米諸国でも、メキシコのような中南米でもなく、北米のイギリス植民地の独立をさしている。北米植民地の独立などと称しているが、独立したのはヨーロッパから移民した多民族で、現地に古くから定住していた民族ではない。まあ、世界各国歴史に残った大国というのは、多かれ少なかれ他民族を吸収したり絶滅させたりして育ってきたものではあろうが、近代に入ってからこういう形で他文化圏が領土を獲得していったケースはほかに例がないだろう。もっとも、北米には土着の国家などというものはなく、それが南米のアンデス文明やメキシコのマヤ文明とは異なるところではある。


さて、アメリカ植民地人の治安の悪さに悩んでいたボストン駐在のアメリカ駐留軍司令官は、武器押収のための部隊を差し向けた。それが1775年4月19日だった。するとたちまち衝突が起こって、それが独立戦争に発展した。

英国本体がこれを鎮圧に向かったのが独立宣言の採択された翌年1776年の7月のことであったから、かなりのんびりしている。ジョージ・ワシントンの指揮するアメリカ軍はすぐに壊滅し、英軍はマンハッタンに上陸。なすすべのないアメリカ軍は一か八かの奇襲攻撃を12月26日に決行。これをトレントンの戦いと呼ぶ。ウィキによると、イギリス守備兵はたったの22名が戦死しただけで降参してしまったというが、そんなにあっけなく引き下がったとはどういうわけだろうか?一つ考えられるのは、非常によく訓練された兵士は失いたくないという作戦司令室側の司令官の心情というものがある。安いものならふんだんに使えるという、実際にあたっての人間一般に当てはまる感情だ。空想の目で見る場合にのみ、人の命は平等なのである。赤子の生命の価値と、一般市民の価値と、よく訓練された近衛兵の価値とが等しいのは平時においてのみだ。戦時においては、あとのものほど価値が高まる。安全が保障された社会では人々は金銭を欲するが、遭難時に求められるものは食料や水であって、金銭には価値がない。今という時が事大である場面では、将来の働き手ではあるが、当面はむしろ足手まといな赤子は何の価値もない。

その後も、装備の劣悪なアメリカ軍はイギリス軍を何とか破っている。まともに対戦すればどう見ても圧倒的に不利であったにもかかわらずどうにか勝利できたというのは、どうやら正面切って正々堂々と戦わなかったからのようだが、それにしてはイギリス側から不平不満の記録がないというのが腑に落ちない。大半のアメリカインディアンは、イロコイ連合軍としてイギリス軍に加担したようだが、反イロコイを掲げる一部のインディアンはアメリカ側につき、アメリカ軍も彼らインディアンの戦法を大いに採用したようである。イギリス軍人には、素人集団の植民地人には仮にだまし討ちのようなことをされても不平は言わないという、プライドのようなものがあったのだろうか?



こうして1781年のヨークタウンの戦いにおいて、アメリカの独立はほぼ決定し、1783年のパリ講和条約でイギリスはアメリカの独立を承認した。



アメリカ独立戦争をめぐるいずれの戦闘においても、イギリス軍が必死で戦ったようには見えない。そもそもこの当時のイギリス国王はあまり聡明な人物ではなかったようで、この国王のもとに闘うのはあまり潔いことではないと兵士たちが内心思っていたのかもしれない。あまり気力は出なかっただろう。


・・・・・

アメリカ独立戦争を描いた小冊子が見当たらなかったので、ひとまず自宅にあった『世界革命物語』という本によって少し詳しいことを調べてみた。しかしこの本は専門の学者の書いたものではないので、かなり恣意的なところがあるかもしれない。ウィキペディアの記述と非常に異なる点はインディアンの習性に関するところだ。手元の書物ではインディアンは概して敵対的だったというニュアンスだが、ウィキでは一貫して白人側が暴力的であったとしている。どちらが正しいのかはわからない。統計的な問題だと思うから、両極端ともそれぞれがあっただろう。恣意的とはいっても程度次第で、歴史の正確な記載などだれも行っていないのだから、同一場面の記述でも、記述者の心象は正反対ということはよく起こることだ。それは最も客観的であらねばならない科学の世界においてもしばしば起こることだ。・・けれども、ひとまずはこの本によって、以下少々長くなると思うが、ざっと流れを追ってみようと思う。



北アメリカ大陸がルネサンス以降最初にヨーロッパ人の目に触れたのは、コロンブスの数回にわたる西インド諸島や南米への公開の情報をへたのち、1497年にイタリア生まれの探検家ジョン・ガボットが、イングランド国王ヘンリー7世の名を受けてアジアへの新航路発見を行った過程で見つけたものとされている。したがって、彼はカナダ東端のニューファンドランド島に上陸して、その地を探検調査し、ヘンリー7世への報告書も現存しているらしいが、コロンブス同様、彼もその地を新大陸などとは思っていなかったようである。アジアだと思っていたから、そののち一世紀にわたって、移民も植民も行わなかった。西の大陸へ出向いたのは、長い間スペインとポルトガルだけだった。ただし、フランス国王フランソア1世が大西洋コースのインド・アジア航路発見のため、1524年にジェノバ出身の探検家ベルラッツァーノを北米に派遣したという報告がある。彼は東海岸マンハッタン島付近を探索し、カナダ東岸も探索したが、西回り航路は発見できなかった。1533年と35年の2回、フランスのジャック・カルティエ(1491−1557)も探検に出かけたが、公的なものではなかったらしい。ウィキには「ヨーロッパ人として初めてセントローレンス川沿いに到達」とあるが、もしかするとカボットのほうが早いのかもしれない。その後、フランスは1963年にフロリダにジャクソンビルという植民地を築くが、植民地建設体のスペイン領西インド諸島への海賊行為のため、ジャクソンビルの住人はスペイン軍により残らず虐殺され、スペインはフロリダを植民地とした。このころのヨーロッパ人たちの生活はだいぶ窮乏していたのだろう。そのために生命に対する畏敬の念のようなものがなかったのだといえる。日本人の場合、生命の軽視感は自殺へとつながるケースが多いかと思うが、他殺の形へ昇華する民族の場合だと非常に物騒である。

北アメリカへの進出は、記録に残るものとしては、メキシコ在住の1527年のスペイン軍人のナルバエス(1470−1528)によるフロリダ半島制服計画があるが、2隻の軍艦ともハリケーンで遭難してしまった。何とか上陸したものの、武器不足と兵隊の疲労のためか、原住民にあっけなく敗れて敗走した。けれども一行はなおもあきらめず、現地で長い航海に耐えられそうな船を作ると、ミシシッピー河の河口を過ぎて、テキサスにまでたどり着いた。この時まで生き残っていた4人は原住民にすくわれて6年間を共に過ごした後、メキシコに帰還したという。報告されて記録に残っているものではあっても、人の記憶は瞬間を写真のように写し取ったものではなく、すべてが本人や周囲の者の思い込みの再現に過ぎないものでしかないのであるから、どこまで真実なのかわからないが。最近のものでは、終戦時日本軍大本営が発表した数多くの大戦果というものがある。大本営側でも、現地からの大戦果の報告に疑問を抱きはしたが、景気づけにそのまま公表したらしい。敵艦からの発砲射撃の光を見ては、記憶の中で即座にデフォルメして、「敵艦大破」などとしていたらしい。『記憶はウソをつく 』(詳伝社)という本の中で、記憶は後になってから書き換えられているということがはっきりとわかってきているということが書かれている。日米中いずれの回顧録も、まず大半は事実ではないようだ。要するに、『人生回顧録』とか『自叙伝』なんていうのは、いかに誠実な人の物であっても、あらかた出鱈目ということである。

スペイン王国のメキシコ植民地政府は、1539年になって、大規模な調査隊を北アメリカに送った。黄金の7都市http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9C%E3%83%A9を探すというのが表向きの口上だったが、案外真相は別のところにあったのかもしれない。コロナド(1510−54)の大遠征隊は、メキシコ太平洋団の港から、カルフォルニア湾に入り、現在コロラド川の河口付近から上陸した。グランドキャニオンの発見から、テキサスからカンザスまで踏査するが、黄金の7都市は発見できなかった。

スペイン王国は植民地メキシコ領の拡大を続け、プエブロインディアンを制圧して北米、ニューメキシコに進出する。サンタフェの町を築いたのが1609年。そこを拠点にスペイン人の移民を推し進めた。この時開いた馬の牧場により、北米に初めて馬が広まったそうだ。インディアンたちはすぐに乗馬の風習を覚え、この便利な生き物を珍重したという。


イングランドの北アメリカ探検はようやく1584年になってからである。女王エリザベス1世の側近ローリー卿(1552頃―1618)の探検譚だ。最初のイングランド植民地を建設した人物として知られている(*)が、またヴァージニア植民地で発見したジャガイモをイングランドに初めて輸出栽培した人物としても知られている。踏みにじられたぐらいでは何の損傷も受けないじゃがいもは、戦乱の世では特に重宝されたのだった。じゃがいもはイギリスが世界帝国となるころから爆発的に普及しだし、「ローリーの運命の贈り物」と呼ばれるようになった。運命の贈り物といわれるわけは、この果実を調理してバージンである女王にささげたところ、女王が中毒を起こして危うく死ぬところだったので、大逆罪の疑いで逮捕されたというのである。おまけに女王の死後、当局により処刑された。まさに運命というものである。

(*)スペインでは1526年のピサロの報告により早くから知られていた。本国にも送られたが、聖書に書かれていない悪魔の食べ物だとしてはじめは嫌われていたそうだ。

ローリー探検隊はノースカロライナ地方北部のロアノーク島に上陸し、この一帯の土地をバージニアと命名し、帰国後女王の許可を得て、翌85年に100名の移民志望者を募り、ロアノーク植民地を建設したが、翌年にはこの試みが失敗したことが明らかとなり、生存者はイギリスへ帰還した。ローリーはさらに87年にも女性や子供を含む107名をロアノークに送るが、スペインとの戦いが過ぎて、様子を見に89年に訪れると、全員が消え去り町は廃墟になっていた。長い間、当然のように現地インディアンの襲撃に会い皆殺しにされたことになっていたが、どうやら誤記憶による記録文書の誤謬なのかもしれない。もともとこの地に植民地を築いたのは現地インディアンとの交易とスペインへの襲撃拠点とするためだったのに、友好的なインディアンが襲ってくるとはおかしい。

1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が敗れ、スペインの制海権が弱まると、ヨーロッパ諸国の植民地獲得に弾みがついた。1600年、エリザベス女王からの特許状下賜を受けて東インド株式会社が設立する。次王のジェームズ1世は1604年に特許状を与えてバージニア株式会社の設立を許可した。北アメリカ大陸に植民地を建設して、イングランド領に加えようという計画である。植民地建設が株式会社によってなされたというのが面白い。

バージニア会社は同年末までに3隻の帆船を調達し、144人の移民志望者を乗せて出発した。移民船は1607年5月14日にチェサピーク湾に到着。17週の船旅の間に40名の者が病死していた。この程度の死亡率は当時の標準だったという。上陸した104名の者でジェームズタウンを築く。周囲を丸太杭で囲んだ簡単な砦だ。5月26日にインディアンの襲撃を受けたが、撃退できたとある。偵察に訪れたが攻撃を受けたので防戦しただけで、襲撃といえるほどのものではなかったかもしれない。

ジェームズタウン植民地の団長ニューポートは翌年の6月に第2次の移民団を迎えにイングランドに向かう。第2次の移民は女性2名や外国人を含む100名ほどだ。しかしバージニア会社は不振で、植民地経営は滞ったため、経営本部は事業活性化のため、新たに「南部バージニア地方のロンドン植民地会社」を設立し、3代デラウェア卿トマス・ウェストを総督に選んだ。デラウェア卿は自ら団長となり、大船団を率いてジェムズタウンに向かう。途中暴風に遭遇したりの困難はあったが、1610年5月に到着した。あまりの荒廃ぶりに、一時本国へ撤退しかけたようだが、何とか移民団300人はそこで生活を始める。しかし経営は厳しく、新会社の株式も無配を続けざるを得なかった。移民者たちに働く気力がなくジェントリーや貴族の出身で働いたこともないような人々であった。畑を耕すくらいなら餓死したほうがましだというような連中であって、実際そうやって餓死するものもいるように思えたくらいであった。友好的な土地の利用として考えられたタバコ栽培によって、どうにか経営が成り立つといった塩梅であった。これによって移民の数も増え、一時2千人程度にまで増加した。1619年の株式会議で、バージニア会社は会社幹部だけで運営方針を決めるのをやめ、全移民の成年男子の中から20人の代議士を選出して、彼ら20人の構成する議会で会社の運営方針を決定する方針を採択する。しかし、1622年、友好的であった地元インディアン戦士部隊の突然の襲撃(暴走に近いものだったかもしれない)を受けて全移民の3割近くが殺され、それ以降植民地は再び衰退していった。ついに国王ジェームス1世は、バージニア会社を債務不履行の容疑で告訴。1624年、国王は裁判に勝利し、バージニア会社は解散、バージニア植民地は国王の直轄地となる。植民地議会は残されたが、議会が決めたことには国王の承認が必要となった。


バージニア株式会社とほぼ並行する形で、ジェームズ1世は北バージニア会社にも特許を与えていた。こちらは毛皮取引所設立の目的で、ゴッド岬近くのケネベック川河口の島に、1607年に上陸したが、地元のインディアンに交易を拒まれたために計画はまるで進捗しなかったという。結局彼らは一冬越冬しただけで本国へ帰還して、バージニア会社のジョン・スミスと契約し、北米の調査と探索を依頼した。スミスは依頼通り探索を終えると、本国へ帰還し、1616年、アメリカ北部の案内書を自費出版した。ちょうど、弾圧を受けていた独立派ピューリタンが故国を見限り、国外に脱出を企てていたところだったので、彼らの目にその案内書がふれたというわけだ。北米への移住を決意した独立派ピューリタン達は「ピルグリム・ファーザーズ」(巡礼の祖先たち)というグループを結成し(*)、渡航費用を捻出するために7年間働いた。その金に借金を加えた資金で、メイフラワー号という帆船を仕立て、1620年秋にイギリスのプリマスを出港した。行く先はバージニア植民地で、名目は植民地内の特殊開拓地開設であった。これを前提に国王から特許状を下賜し、出港することができたのであった。ピルグリム・ファーザーズの指導者のウィリアム・ブルースターがジョン・スミスに委託してようやく得たものだ。

(*)名称については、後になってつけられたとする説のほうが多い。ただこういう資料もあるだろうということは言える。それどころか、こちらのほうが真相なのではないかという気さえしてくる。どうもただのサークル名であって、アメリカの礎を意味するような仰々しい名称だとは思えない。



こうして、ピルグリム・ファーザーズのメンバー41名と61名の移民志望者たちは、全長27.5m、180トンの帆船で大西洋を渡る航海に出るが、危険な航海にもかかわらず、2名の死者しか出さずに太平洋を渡り切ったそうだ。公開64日目に、大きなしけに流され、コースを大きく北にそらせ、ゴッド岬に漂着してしまう。いったんは離岸してバージニアへ向かおうとしたが、強風により逆に北へ流されたため、再びコッド岬に引き返す。ピルグリム・ファーザーズの指導者2名は、「この特許状はバージニアへの上陸以外は無効だから、我々はバージニアへ向かわねばならない」と移民たちを説得したが、彼らは「この土地に上陸すれば自分たちは自由に行動できる」と主張した。ピルグリム・ファーザーズのメンバーも自由を求めて新天地に来たことには変わらないので、結局この地に上陸することになった。そしてブルースターとブラッドフォードらは「メイフラワー規約」なるものを作成し、全員に署名させたうえ、翌日にコッド岬に上陸するが、探査の結果、入植には不適切との結論を得て、50キロほど離れたプリマスに向かう。出港地と同じ地名なので、縁起担ぎの意味もあったのかもしれない。





そして一行はプリマスに上陸する。1920年12月16日のことであった。厳しい冬を迎え、翌年の春まで生存できたものは半数の50人のみだったそうである。意外なことにメンバーの仲間も一般人と同様に死者が出たという。イエスキリストの「信念さえあれば山をも動かせる」という非常識な信条と比べると、果たして彼らに信念なるものがあったのだろうかと思う一面である。凡人と同様の体力しかないとはいささか情けないところもあったのではないだろうか。幸い付近のインディアンは大変友好的で、トウモロコシの農作法を教えてくれたりした。移民たちは変わり二重の撃ち方を彼らに教えたりと、互いに重宝しあう仲であったらしい。遠くバージニアから寮に来た船から食料を分けてもらったこともあるというが、どうにも腑に落ちないのが、当初の契約内容である。日本流の常識であれば、当然バージニア相関が当たり前だ。それが、バージニアの連中がみて見ぬふりというのが解しえない。ともあれ、このバージニアから来た者たちによって、ポウアタン連合インディアンのジェームズタウン襲撃を知らされる。自分たちに友好的なワンパノアグ族インディアンもいつ襲い掛かってくるかわからない。それに加えて好戦的で、白人を敵視しているインディアンも多い。そこでさっそくプリマスの丘にも砦を築いた。

こうしてプリマス植民地は次第に人口も増え、移民入居者以外にも、現地で結婚した夫婦に子供ができたりして、次第に成長していった。植民地総会は、バージニア会社の特殊開拓地名目の特許状を、正式な北バージニア植民地会社の特許所に変更してもらった。これで、契約上は、バージニアに対して何の後ろめたさも感じるものはなくなった。そもそも、プリマスの位置は北緯41度線よりも北方にあって、バージニア会社が権力を行使できる場所ではなかった。すなわちニューアムステルダム付近より北は北バージニア会社の管轄権であったが、このあたりの土地はニューアムステルダムという地名からもわかるように、オランダ西インド会社の領地であり、マンハッタン島全域は1626年にオランダが、現在の日本円にして20万円相当の品物と交換して手に入れた土地だ。ちなみにこの時南端部に設けた交易所を、インディアンの襲撃から守るために柵で囲ったのが「ウォール街」の始まりとされる。英蘭戦争にイギリスが最終的に勝利して英国領となり、ニューアムステルダムは1674年以降、現在まで継続してニューヨークと改名している。

それで、北バージニア会社というのはかなりいい加減でその後どうなったのかわからないのだが、北バージニア北部のニューイングランド地方への移民を目的とする特許会社が、ロンドンに設置されたのが1620年代の後半らしい。このニューイングランド会社が手掛けた移民こそが現代のアメリカ合衆国の土台をなすものだといえそうだ。ニューイングランド会社が特許状付きで許可した最初の植民地がボストン地区であった。許可を受けたのは、元軍人のエンディコットを指導者とする独立派ピューリタンの団体である。彼らは1628年にこの地に移住した。そして移住先をセーレムと名付けた。「セーレムの魔女裁判」(1693年)で知られるセーレムである。米作家のホーソンは4代前の判事がこのセーレム裁判で不当な判決を下したというので魔女に恨まれていた。それで『7破風の屋敷』(1851)という作品を書いたという。彼の住んでいたボストンの町はとりわけピューリタンの色彩が色濃く残っているという。しかし、そもそも、迫害されたために新天地を求めるという考え方自体が、どことなくおかしいが、はるか昔にモーセたちが行ったこともやはり新天地を求める旅であって、その移住先で行ったこともやはり先住民を根絶やしにするというものであった。

ニューイングランド会社は、ほかにもいくつかの独立派などのピューリタンの団体に植民地開設の許可を与えた。そうして許可を得た団体同士は互いに相談しあって、「ニューイングランド内のマサチューセッツ湾の総督および会社」という会社を設立した。そうして改めて国王から特許状の下賜を受けたそうである。ニューイングランド会社の中の巨大な労働組合のもうけた会社というところだろうか。さらにマサチューセッツ湾会社の本部と特許状をロンドン市から現地に移すことまで決定しておいた。多くはピューリタンであって、ケンブリッジ大の卒業者という共通点があった。彼ら総計1千人以上の社員とその家族は、1630年6月までにマサチューセッツ湾にわたる。さらに株式を所有しないピューリタンも移民に加わり、翌34年には1万人が移住した。人口はバージニア植民地を上回ったうえに、マサチューセッツ入植者のほうがずっと優秀である。暮らし向きも豊かだから、人口も複利式に増加する。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でマックス・ウェーバーが描いたとおりである。特許状を現地に移転しておいたことが功を奏して、一種の治外法権の地域ができた。何か金融ユダヤ資本とやらが行いそうな巧妙な手口を感じる。

マサチューセッツ湾植民会社は、1642年に、50家族以上が住む地域ごとに、6歳以上の子供に読み書き算数を行う学校を設立する初等教育令を出した。ハーバード大学の設立が1650年のことだ。すべての発展が名目上、植民地会社という企業の発展であるというところが特異であると思う。こうしてみてくると、イングランドの起こした企業の発展の延長上にアメリカの独立があったのだとみることもでき、イングランドとしても本気で独立を阻止しようなどという考えは薄かったのではないだろうかと思えてくる。



ウィキには‘インディアンの理念は平和共存にあったので、積極的に白人を襲うわけがない’などということが書かれているが、彼らインディアン諸部族の統治能力は非常に弱かった。だから、酋長の命令に背いて暴走する連中も多かったであろう。積極的だろうが消極的だろうが、結果最初に攻撃したものはおそらくインディアンの側だろうと思う。多分、弁解のしようのないような過ちであったはずだ。それに加えて、もし彼らにアイヌ民族並でもよいから少しばかりの集団統制力というものがあったなら、白人社会が彼らを掃討するようなことはなかったのではあるまいか。j実際アメリカが日本との開国を急いだのは、このように高度な統治能力のある国家を西欧の植民地とするようなことがあってはならないという気持ちであって、武力の損失で互いに疲弊するよりも交易によって利益を得ようという打算からであった。「我が国は西洋の圧力から日本を守る盾となるであろう」という言葉通り、武力で介入しようとする列強からしばしば日本を守った。相手が優れたものであればそれなりの待遇をするのがアメリカ国家というものである。



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